第三章~⑥

 人間は誰もが例外なくいつか死ぬ。刺されるなんて想定外だったが、祖父母のように突然交通事故で亡くなる場合だってある。癌などの病気にかかる可能性もあった。そう考えれば長期間闘病の末、苦しむよりはまだましなのかもしれない。

 長引いているとはいえ尊は寝たきりで、病院側が二十四時間体制で看護していた。その為癌などの病気で寝込むより、肉体的な志穂の負担は少ない方だろう。ただ精神的な痛みは比較しようがないし、他人からは計り知れないものだ。

 尊の気持ちだって同じで、誰にも理解できるはずがない。突然背後から刺されるだけでなく、誰の何の意図によってそんな目に遭わなければいけなかったのか。しかも幸い現時点で一命を取り止めたようだが意識は戻らず、さらに幽体離脱してさ迷っているのだ。

 貴重な経験であり、本来なら見聞きできない事実や状況が分かり良かったこともあるけれど、そればかりではない。知らずにいた方がマシだった話や人の感情、表情まで見聞きしてしまった。和喜田や宇山、野城達からの妬みなどがそうだ。

 その上ボカーソウルと同じく犯人を特定し、現実世界で逃げおおせられないよう魂だけになっているのだと仮定しても、尊は未だ誰が犯人か分かっていない。当然証拠だって揃えられていないのだ。

 世の中で同じ目に遭った、または遭っている者がどれだけいるのだろう。全世界中でボカーソウルが出現していると聞くけれど、尊の状況から想像すれば出現できなかった者も相当数いるに違いない。

 いやまず尊は犯罪被害に遭ったがまだ死んでいない為、厳密に言えば殺されていないのだ。こうした状態でいるのは、相当特殊な部類だと思われる。よって誰からも共感されるはずもなく、心中を察してくれる人など存在しないだろう。

 尊は生まれて初めて、心の底から孤独による恐怖というものを感じた。今の自分は普通の人間でない。話し相手もいない。独力では何もできず、先も全く見えないままである。

 ただ宙を漂い続け、刺傷事件をきっかけに起こる様々な不幸の連鎖を悔しいと思いながら眺めているしかできないのだ。これほど悲運な目に遭っている人なんてまずいないのではないか。

 同じような状態の存在がもし他にいれば、どこかで遭遇していてもおかしくないが、不思議な事に一度も見かけていない。死んで本当の霊になれば、同じように漂う霊に会えるのかも分からない。これが孤独と言わずして何というのか。

 生まれて物心がついた頃には、親や兄弟の他に友達がいた。徐々に自分と気が合わない人物の存在を理解するようになったが、そうで無い友人もできた。特に釣りという大好きな趣味に打ち込み、そこで知り合った人達とはかなり親しくなった。

 結婚してからは志穂がいた。会社だとペアの吉岡や比較的慕ってくれた後輩の寺地、評価し目をかけてくれた支店長席の江口課長などもいた。だが心許せる相手かといえばそうではない。同期を含めた同僚達も同じだ。やはりどこか一線を引いてきた気がする。

 また会社に入ってからは、それまでと比べられないほど立場が異なる様々な人と出会う機会を持てた。現場に出てからは特にそうだ。取引先を含め、顧客など相当数の人達と関りを持ち、良い関係性を持った人達もそこそこいる。けれどそれはあくまで仕事上の話だ。

 学生時代に親しかった友人達とは、その頃こそ心を開いて交流していたが今は違う。社会人になり転勤を繰り返す内、互いに結婚や子供が生まれる等して家庭を築き、取り巻く環境が異なり始めたからだろう。

 年賀状のやり取りなどはしているけれど、正直言えば関係性は薄くなっている。それでもわざわざ東京から見舞いに来てくれた友人達は何人かいた。よって今意識が戻れば、かつてのように話が出来るのかもしれない。

 ただあの頃と全く同じとはどうしてもならないだろう。それぞれの経済状態や社会的地位等で格差が発生しており、それこそ以前には無かった嫉妬や遠慮等と言った余計な感情を持ってしまうからだ。よって今後も親友で居続け、変わらない相手なんてもう存在しないと思うしかなかった。

 関係を拗らせた両親や兄達とだって、最初からそうだったわけではない。少なくとも小学生の頃の記憶だと、祖父母がいて三世代が一緒にいる、裕福で仲の良い家族だった。それが成長するにつれ、家族の繋がりは変化していった。

 人は一人では生きていけないという。必ず誰かの世話になり、他人を傷つけ、傷つけられながら生きていくのが人生だと言われる。まさしく尊もそうして生きてきたし、その中で愛し愛され、慈しみ慈しんできた。

 一方で人は結局最後には一人ともいう。結婚せず一人でいたり、家族を早く亡くしたりまた最初からいない人もいる。また社会生活の中で仲がこじれ、離れていった人やこちらから縁を切った者もいるだろう。それでも成長していく過程では、様々な人と関わっていたはずだ。

 しかしある年齢まで達した時、ほぼ誰とも接する機会を持たず一人で生活している人は少なからず存在している。ただその人達が皆孤独かといえばそうとも限らない。もちろん不幸だと決めつけるのも浅はかだ。

 そうした人とは事情が大きく異なるけれど、尊の置かれた現在の状況は明らかに他人との交流が絶たれていた。厳密に言えば一方的な接触だけが可能な状態で、相手は誰も気づかないし見えておらず、こちらからの意思だって伝えられない。

 人との係わり合いというのは複雑で、大切なものだが時に厄介だ。けれどそうでないものがある。志穂との出会いとその関係は、尊の人生で得難くかけがえのないものであり、現在唯一心から信頼できる相手といえるだろう。

