第三章~⑦
三鴨は事件から一カ月ほど経ち落ち着いた頃、一度お見舞いに来てくれている。よって志穂と面識はあった。里浜と娘の愛花にも会っている。けれど彼女達が病室へ来たのはもちろん初めてだ。事件後の騒動でそれどころでは無かったからだろう。
しかし時が過ぎ、見舞いに行きたいと里浜が言い出したようだ。三鴨はその相談を受け同席すると請け負ったが、もし断られた場合は素直に引き下がると条件を付けたらしい。
けれど志穂は彼女達を受け入れただけでなく、頭を下げたのだ。
「夫がこんな事件に遭ったせいで、里浜さんにも大変なご迷惑をおかけしました。申し訳ありません」
「いいえ、こちらこそお騒がせして申し訳ございません。奥様にそう言って頂き恐縮です」
里浜はさらに深く頭を下げた。その横で愛花もぺこりと頭を下げた。以前会った時は中学一年生だったはずだから、今は中三で今年高校受験を迎える年だ。そんな時期に母親の為だろうが、良く知らない人の見舞いに付き添わされるのは気の毒に思えた。
普段から家事は彼女の役目だと聞いていたし、里浜の母親の介護もあるはずだ。それに今日は平日だから学校はどうしたのか。志穂もその点が気になったのだろう。または里浜との会話を避ける為だったのか、三人を椅子に座らせてから遠回しに尋ねた。
「愛花ちゃんだったわよね。勉強だけじゃなく、家事やお祖母さんのお世話で大変だと聞いているけど、そんな忙しい時にわざわざ来てくれたのね。有難う」
俯いて、時折チラチラと志穂やベッドに横たわっている尊の様子を見ていた彼女は、黙ったまま首を振った。その為里浜が代わりに説明し始めた。
「今日は学校がお休みで、母の世話はデイケアの方達にお願いしていますから」
志穂はその答えに対し、彼女ではなく横の三鴨に質問した。
「でも仕事はお休みではありませんよね。プロ代理店の方は土日だろうが夜中だろうが、事故があると呼ばれたりして、休みはなかなか取れないと夫から聞いたことがあります」
「そうですね。ただ緊急の用件がない時は、平日でも自分達のペースで予定を組めば、割と自由な時間がつくれるんですよ。それに普段から私だけじゃなく彼女も営業で外出していますから、お気になさらないで下さい。それにそう長居するつもりはありませんし」
里浜もそれに頷き、横たわっている尊の様子を横目で見てから口を開いた。
「こんなことを私からお尋ねするのは失礼かもしれませんが、芝元さんはこの一年半余りも、ずっと意識が戻らないと伺っていますけど、容態は如何なんですか。すみません。誤解しないで下さいね。私は早く目を覚まされて、またお元気になられることを願っています。色々お聞きになっているかもしれませんが、芝元さんには本当に助けて頂きました。ですから感謝こそすれ、憎しみを持った事などありません」
三鴨がそこに付け加えた。
「彼女は純粋に彼の容態を心配しているだけです。刺した犯人だとあらぬ疑いをかけられていましたけど、強固なアリバイがあったのは事実ですから。もちろん週刊誌やテレビで騒がれたように、彼女が芝元さんを憎からず思っていたのは間違いありません。近くにいた私や彼のペアだった事務職の吉岡さんも気づいていましたし、本人も分かっていたでしょう。ただそれは彼女も先程言ったように、あくまで彼が仕事上でしてくれた援助に大変感謝していた結果なんです」
すると今度は里浜が話し出した、
「確かに今考えれば、私は周囲から過剰と思われるほど芝元さんに頼り、誤解されかねない言動をしていたと思います。それは警察にもお話ししましたので否定できません。ただ週刊誌等で書かれたような奥様から奪うだとか、それが出来ないから愛情が憎しみに変わったなどという事実はありません。私は娘を産んだ元夫と上手くいかず離婚したので、仲の良いお二人を羨んではいました。家計を支える為に走り回っていますから、芝元さんのように高給取りで優しく奥様を大事にされる人がいたら、と思ったことも確かです。ただ一度偶然、ばったりと商店街でお会いしましたよね」
志穂は黙って頷く。その様子を確認してから続けた。
