第四章~①

 尊の刺傷事件における不幸の連鎖は、さすがにもう止まったかに思えた。しかし直接的な関連はないけれど、さらに時が経過する内に新たな災いが尊達の身の回りに起こっていた。

 続く時はそういうものかもしれない。とはいえ何も手助けできず傍観しかできない尊は、またまた気分が落ち込んだ。

 発覚したのは、志穂が静岡の実家に一時帰宅した時だ。尊の意識がいつ戻るか分からない。それでも毎日欠かさず病室を訪れていた為、彼女は二年近く帰省できていなかった。  

 彼女の両親が病室を訪れてくれたけれど、それも二度だけだ。農家の仕事等で忙しく、手がなかなか空かないからやむを得ない。彼女の兄の剛志に至っては一度だけだった。

 尊が元気な頃、正月になると必ず帰省していた。他にも長期の休みを取った際、旅行計画を立てたその前か後で静岡にはできるだけ寄るようにしていた為、一年で最低二回は顔を会わせていたのである。

 東京の実家には寄らずに済んでいたからだが、彼女の両親や剛志はいつ行っても温かく迎えてくれたし、居心地が良かった為でもあった。

 もちろん志穂も田舎の空気を吸うと安心するのだろう。また実家なら家事をしなくて済む。上げ膳据え膳の生活は、専業主婦にとっていい休みになっていたと思われる。

 それが叶わなくなり、また日々蓄積していくストレスの発散先が見当たらなかったのかもしれない。そこで思い立ったように、一日二日でも実家へ帰ろうと計画を立てたのだ。

 その際、彼女が両親にいつ行くと事前に連絡を入れていれば、事情は変わっていただろう。だが急な思い付きだったこともあり、また尊から目を離すと言って反対されたら困ると考えたのか、突然顔を出して驚かせようとしていたのか、内緒で帰ったのである。

 そこで彼女は年が明け数日経ってから自家用車を運転し訪問した。もちろん尊は一人で病室にいるのも寂しいので、彼女について行った。それに会話は交わせないけれど、義父母達の元気な姿を久しぶりに見たいと思ったからでもある、

 ところが玄関先に出て来た義母のさくらは、志穂の姿を見て目を見開きながら言ったのだ。

「あ、あんた、ど、どうしたの」

「びっくりしたよね。尊さんは相変わらず。だから申し訳ないと思ったけれど、ずっとこっちへ帰っていなかったじゃない。だから心と体を休めようと、看護師さん達にお任せして来ちゃった。目を覚ましたり容態が急変したりした場合は、直ぐ連絡してくれるようにお願いしてきたから大丈夫。車を飛ばせば二時間余りで着くからね」

「そ、それは、あんた、駄目でしょう。尊さんがもし目を覚ました時、あなたがいなかったらがっかりするじゃない」

「それはそうだけど、一年半以上毎日ずっと待ち続けてきたんだから、少し位休んだっていいじゃない。お母さん達だって余り根を詰めないようにしろと忠告してくれたでしょう。前は一度こっちに来て休んでもいいから、とまで言ってくれていたのにどうしたの」

「だ、だからって、連絡もなしで来なくてもいいでしょう。それならあなたの代わりに、私かお父さんが尊さんに付き添えたじゃない」

 冬の寒さで空気は冷たかったけれど、良く晴れた平日の午前中だった。冬でも収穫できる作物はあるし、それまでの世話も必要だ。

 よっていつも通り畑に出ていると思っていたはずの母が家に居たこともあり、志穂は驚いていた。だがそれ以上に、狼狽し家へ上がらせまいとする態度に彼女は困惑したようだ。

「どうしたの、お母さん。とにかく帰って来たんだから上がらせてよ。一人で慣れない長距離を走って来たんだから、少し休ませてくれないかな。荷物も置きたいし」

 尊が健在だった頃、通常彼女は車の助手席に座っている事が多かった。それでも免許は持っていた為、尊が会社でいない時等、買い物などの為に多少運転をしていた。しかし一人で長距離となると、結婚してからは初めてだったはずだ。

「そ、そうだ。荷物は預かるから、畑にいる剛志の所へ行きなさい」

「どうしてよ。それよりどうしてこんな時間にお母さんが家にいるの。畑はどうしたの」

「そ、それはちょっと用事があって、戻っただけよ」

「そうなんだ。じゃあ、上がらせて貰うからね」

「ちょ、ちょっと、待ちなさい」

 ただならぬ母親の様子を見て、何かあると感じたのだろう。志穂は強引に玄関の扉を開け、靴を脱いで中へ入ろうとした。その玄関先で気付いた為に尋ねた。

「お父さんもいるの。それにこれ、いつ付けたの」

 畑に出る際に履いていく靴が置かれたままだったからだ。しかも以前にはなかった手すりが、いつの間にかところどころに設置されている。

「い、いや、あの」

 明らかに動揺する彼女の振る舞いを見て、何か良からぬ事態が起こっていると察知したようだ。尊も嫌な予感がした。

「お父さん、いるの。何かあったの」

 ずかずかと奥に進む志穂の後ろを、義母がおろおろと追いかけていた。尊も空中に漂いながら部屋を進む。その先には義父達の寝室があった。

「お父さん、いるの。志穂だけど入るよ」

 彼女は思い切って引き戸を開けた。その先は畳の引かれた広い和室だったはずだが、その中央に異質なものが置かれていた。大きな介護用ベッドだ。そこに義父の秀志が横たわっていたのである。しかも見るからに頬がこけ、病人だと分かる容姿だった。

