第三章~⑤

「どうしますか。私や学さんは尊さんの遺産を受け取れる立場ではないので、考えてもいませんでした。でも確かにお義父さん達には受け取る権利がありますよね」

「いや私も正直、頭に無かった。尊名義の土地や株の相続権が志穂さんに移ると今後面倒だと亜紀さんに言われ、そればかり考えていたからな」

 父の言葉に母も同意した。

「私もです。あの子がそれなりの高給取りで、預貯金があるとは思っていましたよ。万が一亡くなったら生命保険も入るでしょうし、志穂さんにそれ以上お金を渡す必要なんてない。だから今の内に名義変更させるべき、という亜紀さんのアイデアは良い考えだと賛成したの。でもあの子の遺産を受け取る権利があるなんて気づかなかった」

 そこで尊は驚いた。会社の業績不振で土地の売却を急いでいるというのは、名義変更手続きを促す為の単なる名目だったようだ。万が一の事態に備え、早めに手を打っておこうという亜紀の入れ知恵だったらしい。要するにそこまで会社は困っていないと分かった。

「尊名義の土地や株と同じくらいか、それ以上の遺産が手に入るかもしれないんだよな。それだけの資産を簡単に手放すのは勿体ないだろう。それに土地や株だって元々あいつのものじゃない。それを法的に認められている相続分と交換するなんて条件を突きつけるなど、あの嫁は一体何様なんだ」

 どうやら欲が出てきたらしい。父の言葉に母も頷いた。

「そうよ。あの子が私達とは距離を取りたがっていたのは知っているけれど、親子の縁というのはそう簡単に切れるもんじゃありませんからね。法律を見てもそうなっているじゃないですか」

 確かに民法では、直系血族及び兄弟姉妹は、互いに扶養する義務があると定めている。直系の血族とは祖父母や父母、子供や孫を指す。芝元家でいえば尊と学、父の義文と母の加奈子がこれらに該当するのだ。

 けれど血の繋がらない学の妻である亜紀や、尊の妻の志穂は含まれない。つまり尊が生きている限りは無理だろうが、死亡してしまえば志穂は彼らとの関りを絶っても何ら問題ないのだ。またそうなれば彼らだって、完全に彼女とは無関係を装うだろう。

 だが相続に関していえば、子のいない夫婦にはどうしても父母や兄弟姉妹との繋がりが切れない。尊達にとっては何とも腹立たしい法律だ。

 しかもこちらが一方的に関係を絶ちたがっているのではなく、彼らだってある程度そう望んでいるにも関わらず、遺産だけ欲しがるのは余りに強欲すぎる。

 病室に訪れた事情を含め、いくらなんでも自分勝手な言い分に尊は怒りがふつふつと湧いてきた。だが余りに興奮すると本体に悪影響を及ぼしかねない。そこでどうにか気を落ち着かせようと試みた。

 それでも彼らの利己的な話は続いていた。

「尊がもし亡くなった場合の話だよな。そうなればあの嫁やド田舎に住む奴らとも、付き合う筋合いはない。だったら遺産相続した後で、向こうが望むように縁を切ればいい」

「あなたの言う通りです。尊がいないのなら用なんてないわよ。それに亜紀さんが言ったように、まだ生きている間は放棄できないんでしょ。例え念書を書いたって無駄なんだったら、書くだけ書いて無視すればいいんじゃない。社会的制裁がどうのとか脅していたけど、そんな真似が本当にできるのかしら。単なる脅しでしょ」

「あんな田舎者の小娘が私達に要求を突きつけるなど笑わせる。俺達に念書を書け、だなんて何様のつもりだ。無理にでも土地と株の名義変更の書類に、判を押させればいい」

 この瞬間程、尊は怒鳴りも出来ず手が出せない自分を悔しいと思ったことはない。こんな親から生まれ育てられたかと考えるだけで気持ちが悪かった。

 それこそ彼らのものが混ざっている体中の血を抜き去ることができれば、どんなに気分がスッキリするだろう。そう考えられずにはいられなかった。

 いやこんな奴らに関わる位なら、このまま死んだ方がいいとまで想像した。だがそれでは志穂を一人にしてしまう。それはできれば避けたい。少なくともこいつ達からは守ってあげなければ男が廃る。けれど何もできないのが現実だ。そこで無力な自分の立場を恨み、嘆いた。これまで何度同じ思いをしてきただろう。

 そんな時、両親達に対し、亜紀がやんわりと反対した。

「それはそうなんですが、あの土地や会社の株はお祖父様達が事故で亡くなられる前から、節税対策で名義を変えていたものですよね。もちろんこれまで管理や税金を払ってきたのはこっちですが、志穂さんが下手に騒げば、税務署に目を付けられるリスクが生じます。そうなると尚更厄介です。それは絶対に避けなければいけません」

 これに兄も賛同した。

「亜紀の言う通りだよ。確かに額面上は同じくらいかそれ以上かもしれないけど、あの土地や株の名義を書き換えて得られる価値は、お金だけじゃ換算できない。それに志穂さんだって一時期、尊を刺した被疑者の一人に挙げられていたよね。彼女にはアリバイがあったと警察発表されたから治まったけど、本当の所はどうなんだろう」