「それまでも、お二人の間にお子さんがいらっしゃらないからかとても仲が良く、愛妻家だとは耳にしていました。奥様は会社の元先輩だった年上の方で、とてもお綺麗だとも伺っていました。しかし今だから言えますが、私は心の中で嘘じゃないのかと疑っていたのです。愛妻家ではなく恐妻家なのではないのか。そう思っていました。実は釣りに関してばかり綴っているという、芝元さんのSNSのアカウントを発見しずっと見ていた時期がありました。そこには本当に釣り以外の事は一切触れず、仕事だけでなく奥様とのプライベートについて一言も書かれていませんでした。こんなアウトドアの趣味は一人でするものだろうし、本当の愛妻家だったらそんな休日の過ごし方をするだろうか。そう思っていました」
それは違う。だが尊の代わりに志穂が首を横に振り説明し始めた。
「あのSNSは彼が会社に入る前から始めていたものです。趣味の範囲で釣り仲間だけの情報交換を兼ねていた為に顔と名前を晒していたようですが、ご存じのようにあの業界では名が知れてしまい拡散されてしまいました。ですから既に晒した名前と顔を除き、釣り以外に関しては一切個人情報に繋がるものを書き込まないようにしていたのです。それは社会人になってからも同様で、会社にも知れ渡っていた為、注意を受けていました。それは部署が変わる度、上司が変わる度に報告し、確認していたと聞いています」
「それは私も彼と話した覚えがあるな。だからあの和喜田支社長にも報告したらしい。そこで色々嫌味を言われたようだ。支社長からも、彼が余計な真似をしているので心配だと愚痴を漏らしていたのを聞きましたから」
三鴨がそう言うと、志穂は頷きながら続けた。
「私もそう聞いています。だからという訳ではないですが、こちらに赴任してからは営業という未経験の部署だったこともあり忙しかったので、一度も釣りに行けませんでした。だからご存じなかったでしょうが、結婚してからは私もほぼ毎回同行していたのです。もちろんその点には一切触れていませんし、周囲にも伝えていませんでした。彼が釣りに出かけている間、私は別の用事で外出して自分なりに楽しんでいるという体裁を取っていたほどです。実は彼の指導のおかげで、結構な腕前なんですよ」
初めて耳にする話だったからか、里浜は目を丸くした。三鴨も驚いていたが、釣りに行けていない話は雑談などで聞いていたのだろう。彼女は納得したように頷いていた。
「そうだったんですか。でもそう伺って腑に落ちました。私が言いたかったのは、偶然お二人が一緒にいるところを実際この目で見た時、愛妻家で仲が良いという話は本当だったのだと思い知らされたからです。ほんの少しの時間でしたが、それでも分かるほどの雰囲気を感じました。ですからその後、私が抱いていたおかしな考えを捨てたのです。誤解しないで下さい。あくまで頭の中での想像です。芝元さんのような方がもし私の旦那さんだったら、と勝手な妄想をしていただけですから。それでも気持ち悪いですよね。申し訳ありません」
そう言えば彼女達と商店街で会ってからは怖くなったせいもあり、特にこちらからの接触をなるべくせずに済むよう避けていたが、彼女からの電話攻撃も少なくなっていた気がする。
あの頃は単に吉岡のおかげで助かっていると思い、全く気付かなかった。けれど実は彼女の熱が、以前より冷めていた為だったようだ。
再び頭を下げ謝罪する彼女に、志穂は理解を示したのだろう。
「顔を上げて下さい。こう言ったら失礼かもしれませんが、いくらなんでもよそ様の空想まで止める権利は、妻の私にもありません。それより何度も言いますが、あんな事件が起こったせいで、里浜さんだけでなくご家庭までも大変な騒動に巻き込んでしまいました。それに夫を刺した犯人を明らかにする為、和喜田支社長を襲ったと伺いました。私が頭を下げるのは筋違いかもしれませんが、それで逮捕されてしまったのですから申し訳ないと思っていたのです。お詫びではなく、そこまで夫の事を思って頂いたと感謝の意味で頭を下げさせて頂きます」
そう言い顔を伏せると、彼女の方が恐縮し慌てた。