 尊の両親や兄夫婦達を始め会社における歪な人間関係を思い浮かべれば、人にとって重要な繋がりはほんの一握りだと分かる。だからこそ全く異質な状態に置かれてしまい痛感したのは、僅かでも心から信用に足る人との繋がりが如何に心強く、大切かということだ。

 敷居をまたげば七人の敵ありといわれるが、実際このような目に遭ってその言葉は真実だったと思わされた。和喜田や宇山や野城、両親や兄夫婦を含めれば、まさしく七人から尊は本当に疎んじられていたと理解したからだ。

 他にもマスコミを介して世間の誹謗中傷を浴び、通常だと目に見えない匿名の人々の悪意にも晒された。それだけ世の中には敵が隠れているのだ。

 七人の敵と同じく人を見たら泥棒と思え、などといった言葉は人と人との関係を自ずから相親しむべきものとせず、互いに心の許せぬもので油断すれば隙に乗ぜられるとの戒めなのだろう。

 現在のような生き難い社会で生まれた言葉ではない。はるか昔から伝わっていることわざや格言なのだから、いつの時代でも人との交わりが難しい点は変わらないと言える。それでも否応なく、人は人と関わり合いながら生きていくしかない。

 それを少しでも避けようと生きる方法の一つが、一種の引き籠りなのだろうか。完全に断とうと思えば死ぬか、あるいは尊のような浮遊霊になるしかないのだろうか。

 尊がこうして様々な想いに囚われている間、両親達は席を立ち移動し始めた。その為彼らの頭上で漂い一緒に病室へと入った。そこには志穂がベッドに横たわる尊の手を擦っている姿があった。 

 早く目を覚まして欲しい。そしてあの四人との戦いに加勢してくれれば、どれだけ心強いか。そう願っていたのかもしれない。それとも意識が戻らず役に立たない尊を責めていたのだろうか。彼女の表情からそのどちらかまでは読み取れなかった。

 ただ目はうつろでぼんやりとしていたのは確かだ。相当疲れが蓄積されているに違いない。先程までの父達とのやり取りだけで、相当神経を擦り減らしたと思われる。

 それでも入室した父達の姿を見た途端、彼女の表情は引き締まった。目にも力が宿っている。まるで戦闘態勢に入ったかのようだ。

「待たせたかな。申し訳ない。尊の容態に変わりはないだろうか」

 父が意図的に柔らかな声でそう言ったが、彼女は警戒を解かず緊張した面持ちで答えた。

「私は大丈夫ですし、尊さんは相変わらずです」

「そうか」

 父達はそれぞれがベッドを挟んだ、志穂の反対側に再び腰を下ろした。それから各々が目配せをした後、最初に兄が口を開いた。

「先程志穂さんが提案した、土地と株の名義変更手続きをする代わりに、尊がもし亡くなってしまった場合発生する遺産相続を放棄する件だけどね。四人で話し合った結果、あなたの言う通り念書を書くことにしたよ」

 余りにすんなりと意見が通って意外だったのだろう。志穂は驚きで目を見開いていた。「ほ、本当ですか」

「嘘なんか言わない。法的効力はないけれど、一筆残せばいいんだよね。念の為に親父達だけでなく、兄である私も名前を連ねておけばいいかな。それこそ縁起でもないけれど、尊より先に親父達が事故に遭って亡くなる可能性もあるからね。祖父母達の時だって突然だったから」

「有難うございます」

「そんな、頭なんか下げなくていいですよ。志穂さんが大変なのは私も分かりますから。もし今学さんが尊さんのような状態に陥ったら、と想像するだけで怖くて不安だもの」

 亜紀がそう続けた。それから話はとんとん拍子に進み、どうせちゃんとしたものであっても同じなんだからと、父達と兄はその場にあった紙を使い、放棄すると念書を書き署名し、年月日を加えて志穂に渡した。

 同時に亜紀が名義変更手続きで必要な書類を渡し、後日同封された返信用封筒に入れて返送するよう伝えた。

「明日にでも印鑑証明を取り、出来るだけ早く送らせて頂きます」

「有難う。それでは失礼するよ。引き続き尊をお願いしますね」

 父はそう彼女の言葉に答え立ち上がった。他の三人も後に続き病室を出ていった。その後彼らは二度と病室へ見舞いに来ることは無かった。

 そうしたやり取りを経てから数日後、今度も思わぬ人物が病室へと現れた。和喜田に対する殺人未遂で逮捕された里浜だ。彼女は情状酌量され執行猶予が付いた為、家に戻りこれまでと同じく母親の介護と娘の世話をしていた。

 三鴨の会社に再就職したと聞いているが、その後どういう生活を送っていたかは尊も良く知らなかった。そんな彼女が突然現れた為、志穂も驚いたようだ。ただ彼女だけでなく、三鴨と娘が付き添いで来てくれていた為、少しは安心したのだろう。

 尊の事件が起こった際のアリバイがあったとはいえ、重要参考人の一人かのような扱いを受けた人物だ。また和喜田をナイフで傷つけ殺そうとした人物であり、現在まだ執行猶予期間中の身である。

 よって医師や看護師達が大勢いる病院とはいえ、何かされるかもしれないと恐怖心を抱いても不思議ではない。それに事件から一年半以上過ぎた今、警察関係者が尊の身の回りを警戒する体制はとっくに解かれていた。

 だから里浜の身元引受人でもある三鴨と娘の存在は安心材料の一つだった。彼らの目があれば、さすがに変な気や行動は起こさないだろうと思われたからだ。

 それでも念の為にと男性看護師が一人、病室内で待機してくれていた。どうやらいらぬ誤解を生まないようにと、三鴨から病院側に申し入れたらしい。

「お忙しいでしょうに、わざわざ有難うございます。よく来て下さいました」

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