怠惰な母と私と妹

わかさりえる

第1話 愛しか知らない



 太陽がじりじりと肌を焦がしていく感覚がする。歩いているだけで顔中から吹き出す汗は、お気に入りのタオルハンカチで拭っても拭ってもまだ出てくる。まるで噴水だ。

 ここのところ毎日の帰り道は、薄いグラスにたくさん氷を入れたジュースのことばかり考えながら歩いている。今日はオレンジジュースにしようか。それともアイスコーヒー?家まであと数十メートル、数メートル、数センチ・・・。

 「ただいまあ」

 玄関の扉に取り付けてある小さな鈴がリンと鳴ると同時に、クーラーで冷やされた空気がうさを出迎えた。「最高だああ」と小躍りしながら廊下を歩く。リビングに着くと、母は定位置である小窓の前で目を瞑っていた。音を立てないように冷蔵庫を開くと、すでにうさお気に入りのグラスにたくさんの氷、そして紫色の液体が注がれていた。きっと母が直前に用意しておいてくれたのだろう。手に取って、手洗いうがいがまだだったなあと一瞬ためらったが我慢はできなかった。勢いよく飲み干す。葡萄ジュースだった。

「最高だな」

 思わず小さく呟いた。明日から夏休みではない。まだ一ヶ月は学校に通わなければいけないけれど、この瞬間このためならまた明日も炎のような太陽の下を歩いていける気がする。

「うさちゃん、お疲れさま」

 振り返ると母が定位置のままで大きく“のび”をしていた。

「ただいまママ」

「うさちゃんを温かく迎えるために、しっかりと冷やしておきました」

「温かい心遣いだわあ。ありがとう」

 再び冷蔵庫を開けておかわりジュースを物色していると、「今日のごはんはどうする?」という声と共にドスンと、重い荷物を落としたかのような音がした。母が定位置から床へ降りたのだろう。

「うーんそろそろ使わないとヤバイ玉ねぎと、ひき肉があるからハンバーグは?」

「ヤバイ」

 足下まで来ていた母が無表情でうさを見上げる。その瞬間、部屋の温度はさらに下がった気がする。エコだ。

「・・・危ない玉ねぎ」

「ハンバーグおいしそうね」

 にっこりと笑って、うさの足首に頬を寄せた。


 うさの母は猫だ。うさと、妹のももと三人で暮らしている。

 ねこなので、一日のほとんどをリビングにある日当たりが好い小窓の前で過ごす。窓を開けていれば、白いレースのカーテンが風でひらりと踊って、母の体をふわりと撫でる。夕方になると西日が差して、ベージュの毛並みは太陽より眩しくて燃えるような金色になる。母自分の毛並みを、その昔英国のお妃様がこよなく愛した上質な茶葉をゆっくりと煮出して、それをスーパーの中で一番高い牛乳で割った、すなわちとにかく美味しくて上等なミルクティー色だと言い張る。うさとももはコッペパンに似てるよねえとこそこそと話していたが、なるほど確かに、夕方の金色色タイムの時だけは母の背後に英国のお妃様がぼんやりと見える。本猫は気持ちよさそうに鼾をかいて眠りこけているのだけれど・・・。

 ねこだけど綺麗好きなので、三人の家はいつも綺麗に保たれていた。

 ねこなので過度に教育熱心ではなかった。よって、うさとももは自由気ままに育てられた。しかし礼儀や言葉遣いには厳しい一面もあり、当然時には叱られたりもした。

 ねこだけど、ねこなので、至ってふつうに楽しく過ごしていた。



つづく

 ねこに玉ねぎはダメです

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