「どういう意味よ」

 母が目を吊り上げて詰問すると、兄は首をすくめて言った。

「いや分からないよ。事件があった日の夜、表の防犯カメラに志穂さんが出入りする姿は映っていなかったようだし、尊が刺された直ぐ後に近所の人が目撃して騒ぎ出してから少しした後、窓から顔を出した隣の部屋の人と話をしたって志穂さん本人からも聞いたさ。だけど裏口に防犯カメラが無かったから、刺した後すぐ塀を越えて部屋に戻ったとしても映らないし間に合ったんじゃないかな。週刊誌にそう書いてあったよ」

 亜紀が首を振った。

「さすがにないと思う。だって動機がないもの。二人が揉めていたって話は聞いていないし、あの様子を見たら本当に二人は仲が良かったはずよ。それに亡くなったら死亡保険金は入ってくるけど遺書がないから、さっき言っていた通り他の遺産の三分の一がお義父さん達のものになってしまうじゃない。それより一生懸命働いて稼いでくれた方が、この後もずっと裕福に暮らせるし贅沢だってできる。それなのにわざわざ殺したりはしないわよ」

 彼女の言い分は正しい。またまずあり得ないと思っていた。警察は念の為にマンション裏の塀やその周辺に鑑識を入れ、そうした形跡がなかったと確認していたらしい。空き巣のプロのような余程の腕前で無ければ、何も残さずに部屋へ戻るのはまず不可能だと判断したと聞いている。

 よって当時マンションの住民にさえ同じく任意だが何度も事情聴取を行い、怪しい人物はいないと捜査本部が結論を出したはずだ。それに刺された本人が、彼女だと気付いていないのだからまず考えられないだろう。

 しかし兄が言いたかったのは別にあったらしい。

「もちろん俺も本気でそう思ってはいないさ。だけど今尊が死んだら、マスコミや世間はどう考えるだろう。疑わしいと言われていた人の内、アリバイの無い二人が死んでもう一人は別件で逮捕されたじゃないか。アリバイはあるのに名前を挙げられた女性がいたけど、その人も被疑者の一人を怪我させて捕まった。それでも尊を刺した犯人だとは言われていない。だったら誰なんだって皆、新たな犯人探しをし始めるはずだろう。そうしたら、また志穂さんが疑われるんじゃないかな。多額の遺産も手に入る。東京にいて、しかもアリバイがあった俺達まで最初は疑われたんだ。今度だって間違いなくマスコミが騒ぎ立てると思う。そんな相手といつまでも関わっていたら、損をするのは俺達じゃないかな」

「そうよね。私達だって優秀な弟夫婦に会社の経営権を奪われたくないから、誰かを雇って殺そうとしたんじゃないかと、ネットに書き込まれていたくらいだから。おかしな決めつけをしてくる人達は沢山います。学さんの言う通り、お父さん達も関わらない方がいいのではないでしょうか。今の内にこっそり名義を変更しておき、尊さんが亡くなっても遺産を受け取らず放棄するといったら、私達が疑われる心配はないはずです。そうなるとマスコミだって、もう追いかけてこないでしょう」

 これには父が唸りながら呟いた。

「確かにそうかもしれない。後は志穂さんだけがターゲットになるってことか。それなら学や亜紀さんの言う通りにした方が良さそうだな。そうすればもうこの厄介な事件から解放されるんだろう。確かにまた騒ぎに巻き込まれると想像するだけで気が滅入る」

「でしたら志穂さんの要求通り、遺産放棄の念書を書きましょう。法的拘束力はありませんけど、彼女が言ったようにもし尊さんが亡くなった後、お義父さん達が遺産の要求をして揉めたら、それこそまたマスコミ達の餌食になります。ようやく最悪の時期は過ぎましたけど、尊さんを刺した可能性があると疑われていた人達が次々と問題を起こしましたよね。逮捕されたり亡くなったり。その度にマスコミがどう思いますかとコメントを取りにきたりして、なかなか落ち着きませんでした。私もこれ以上騒がれたくありません」

「そうだよ。ただでさえ会社の評判に傷が付いて、業績にも響いているじゃないか。いっそここでしっかり縁を切ったらいい。あいつが死んだら間違いなくまたマスコミが駆け付けてくるだろう。もううんざりだ」

 亜紀と兄がそう畳みかけ、また反論できなかったからだろう、父親は頷かざるを得なかったようだ。そうなると最終的に母も納得せざるを得ない。結果、四人の意見はまとまったのである。

 複雑な気分だったが、それでも尊は安堵した。どういう理由にせよ、彼らが志穂と距離を取り係わり合いたくないと思ってくれるなら有難い。税金逃れの為に小細工した土地や株の名義などさっさと変え、父達との縁が切られれば言う事は無かった。

 それに尊がこれまで心身を削り稼いできた資産の一部を、あんな奴らに渡すなど絶対に許せない。志穂がいてくれたからこそ、これまで健康を損なわず働くことができたのだ。彼女以外に使って欲しくないと思うのは当たり前だろう。父達が本当に放棄してくれたなら、志穂も経済的に苦しむ可能性は低くなる。

 そこまで考えた時、改めて衝撃を受けた。これまでの話は全て尊が死亡する前提のものだ。止むを得ないとは理解しつつも、やはりそうなってしまうのかと想像しただけで鳥肌が立った。とうとうこのまま死んでしまうのか。もう意識は取り戻せないのか。

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