「奥様、そんな事はしないで下さい。私が勝手に馬鹿な真似をしただけです。母や愛花がいるというのに暴走したのが間違いでした。本当に反省しています。私が事件を起こしたせいで、またマスコミが騒ぎ出しこちらにも押しかけられたと伺いました。今回は芝元さんのお見舞いだけでなく、その点についてもお詫びしたくて参ったのです。申し訳ございませんでした」
頭の下げ合いとなった為、三鴨が間に入った。
「まあまあ、お互いそれくらいにしましょう。里浜さんが伝えたいことは、もう十分理解して頂いたと思います。それに奥様が頭を下げられるのは、やはり筋違いです。いくら芝元さんを刺した犯人が憎いからと言って、和喜田支社長だと決めつけ刺したのは明らかに間違いだった」
そこで顔を上げた志穂が、里浜に向かって質問した。
「警察の方から事情は伺いました。和喜田支社長から聴取をして、犯人ではない可能性が高いとも言われました。どちらにしても確たる証拠が無いと。でもあの人は東北に異動した先で、野城さんという方にも疑われていましたよね。それで亡くなられてしまった。里浜さんは和喜田支社長が犯人だったと、今でも思っていますか。それとも違うとお考えですか。教えて下さい」
同じく視線を戻した彼女は目を逸らさず真っすぐ見つめたまま、少し間を空けて答えた。
「逮捕された直後までは興奮していて、犯人じゃないと否定したあの人の言葉を信じられませんでした。しかし裁判でも言いましたが時間が経って冷静に考えた時、殺されかけていたにも関わらず違うと言い張ったあの人の目は、嘘をついていなかった気がします。もちろん警察の方がおっしゃられたように違うとも、そうだとも言い切れる証拠は何もありません。ただ私はあの人で無かったと思っています」
「だったらどうして野城さんは、そんな和喜田支社長をわざわざ東北まで足を運び、襲ったのでしょう。もし違うのなら、犯人は誰だとお思いですか」
志穂の問いが鬼気迫っていたからか、彼女は僅かに顔を引いた。そのまま何も言えずにいた為、三鴨が代わりに口を開いた。
「奥様もご存知かと思いますが、彼女は和喜田支社長が事件の後異動し、その後宇山という社員が野城を襲おうとし庇った江口課長を傷つけた頃、勾留されていたので詳細な事情を把握していません。また宇山が自己都合の退職に追いやられ自殺し、それが原因で野城の会社が業績不振に陥ったことや、和喜田支社長を襲った事件についてもそうです」
「それは理解しています。警察の方からも野城さんは和喜田支社長が夫を刺した犯人だと思い込み、白状させようと詰め寄った結果、誤って殺してしまったと説明を受けました。それは里浜さんも判決を受け出て来られた後、聞かされているはずですよね。その上でお聞きしているのです」
だが今度も彼が説明し始めた。
「これはあくまで私の憶測ですが、野城が和喜田支社長を襲ったのははっきり言って逆恨みでしょう。芝元さんが刺された事件の後に色々騒がれた結果、代理店の廃業寸前まで追い込まれた彼は、その鬱憤を誰かにぶつけるしかなかった。そうなると和喜田支社長しかいなかった。ただそれだけでしょう」
「あなたもそう思いますか」
志穂は彼を見ず、引き続き里浜の目を見たまま質問した。それが気に障ったのか、三鴨は話を続けた。
「だってそうじゃないですか。そもそもの発端となった事件で名前を上げられた人達の内、宇山が死んで里浜さんも刑務所に入っていたんです。そうなると残るは和喜田支社長しかいなかった。彼が犯人だと思い込み襲ったのは、里浜さんと同じような心理状態だったのでしょう。あの頃アリバイがあったのに、彼女は疑いのある人物の一人としてマスコミから追いかけられていた。そのせいで娘の愛花ちゃんは学校で苛めに会い、通学できなくなった。そうしたイライラをぶつけた先が和喜田支社長だったのです。そうだよね」
そう聞かれた彼女は、一瞬ビクッとして彼を見た後、視線を戻してゆっくりと頷いた。当時の状況を思い出したのか、横で愛花が俯いたまま体を震わせていた。その背中をゆっくりと擦りながら、ようやく話し出した。
