エピローグ~②
野城は既に五年の実刑を経て出所しているはずだ。けれど今どうやって生活しているかは知らない。傷害致死で実刑を受けている為、さすがに保険代理業はしていないだろう。
損害保険募集人の登録は、禁固刑以上の刑を受けた場合だと執行が終わって三年間できないなどの欠格事由があるからだ。それに例え三年が経過した後でも、事件を起こす前から評判を落とし業績悪化していた経緯もある、
その為、別の仕事に就き働いている可能性の方が高いだろう。それでも前科者に対する世間の目は厳しい。決して若くない年齢もあり、再就職には相当苦労しているはずだ。
和喜田や宇山の家族も高収入を得ていた稼ぎ頭を失ったことで、尊の家族と同じくライフプランは大きく変わったに違いない。特に会社を自主退職するよう迫られ、自殺してしまった宇山の家族などは、親族や周囲の人達から様々な目で見られたと思われる。
中には同情し温かい目で見守ってくれた人もいたかもしれないが、後ろ指を差され冷たい仕打ちを受けていたとしても想像の範囲内だ。
和喜田だって東北の小さな営業所に飛ばされた挙句、意図的でないにせよ殺された理由からすれば、相応の酷い扱いを受けていた可能性は高い。
そう考えれば里浜が言う通り、あの事件を発端として様々な人達の生活が大きく変わったのだ。といって彼女が志穂に刃物を持ち襲うのは筋が通らない。こちらはあくまで被害者である。
「そうよ。私もあなたもそう。だから愛花さんは二つの事件を起こし、逮捕されて裁判にかけられた。そして刑が下されたでしょう。まだ執行猶予中だけど三鴨社長が、失踪したあなたの代わりに雇って仕事をさせていると聞いた。それもあなたがお金と書置きを残したからじゃない。罪は犯したけれど今は更生に向けて努力している。それでは駄目なの」
志穂も同じような疑問を持ちつつ、懸命に彼女の気を落ち着かせようとしていた。しかしその試みは失敗したようだ。
「いい訳ない。これまで私がどれだけ惨めな目に遭って来たか分かるか。目立たないよう気を遣いながら、各地を点々と渡り歩いて日銭を稼いで食い繋いできた。それだって私が愛花の近くにいれば迷惑をかけてしまうと思ったからなんだ」
再度興奮し始め、鋭く光る刃物を持った腕を振り上げた為、後ずさりながら慌てて尋ねた。
「どうしてあなたが一緒にいたら迷惑になるの。娘を一人にするより、母親は一緒にいた方がいいと考えなかったの」
「何を言っているんだ。私が一緒にいて妄想を抱いていると知られたから、あの子は芝元さんを殺そうとしたんだよ。私といたから、母と一緒に死のうとしたんじゃないか」
確かに母親がこれ以上おかしくなり、罪を犯してしまう前に何とかしようとした結果、尊を刺したと証言している。そして母親が自分の犯した罪のせいで再びマスコミの餌食になっている姿を見たくないと考え、祖母と一緒に死のうとしたとも言っていた。
ヤングケアラーとして抑圧されてきたように周囲からは見られているが、愛花にとって母親は憎い相手ではなく、あくまで守るべきまたは愛すべき人だったのだろう。だから自己犠牲も厭わない行動を選択できたと思われる。
その為母親として傍にいればまた異常な行為を招きかねないと危惧し、姿を消して距離を置こうと彼女は考えたようだ。
失踪したのは、裁判官達におかしな母親がいたせいで情状酌量の余地があると印象付け、愛花の判決に影響を与える作戦だったのかとも一時思った。だがその後一切連絡を取らなかった為に理由不明のままだったけれど、これで彼女の意図がようやく理解できた。
それでも彼女が今ここに現れ、志穂を襲う動機は未だよく分からない。
「愛花さんを更生させ、一人で生きて行けるようにと失踪したのね。でも今あなたが私を襲って再び罪を犯せば、また彼女の人生を狂わせてしまうでしょう。それなのにどうしてそんな真似をするの」
志穂の問いに彼女は一瞬立ち止まった。しかし首を振って言った。
「そうかもしれない。でも私は聞いてしまった。あなたが芝元さんを殺したのね。そんな人を生かしてはおけない。罰を受けるべきだわ」
「な、何を馬鹿なことを。何を誰から聞いたというの。尊さんを刺して殺したのは、愛花さんじゃない。私じゃないわよ」
「刺したのは確かに愛花よ。でも殺したのは違う。芝元さんが死に、あなたの母親も病気で亡くなったよね。その後、しばらく経ってからあなたは言ったそうじゃない。私のせいで尊さんは亡くなったんだと。それはどういう意味かと尋ねたら、黙ったままだった」
心当たりがあったのか、志穂が顔色を変えた。それでも否定した。
「確かにそう言った。でも私が殺したという意味じゃない」
「だったらどういう意味よ。ずっと意識の戻らない芝元さんが邪魔になったあなたは、病院で細工か何かをしたんでしょう。それで突然容態が急変して亡くなった。だから自分のせいで亡くなったと言ったんじゃないの。それ以外どういう意味があるっていうの」
「違う。私は尊さんの容態が急変した時、兄と一緒に担当医師といて病室にはいなかった。だから私はおかしな真似なんて出来る訳がないの」