「お、お父さん、どうしたの」

 志穂が枕元に駆け寄った。義父は起きていたようだが、何も言わず潤んだ目で彼女を見ていた。尊は天井付近に浮かび彼の頭から足の先まで観察したが、包帯を巻かれたりはしていない。よって怪我でなく、何らかの病だと理解できた。

 義父の顔を見たのは確かほんの半年ほど前だ。その時は以前と変わらない様子で、長年の農作業で鍛えられたがっしりとした体や太い腕をしていた。それなのに今は全体的に細くなり、弱弱しく見える。こんな短期間で何があったのか。

 その疑問に答えてくれたのは本人だった。

「黙っていて済まない。心配をかけてはいけないと思い何も話さなかったが、以前そっちへ見舞いに行った直ぐ後に受けた病院の検査で、すい臓がんだと診断されたんだ。既に末期で手術するのも難しい状態だと言われた。それで無理な治療は辞め、自宅療養することにしたんだ」

 絶句する志穂の後ろで義母が泣き出した。尊も見えない背中に悪寒が走った。

「余命半年、長くて一年程度だろうって」

 義父は首を振った。

「もう今年で七十四になる。あと八年もすれば平均寿命だ。少しばかり早いだけだよ」

「何言っているの、お父さん。どうして手術を受けなかったの」

「だからもう手遅れだったんだ。何ヵ所かに転移していて、無理に切除しても体に負担をかけるだけで、完全に除去するのは難しいと言われた。それなら止めようと決めたんだ」

「手術をしなくても、入院して治療するくらいはできるでしょう。それもしないで、どうして自宅療養なんてしているの。お母さんは何故反対しなかったのよ」

 志穂が振り向き、義母にまで噛みつき始めた。だがそれを義父が制した。

「やめなさい。俺がそうしたいと言ったんだ」

 そこから淡々と説明された。話によれば義父の友人が、一年半余り前に同じくすい臓がんで亡くなったらしい。長く親しくしていた関係から何度も見舞いの為に、病院へ足を運んだという。 

 その人も義父と同じく体調がすぐれないので病院に行ったところ、直ぐに検査入院が必要だと言われた。結果末期がんと診断され、手術も難しく一年もたないと宣告された。

 しかし家族が少しでも長く生きて欲しいと要望し、手術をした後も入院して放射線治療などを行ったようだ。それでも結果的には、診断されてから一年半後に亡くなったらしい。半年余りではあるが、遺族の願いはある程度叶ったと言える。

 けれど義父は見舞いに行く度、痛い、辛い、殺して欲しいと呟く友人の様子を目の当たりにしたという。その上家族には言わないで欲しいと約束させられた中で、告白されたらしい。

「手術なんて受けたくなかった。まだ七十過ぎたばかりで死ぬのは早いと皆に言われたが、俺は十分に生きたと思っているし未練などない。それに延命治療でこんな苦しい思いをし、病院のベッドに寝たきりなのは嫌だ。本当は帰りたい。どうせなら長く住み慣れた家で過ごして死にたい。けれど周りが許さないんだ。でもそれは俺を思ってのことだと分かっているから言えない。それが辛いんだ」

 そう聞かされていた義父は彼の葬儀が終わった後、義母と話し合ったという。そこで自分達に今後何かあった場合、下手な延命治療はせず家で静かに寿命を全うしようと決めたようだ。

 その方が残された相手の負担も軽くなる。友人の家族が皆、介護に疲れ切った顔をしていたからこそ、また葬式をあげた際のどこかホッとした表情を目にしたからこそ、固く約束をしたらしい。

 初めて耳にする話だった。志穂も同じくそうだった為に尋ねた。

「そんな話、聞いていないわよ。どうして黙っていたの」

「彼の見舞いを始めたのは、尊さんの名古屋への異動が決まった頃だ。しかも事件に遭ってしばらく経った後であいつは亡くなった。病気だと分かってから色々話を聞かされていた時、尊さんが初めての営業で苦労していると耳にしていたから、お前達に余計な話をする必要は無いと思ったんだよ。その後もそんな余裕なんて全くなかっただろう」

 力なく、時折苦しそうにしながらも語った父親の姿と、その傍らで静かに頷く母親を見ていたら、志穂は何も言えなくなったようだ。肩を落として最後には涙を流しながらじっと耳を傾けていた。

 血の繋がった三人の様子を見て、尊はただ上からじっと眺めているしかなかった。病を抱えた本人が決め、その伴侶が哀しみを押し殺して従っているのだ。その娘も二人の決断を受け入れようとしている。そこでふと彼女は思い出したように尋ねた。

「お兄ちゃんはどうしているの。今は畑に出ているの」

「そう。お父さんがこんな状況になったし、一人で放って置けないから私が側にいるでしょ。だからあの子には私達がいない分、働いて貰っているの」

「二人が抜けた分、一人だけだと補えないのにどうしているの」

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