「本当にどうかしていたんです。誰が喋ったのか、芝元さんに対する私の気持ちをさも本人から聞いたかのような記事を書かれ、テレビのワイドショーでも流れていましたから。それに何度も芝元さん宛てに電話をかけ、嫌がらせをしたとかストーカーまがいの行動までしていたとか、変人扱いされて愛花には本当に可哀そうな思いをさせてしまい、ショックを受けました。ほんの少し事実も書かれていたので、全て噓だとも言えません。もし抗議したらどれが嘘で、どれが本当にした事かと深掘りされれば余計に責め立てられるでしょう。だからじっと我慢するしかなかったんです。でも愛花が不登校になってさすがに我慢できなくなりました。だから一番悪いのは事件を起こした犯人で、その人さえ捕まれば騒ぎは収まる。そう考えて、あの時点では和喜田さんしかいないと思ったのです」
彼女は何故そう考えるに至ったかを説明した。宇山や野城については良く知らなかったけれど、周囲の評判や置かれた立場を聞く限りでは違うと判断したそうだ。
けれど和喜田は三鴨の会社が大型代理店だった為、時々個別に顔を出していたこともあって、それなりに性格の悪い人物だと感じていたらしい。また吉岡や他の営業社員から聞いた話や評判を総合的に考え、最も怪しいと睨んだのだろう。
ただそれはやはり思い込みだったと彼女は言った。
「だったら今は、誰が最も怪しいとお思いですか」
志穂の度重なる質問に首を振った。
「分かりません。ただ三鴨社長の話を聞いた限りだと、野城さんではないと思います。あの人が犯人なら、わざわざ和喜田支社長を訪ねるような真似はしないでしょう。しかもそれで相手を殺してしまったのです。カモフラージュにしてはやり過ぎだと思いませんか。そうなると残るのは宇山という方です。ただ担当されたことのない、余り良く知らない社員さんですから確証はありません。消去法というか、自殺したのも罪を重ねて怖くなった為だと考えれば、なんとなくですが納得できます」
「彼は酒を飲むと性格が一変する人だったからね。野城を襲って江口課長を傷つけた時もそうだし、それ以前も野城に酔った勢いで暴言を吐いたようじゃないか。素面の彼なら和喜田支社長のおかげで折角支社長代理に昇進できたし、なるべく波風を立てないようにするタイプだったようだから、自ら問題を起こすとは考えにくい。でも事件があった日、酒を飲みその勢いで突発的に起こしたんだとしたら、あり得るんじゃないのかな。もう本人が死んでしまったから、確かめようがないけどね」
「でもあの日、彼は自宅にいたと証言していたんですよね。彼が持っていたICカードの定期の履歴からも、会社から最寄り駅まで移動していたのは確認されたと聞いています」
「でも独身だから、ずっと部屋にいたかは誰も証明できないとも聞いたよ。住んでいたマンションの表玄関には防犯カメラがついていたけど、裏口を通ればすんなり抜けだせたみたいだし。とはいえその後、最寄駅から芝元さんの家の近くの駅まで移動していた形跡はなかったみたいだ。駅にはあちこち防犯カメラがあるから、映らずに移動するのはまず無理だし、といってタクシーを捕まえて移動していたらそれもすぐ警察も分かるはず。となったら歩いて移動したとしか考えられないけれど、結構距離があるんだよ」
「だとすれば、酔っぱらった勢いでというのは無理がありませんか」
「そうなんだよ。こんなのは警察だってとっくに調べたはずだろう。それに死んだ時の遺書にも、自分ではないとわざわざ書いていたというしね。だから申し訳ないけど、私の憶測でしかない」
三鴨に続き、里浜も頷いた。
「私もそう思うというだけで、だったらどうやったと言われたら分かりませんとしかお答えできません。といって他に疑わしいと思い当たる人もいません。申し訳ありません」
結局堂々巡りのまま話は終わり、彼らは帰って行った。こうして結論が出ないまま、再び志穂や尊は引き続き悶々とする日々を送ったのである。
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