第四章~②

 彼らの田畑は広大だ。昔に比べれば機械化が進んだといえ、農作業は人の手でないとできない仕事が多くあると聞いていた。稲作とは違って野菜や果樹は摘果や摘花、収穫や箱詰めなどほぼ手作業だという。しかも手間のかかる有機農法を採用している為に余計だ。

 その為三人の内一人でも欠けると大変だから、下手に風邪などひいたりも出来ないと笑い話のように語っていた記憶がある。

 収穫時の繁忙期等どうしても手が足りないという時は、近隣農家と協力するだけでなく共同で全国から短期アルバイトを募集していた。学生や農業に興味を持つ若い人、連休を利用した会社員や定年退職した人達、または外国の留学生や職探しに困っている人達等が多いらしい。

 作業は単純作業が中心なので農業未経験者でも問題なく、一日だけや週末だけと働く日数も柔軟だという。採用も殆どが募集サイトや電話などで簡易的に済ませるのでハードルが低いからか、意外と人気はあるようだ。

 けれど結構な人数が集まる場合もあったと思えば、そうで無かったり直ぐに辞められたりするケースもあるとも聞いいていた。よって安定した労働力の確保はなかなか難しく、多くの農家が頭を抱える問題なのだ。

 彼女は当然理解しているのでそう質問したところ、義母がぎこちない表情で答えた。

「今の時期はそれ程忙しくないから。それに近所の人で一人、手伝いに来て貰っているの。だからそっちは何とかなっているのよ。まあ、剛志の負担が大きいのは確かだけど、お父さんの跡を継ぐんだから頑張って貰わないとね」

「今はそうでも忙しくなってきたら、応援を入れたって二人だけでは絶対無理でしょう。お父さんかお母さんのどちらかが欠けるだけで大変だと言っていたのに、要領が良く分からない手伝い一人だけだったら、大した戦力にはならないんじゃないの」

「いやいや、剛志が手伝えるようになる前、お父さん達は二人でやっていたんだから」

 今四十七の彼は高校を卒業してから、本格的に畑の仕事を始めた。よってもう三十年近く前の話だ。その後作物の数を増やすなどの努力の結果、専業農家としてどうにかやっていける程度になったと聞いている。それがここに来て、応援要員がいるとはいえ一気に二人が欠けたのだ。

 田畑だけの話ではない。食事の用意はまだ何とか出来ているかもしれないが、義父の介護をする義母の負担は大きいはずだ。病人と健康な成人とでは食べるものが違う為に手間が増える。精神状態も不安定に違いなかった。

 尊が危惧していたように、志穂も同じく不安になったようだ。

「お母さんが今、お父さんにしてあげている事って何。食事を作る以外にどういう世話をしているの」

「そ、それは、」

 言い淀む義母に彼女は詰め寄り、自宅における介護状況を事細かに確認していた。

 話によると、まずここ最近は相当食欲が落ち始めたので食べやすいようにと流動食等を作っているが、それにも限界があるという。その為、往診に来てくれる医師の指示でそろそろ点滴による栄養補給に移行する予定らしい。

 また公的の介護保険を使って訪問してくれる介護士により、入浴等の手伝いをして貰っているが、全てを任せる訳にはいかないようだ。足腰が弱っているので転倒の危険を考慮し、義母はトイレなどの付き添いもしているという。

 他には痛みを訴えた時に薬を飲ませたり擦ったり、起きている時の話し相手になる等、ほとんどの時間、義父の傍に待機していると分かった。

「大丈夫よ。ヘルパーさん達も来てくれるから、私一人で全部している訳じゃないの」

 そう強がっていたけれど、半年前とは違う義母の疲れた表情を伺う限り、相当な心労を抱え体力的にも厳しいと思われた。下の世話などもしているようだが、以前より軽くなったとはいえ義父の体を華奢な義母が支えるにはかなり無理があるからだ。