「そんな言い訳は通用しない。他にどんな意味があったら、あなたのせいで芝元さんが死んだなんて言うのよ。正直に白状しなさい。言わないのなら、口を割るまで切り刻んでやる。ここなら和喜田支社長の時のように邪魔は入らない。しっかり調べた上であなたが一人になるのをずっと待っていたんだから。今日は絶対逃がさない」
そういうことだったのか。気付かなかったが、彼女は時々繁忙期に応募するアルバイトの募集を見て、偶然ここにきたのかもしれない。または志穂の実家だと知り興味本位で訪れた可能性もある。身分の確認が杜撰だったので、姿を隠しやすい点も影響したのだろう。
ただ最初から志穂の命を狙っていた訳では無さそうだ。他のアルバイトを含め、農家の人達の噂話を立ち聞きしている内、志穂が先程口にした言葉を耳にしたらしい。そこで真意を確かめる為、一人になるタイミングをずっと狙っていたと思われる。
まずい。彼女の妄想癖は、身近にいた愛花が本気で心配したほどだ。現実に引き戻すのは容易でないはずだ。また明らかに誤解している。よって志穂が何を言っても彼女の望む証言は聞けない為、このままだと本当に切り刻まれてしまう。
どうすればいい。手も足も出ない尊が出来るのは、ボカーソウルとして他人の体に乗り移ることくらいだ。しかしそれで相手の体を自由に動かし止められるとは聞いていないし、第一試していないので、可能かどうかも分からない。
もし乗り移れたとしても、せいぜい喋って二人を驚かせるくらいだろうか。それでも何を話せばいいのだろう。まず尊だと気付いてもらう必要がある。それも里浜の興奮した頭を冷やし、落ち着かせるほどインパクトのある説得をしなければならない。
尊が悩みながら頭をフル回転させている間に、鎌を振り上げた里浜はじりじりと志穂に近づいていく。それを少しずつ後ずさりしながら距離を取ろうと試みていた志穂だったが、とうとう畑の淵にある丘の斜面により逃げ場を失っていた。
「さあ、正直に言いなさい。芝元さんを殺したのはあなたね」
妄想に支配された彼女の頭は、もはや狂っているとしか言いようがない。志穂を視界に捉えながらも、全く違う世界を見つめているような目をしていた。
和喜田もこうして襲われたのだろうか。だったら猶予はない。上空から辺りを見渡しても、誰かが偶然通りかかる気配は全くなかった。
そこで尊は思い切って飛び込んだ。すると驚くほどに、するりと相手の体の中へと入りこめた感覚に陥ったのである。
どうやら成功したらしい。だが手足を動かそうとしたけれど、やはり無理だった。その為、出来ると噂で聞いている行為を試みた。
「違う。俺を殺したのは志穂じゃない。しかし愛花ちゃんでもない」
そう言葉を口にしたところ、どうやら上手く発音ができたようだ。その証拠に二人の動きが止まった。何が起こったのか共に理解できなかった為だろう。当然だ。他に誰もいないはずの茂った丘の斜面に田畑だけが広がる場所で、突然男の声が響き渡ったのだから。
第一段階はこれでクリアできた。問題はここからだ。よってさらに喋った。
「俺は芝元尊だ。死んでしまったけれど、いま世界中で出没しているボカーソウルとして、今この体を借りて喋っている。その証拠に、俺とここにいるそれぞれしか知らないはずの話をしてみようか」
そこでまずは尊と里浜がかつて交わした会話の中の、他人には言わないレベルのどうでもいい話題を口にした。
三鴨の事務所の通路で、何故かそこを通る度に里浜は体をぶつけてしまう個所が一か所あった。それも痛いと意識しない程度なので、本人も殆ど気づかない。けれど家に帰ってみるとそこに痣が出来ているという。
普段は服などで隠れ見えない場所だからそう気にする必要は無いけれど、発見する度にまたやってしまったと、なんとなく嫌な思いをするようだ。
そんな雑談を尊は彼女とした覚えがあった。それは事務所に訪問した際、三鴨が途中でたまにかかってくる口うるさい顧客からの電話を携帯で受け、席を外したほんの僅かな隙に交わした状況まで説明した。
さすがにそこまで知っているのは、尊と里浜しかこの世に存在しないだろう。あとでこんな話をしたと細かく他人に説明していれば別だが、まずあり得ない。彼女もそう理解したようだ。驚きの余り言葉を失い、振り上げていた鎌を下ろしていた。
次に尊は志穂とだけ共有している話題を口にした。以前住んでいた社宅のベランダで洗濯物を干す際、時々風に煽られ隣の部屋との間の仕切りに引っかかるのが嫌だから、少し離すようにしていた。
けれど雨の日が続くなどの理由で、洗濯物が溜まってしまい干す量が多い時は、どうしてもスペースの関係で無理な場合がある。そんな時に限って風が吹き、引っ掛かるのよと尊に愚痴を漏らしていた。
こんな話を聞かされても、そうかとしか答えられない。またわざわざこんな愚痴を言われると、他人に話す内容でもないのは彼女だって分かったはずだ。
よって体に乗り移り喋っているのは、まさしくボカーソウルとなった尊だと信じざるを得なかったのだろう。彼女達は目を見開き、茫然と立ち尽くしていた。
二人が固まった空気を感じ、第二の目的は達成できたと確信を持つ。ならば次の段階に移らなければならない。いつまでこの状況が続くか分からなかったからだ。よって早めに決着をつけた方が良いと考えたのである。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます