第五章~①

 義父の死後から十カ月余り経っても尊の意識は戻らなかった。よって休職期間が過ぎ、会社は退職せざるをえなくなって収入も途絶えたのである。

 ただ労災による治療費は引き続き支払われていた。というもの原因不明の意識障害等により、症状が安定しこれ以上治療を続けても改善しない状態の「治癒ちゆ」と認定され症状固定した場合、後遺障害認定される可能性があったからだろう。

 もしそうなって常に介護が必要とされる一級認定されれば、障害特別給付金が一時金として三百四十二万円、障害年金給付として、年間で算定基礎日額の三百十三日分をずっと払い続けねばならない。

 算定基礎日額とは原則として事故が発生した日の直近三カ月間に、被害に遭った労働者に対して支払われた賃金の総額を、その期間の歴日数で割った一日当たりの賃金額だ。

 総額には賞与や臨時に支払われた賃金が除かれる。それでも尊は高収入所得者の為、いくら長くかかろうとも、治療費の実費を払っていた方が圧倒的に安く済む。だからなのか症状固定はされなかったと思われる。

 また無職になったけれど、それまでの貯蓄に加え三年半の間に貯めた額やその後に入った退職金、会社で加入していた財形貯蓄の解約金や会社の持ち株といった資産等も合わせれば、相当な額にのぼった。

 実家住まいによる支出は少なく、一番かかるのは尊がいる静岡の病院までの往復にかかるガソリン代くらいだ。よって現在の生活を続けている限り、志穂が生活に困ることはまずなかった。

 将来を考え不安になる要素は、強いて挙げれば義母が病に倒れた場合だろう。それでも義母自身の公的年金に加え、農家としての収入もある。無事念願だった法人も設立され、余程の突発的な災難が起きない限り、剛志を含めた今後の生活の安定は見込めた。

 よって彼女は働きに出ることはせず、とはいえ実家に長く居てもやることが余りなかったからだろう。義母達と一緒に早い朝食を済ませたら直ぐ静岡へと向かい病室に行き、夕方近くになるまで帰ってこない日々が続いていた。

 というのも家に居たら居たで近所の人達が寄ってくる。そういう輩は親切心で声をかける振りをしつつ、尊の様子や事件についてなど根掘り葉掘り聞きたがるのだ。

 田舎にいれば、経過する時間の流れや周囲にいる人達への関心度合いが全く違う。よって誰々が今日何をしていたかといった様々な噂話は、あっという間に広がる。

 そういう世界だと、テレビのワイドショーや週刊誌などで取り上げられた志穂や尊の話題は、格好の的なのだ。

 義父が存命だった頃は、彼を気遣ってかそうした話題を表立ってする行為は控えられていた。だがいなくなってからというもの、ここぞとばかりに蒸し返す人達が増えたという。特に大人しい義母は完全な餌食となっていたらしい。

 それでも彼女は良く知らないと首を振り、話から逃れていた。そうなると次に狙われるのは剛志ではなく、当の本人で一時期重要参考人の一人とまで言われた志穂だった。その攻撃を避ける為に、彼女は病室または静岡で時間を潰さなければならなくなったのだ。

 名古屋にいた時も、家に帰れば一人だしマスコミや周囲からの好奇の目に晒される為、かなり長い間病室に滞在するケースは多かった。だが静岡の病院では義父の世話もあった為、短時間の様子見で済ませていた。

 それが再び長時間、病室で目を覚まさない尊の手を握り、じっと見つめるという日々が続いた。余りにもそうしている時間が長い為、心配になった医師や看護師が何度か声をかけていた。

「そんなに根を詰めていたら体がもちませんよ。何度もお伝えしていますが、二十四時間の看護体制をとっていますから、ご安心下さい。何か容態に変化があればすぐにご連絡差し上げますので、少し街を歩くなど気分転換された方が宜しいのではないですか」

 事件発生から数日後に容態は安定したが、意識だけ戻らないという状態になってからもう四年近くになる。当初は魂だけで漂っている尊の精神状態が不安定になれば、本体の容態まで急変する事態が起こっていたけれど、最近だとそこまで大きな影響は出ていない。

 医師も何故意識が戻らないかは全く分からないという。脳の損傷は見られない為、刺された時のショック状態による一時的なものだという見解が直ぐに崩れた。体の機能や脳波には異状なく、いつ目を覚ましてもおかしくない状態だけが続いているというのだ。

 よって尊が体から離れ浮遊しているからだと思い、戻ろうと何百回も試しては見た。けれどこの四年近くの間で、一度も成功していない。

 その代わりと言っては何だが、病室を訪れた事のある人の頭の上には自由に取り付き、その人についてあちこち移動し色んなものを見聞きする技は身に着けた。

 それでも名古屋にいた頃と違い、静岡に来てからは病室や実家、またその周辺以外ほとんど寄っていない。

 以前いた名古屋の病院では身内と医師や看護師以外にも、警察関係者が度々訪れていた。けれど静岡への転院後は、事件の捜査の進展もなく管轄の愛知県警から離れた事情もあるのだろう。転院当初に刑事達が一度来てからというもの、以降は全く立ち寄っていない。

 志穂の方から時折、久慈川には電話で連絡を入れていた。内容は捜査の進展があったかどうかを尋ね、向こうからはこちらの容態に変化がないか、または変わった様子はないかなどの確認をされ、お互い何もないと言って通話を終えていた。

 特に義父が闘病していた頃は彼女自身が忙しかったので、そうした会話も少なかった。またその後も特に伝える話題がなかったからか、尊の退職が決まった事情やその後引き続き静岡で過ごすことにしたという話以外、特別連絡は取っていなかったようだ。

 この頃の尊は義父が亡くなった直後に沸いていた、刺した犯人を見つけだそうという気力は失っていた。それどころか会社を正式に退職したこともあり、将来に希望が持てずにいた。目を覚ますという望みさえ諦めており、漫然と流れる時を過ごしていた。

 しかしそんな穏やかな日々が再び動き出したのは、義母が体調を崩し検査入院の為にと同じ病院を訪れてからだった。診断の結果、彼女は肝臓がんだと判明したのである。

 義父が罹ったすい臓がんと似て症状は出にくく、また日々元気に畑仕事で忙しく働いていたせいで毎年行っていた健康診断をたまたま一回行かなかったからだろう。発見も遅れたステージⅣで、かなり進行していると医師から伝えられた。

 各所に転移が見られ、同じ年齢の人より体力があるとはいえ、今年で七十六歳になる。よって手術で摘出しても、かなりの部分は取り除けない可能性が高いだけでなく体に負担がかかる為、困難だと判断されたようだ。義父の時と同じである。

 今後の治療方針としては、抗がん剤等を使っての化学療法が最も効果的だと説明を受けていた。それを聞いた志穂は相当ショックだったのだろう。もちろん義母本人もかなり落ち込んでいた。

 そんな時だ。剛志も忙しい仕事の合間を抜け病院を訪れドタバタとしている際、尊の容態が急変したのである。つけられた生命維持装置の警報が鳴り出し、医師や看護師達が駆け付け、かなり危ないと分かり慌てて志穂達を病室に呼んだ。

 その時尊は志穂の頭に取り着き、義母のいない場所で剛志と一緒に担当医師からの説明を再度受けていた。義父と生前に話し合っていた経緯から、義母も同様に化学療法による延命治療は受けないと言い出したからである。

 その為、もし自宅で療養するとなればどうすればよいか、などを確認していたのだ。よって自分の体から離れており、容態の急変には全く気が付かなかった。

 内臓の場所が異なるとはいえ義母までも同じく末期がんに罹ったと聞き、尊自身も動揺していたのは確かだ。けれどそれが体に影響したかは全く分からない。無いとも言い切れず、あるとも言えない。

 しかしここまで尊の本体が命の危険に脅かされたのは、幽体離脱して以降初めての経験だった。その為これまで以上に混乱し狼狽したからか、本体の容態はなかなか改善しなかった。そして結局そのまま心肺停止状態に陥り、やがて医師から死亡宣告をされたのである。

「どうして、どうしてですか」

 丸四年近くもほぼ安定した状態だったのに、このタイミングでの急変は余りにも突然すぎた為、納得できなかったのだろう。志穂は泣き崩れながら医師に詰め寄っていた。それを剛志が後ろから引き留めていた。

「止めろ」

「だっておかしいじゃない。自発呼吸できていて、意識が戻らないだけの状態だったのにどうして急変するのよ。二十四時間の管理体制だったはずでしょう」

「どうやら急性の誤嚥性肺炎を起こされたようです」

 言葉少なに語る医師の説明に、彼女は納得しなかった。

「夫はカテーテルを通して栄養補給をしていたはずですよね」

「はい。ただ誤嚥性肺炎は食べ物や嘔吐物に限らず、唾液などが気道内に吸引されて起こる場合もあります」

「そうならないよう、監視をしていたんじゃないんですか。口腔内に菌が繁殖しないよう、ケアもされていましたよね」

「もちろんです。しかし長期に渡って寝たきり状態で頭部の姿勢維持が困難になっていましたし、内臓などを取り巻く体全体の筋力も低下していました。ですから容態は安定していても、意識が戻らない間は急変するリスクが常にあるとお伝えしていたはずです」

 そう言われ反論できなかったのだろう。彼女は押し黙った。しかしまだ腑に落ちていないと感じた剛志が代わりに質問した。

「容態が急変した時に知らせる維持装置の警報は鳴ったんですよね。それに不具合があった訳ではないのですか」

 維持装置といっても人工呼吸器や人工心肺装置を着けていた訳ではない。自発呼吸をしていて心肺機能に問題が無かったからだ。それでも意識が戻らない為、体を動かせない状態の継続は、筋力の減少を招いていた。

 筋力は手足を動かす骨格筋だけではない。内臓等を動かす心筋や平滑筋もあり、寝たきりが続けばどうしても衰えてしまうのだ。よって今回のような誤嚥を引き起こした場合、その状態を抜け出す為の基礎的な筋力が無い為、容態が急変しやすいという。

「警報装置が鳴らなかったのなら、故障といったトラブルが起こった可能性もあり得ますが、今回は違います。よって機器のトラブルとは考えにくいと思われます。ただ芝元さんの場合、ここに至るまでの事情が特殊ですから警察への連絡は致します。そこで医療過誤がなかったかどうかも確認されるでしょうし、私達も調査します。その結果は改めてご連絡させて頂きますので、ご了承ください」

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