 平屋で和室ばかりの部屋が多い為、近代的な家よりは元々段差が少なく、扉も引き戸になっている場所が多い。よって手すりがあれば比較的移動はしやすいだろう。

 それでも女性が男性を支えるとなれば一苦労だ。まして入浴の手伝いなんて重労働の為、毎日はしていないという。せいぜい濡れタオルで体を拭く位らしい。とはいえ冬の寒い時期に、温かいお湯を張った風呂に浸かれないのは辛いだろうと心配になった。

 もちろん他にも家事はある。剛志の物を含めた洗濯や部屋の掃除もしなければならない。ほぼ寝たきりとはいえ目が離せない病人がいる中で、そうした作業をするのは至難の業だ。

 そんな厳しい状況を知った限り、志穂は放って置けないと考えたのだろう。それでもさすがに躊躇していた。それは大きな決断になるからだ。しかし打つ手は一つしかない。

 彼女はようやく決心したらしく、大きく息を吸いこみ吐いてから言った。

「私達がこっちへ引っ越してくるよ。そうすればお父さんの世話は私が出来るし、お母さんは農作業に出られる」

「な、何を言っているの。尊さんはまだ病院で目を覚まさないままでしょう」

「今は意識が戻らないだけで、容態は安定している。点滴で栄養補給をしているだけだから、基本的にそれ程特別な処置はしていないの。だから病院を変わったって同じ対応は出来るはず。だったらここから一番近い病院へ転院すればいい。静岡市内ならあると思う。それなら私は毎日車で一時間弱走らせれば通える。それ以外の時間はお父さんの面倒を看られるでしょう」

「それは駄目だ」

 志穂の言葉に被せ、義父がそう言って起き上がろうとした。それを見た義母が慌てて支え、介護ベッドの電動ボタンを押し、背上げしながら同じく言った。

「そうよ。あなたは今まで通り過ごしなさい。尊さんの容態がいくら安定しているといっても意識が戻らない以上、急変する可能性は否定できないと病院から言われているでしょう。今動かしたらどうなるか。そんな危険を犯してまで来る必要は無いわよ」

「もちろん可能かどうかは、病院の先生達に聞いて確認するわよ。でも出来ると言われたら、直ぐにでも転院して貰う。だって時間がないでしょう。それともお父さんが亡くなるまでそう長くないから、このままでいいというの。そんなことは絶対にさせない」

「我儘を言うんじゃない」

 リクライニングさせて顔を起こした義父が、叱るような口調で言った。しかし彼女はそれ以上に語気を荒げて反論した。

「どっちが我儘よ。私に内緒でこんな真似をして。必要以上の延命治療をしないと決めたまでは、まだ理解できる。少しでも長く生きて欲しいと考えるのは、私達周りにいる人のエゴでもあるから。自分の命の最後をどう迎えるか決めるのは、本人の意向が優先されるべきだとも思う。だからといって、娘の私に何も言わないなんてあり得ない。もし今日ここへ帰ってこなかったら、私はお父さんの最期を看取れないままだったかもしれない。ここまで育ててくれた大事な親を、どう見送るかまで勝手に決めるのはそれこそ我儘よ」

 志穂の言い分も理解できたのだろう。義父達は言い返せず沈黙した。尊がもし元気で通常通り働いていたら、間違いなく彼女を実家に帰らせていただろう。

 それが半年か一年続こうが、単身赴任していると思えばいいだけだ。元々それ位の覚悟はしていた。義父の闘病生活がもっと長引くと分かれば、静岡近辺に異動願いを出していたかもしれない。

 だが意識のないまま寝たきりで休職期間中の尊の存在が、どちらの選択も出来なくさせている。これまで何度も繰り返し感じてきたが、改めてこんな状態に陥ってしまった自分の無力さと不甲斐なさ、また犯人に対する怒りを強く持った。

 それでも今出来る事は何かと考えた時、彼女の選択が正しいと思った。転院可能かどうかや受け入れ先の病院がどんな体制になるかなど、確認しなければならない点はいくつかある。他にも決断しなければならない課題はあるだろう。

 ただ意識が戻らない尊に対し、志穂が実際出来るのはただ目を覚ますまで見守るだけだ。病院側が二十四時間体制の完全看護をしている間、そうするしかないのが現状だった。ならば今は彼女の費やす労力を、義父の看病に少しでも充てる考え方は合理的といえる。

 秘密がばれてしまった以上、義父達も娘の想いをどう処理すればいいか悩み始めたようだ。そこで気が付いたのだろう。義母が口を開いた。

「あなたの気持ちは良く分かるし、とても有難いわよ。でも尊さんは今会社を休職中じゃない。それは目を覚まして回復すれば、元の部署に復職できる期間なんでしょ。だから社宅もそのまま借り上げたままになっていると言っていたわよね。そんな時に勤務先の名古屋から引っ越しなんてできるの」

 鋭い指摘だった。病院の転院より先に、まず会社がそれを認めるかどうかの問題だ。義母の言うように、本来ならそのままの場所にいて回復するまで待つ必要がある。

 現在も定期的に和喜田の次の次に赴任した新支社長が病院を訪れ、担当医師と面談していた。診断書を出して貰い容態を確認し、本社に申請して休職期間の延長をその都度行わなければならないからだ。

 もし病院が静岡という場所に変わったら、それが簡単にできなくなる。わざわざ管理職が名古屋から静岡に通うというのは、やや無理があるだろう。また意識が戻った場合、その状態を確認しなければならない為、現実的ではない。

 といって全く関係の無い近くにある静岡の管理職に任せるのも不自然だ。休職中に静岡へ異動させるとなれば、例外中の例外となる。そうした諸々の問題を会社が承諾するだろうか。

 もちろん会社を退社し帰宅途中に起こった災難であり、労災認定もされた事案だ。医療費だけでなく傷病による休職期間は、ほぼ満額に近い給与が保障され支給されている。

 とはいえ意識不明の状態が二年近く続き、三年半の期限までに復職できる確率はどんどんと少なくなっていた。よって会社の立場なら、退職して貰う方が有難いと考えるはずだ。

 そうすれば治療費は、労災で症状固定されない限り払い続けなければならないけれど、給与の支払いをしなくて済む。また正式な欠員となれば、現在補充要員として臨時に人を確保している状態が解消される。

 つまり新たにどこからか、支社長代理または相応する年次の営業社員を配置させられるのだ。ただでさえ尊の刺傷事件以後、中央支社はトラブルが続いている。支社長の和喜田を変更したまでは良いけれど、宇山が問題を起こしてしまった。

 その為に急遽自主退職させ、代わりになる次席クラスを呼び寄せた上、変えたばかりの支社長も異動させた。それでも主要代理店だった野城の扱い高が激減し、さらに刑事事件まで起きてしまったのだ。

 里浜は三鴨の会社に再就職し、落ち着きつつあるという。だがやはり意識の戻らない尊の存在や刺した犯人がまだ逮捕されていない点も含め、通常の状態に戻ったとは言えない。  

 それに警察の捜査は少なくとも、殺人未遂事件の公訴時効の二十五年は引き続き行われるはずだ。そんな状況の中、もし尊が退職し名古屋からもいなくなれば、会社は相当安心するだろう。混乱を極めた中央支社だけでなく、支店や本部自体が平穏を取り戻すきっかけになるからだ。

 被害者が社員でなくなれば、周辺をうろつくマスコミの数やその影響の減少は期待出来て、新体制も構築できる。よって志穂が転院と転居が可能かを会社に打診すれば、それなら会社規定を盾にし、退職するよう促されるかもしれない。

 その点は志穂も気づいていたようだ。その為先手を打つように言った。

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