第四章~③

「分からない。でも退職してしまえば許可を得る必要は無いでしょう。治療費は完治または症状固定したと医師が診断を下すまで、会社を辞めても払われるから問題ないと思う。例え支払われなくなったとしても、これまで給付された保険金があるからいくらかは賄えるし困りはしないので大丈夫」

 医療保険の入院保障は百八十日限度だから、既に給付は終わっていた。しかし傷害保険の給付は千日限度なので、まだ続いている。よって実際にかかった治療費と別に、手術給付金などと併せればこれまで九百万円以上は支給されていた。

 万が一の事態に備えていたこともあるが、保険会社の社員だからこそかなり手厚い補償の各種保険に、半強制的とはいえ加入していたのが幸いしたといえるだろう。

 けれど義母は納得しなかった。

「何を言っているの。社宅を引っ越すのはいいとしても、退職したら今貰っている給与が支給されなくなるじゃない。休職期間はあと一年半以上あるし、結構な額になるわよね。それに今退職してしまったら復職だって難しくなるでしょう。そんなことはさせられない」

 税金や諸々の額が引かれるが、現時点の手取りで年八百万以上ある。残り半年は年収換算から三割ほど減るが、それでも七百万は手元に残るはずだ。よって合計一千万円以上になる為、無視できる金額ではない。

 また義母の指摘通り休職期間の途中で自主退職したとなれば、特例として再雇用も考慮すると言われていた前提が崩れる。その為復職は諦めざるを得なくなるだろう。さすがにそれは尊や志穂には酷だと思ったようだ。

 いくら長い間意識が戻っていないからといって、まだ目を覚ます可能性はゼロでない。ここで退職を願い出るのは、そうした望みを諦めたようにも解釈できるからだ。

 それでも彼女は首を振った。

「預貯金は結構あるし、その上この二年近く全く働いていないのに沢山頂いた。辞めたら退職金だって出るし、それで十分だよ。そんなお金より、お父さんの方が大事だから」

 彼女の言う通り、これまで給与が支払われている間、尊は眠ったままだから食事もしていない。尊に関わるお金はほぼ医療費で賄われている。家賃も天引きされている為、必要なのは毎月の光熱費と志穂の食費ぐらいだ。

 それに二人で生活していた時でさえ、預貯金は年々増えていた。その上事件後はどこかに旅行したり食事に出かけたりしていないので、消費額は相当少ない。よって収入と支出の差額も以前より大きく、後一年余り続けばさらに一千万近く蓄えは増えるだろう。

 しかし彼女はそんなことを優先させるはずがない。ここで退職し収入が途絶えても、実家に帰れば家賃はかからないし、食費や光熱費だって抑えられる。環境が変わって生じるお金は、病院までの交通費くらいだ。

 強いて懸念材料をあげれば、尊の容態がもうこれ以上良くも悪くもならないと症状固定され、労災から治療費が払われなくなる場合だろう。

 そうなってもまだ眠ったままとなれば、治療費の負担が痛手になる。ただこればかりはどうしようもならないし、会社を辞めていない現在だって事情は同じだ。それにそんな状況ならば後遺障害認定されるかもしれない。そうすれば、また別の新たな給付金が受け取れる可能性はあった。

 志穂はその点を簡潔に説明し、父親達を説得していた。彼らは揃って大きなため息をついていた。だから知られたくなかった、との想いがそこに詰まっていた。彼らの気持ちも尊は理解できる。それでも志穂の決断を支持したかった。

 彼女はそうした様子を見て話を続けた。

「こう言ってしまったら気を悪くするかもしれないけれど、この際はっきり言わせて貰う。半年前の診察で既に余命半年、長くて一年と言われたのでしょう。延命治療を受けたお父さんの友達でさえ、診断から一年半しかもたなかった。それならお父さんの場合、長くてあと半年が限界じゃないの。その程度の期間なら、私がここの家事全部と尊さんの様子を見に行くこと位、それ程負担にはならないと思う」

「だからこそ黙っていたんだろう。あと半年程度だ。そうすれば俺はあの世に行く。お前にそんな苦労はさせられない。しかも尊さんの意識が戻らない内に、お前の判断で会社を辞めさせるのか。もしその後彼が目を覚ましたらどう思う」

 彼女は一瞬怯んだように見えたが、すぐに首を大きく振った。

「尊さんには悪いと思うけど、お父さん達がこんな状況でいるのに平気な顔をして名古屋で暮らせる訳がない。尊さんが意識を取り戻していたとしても、絶対私の意見に賛成してくれたはず。延命治療しないと決めた理由も分かった。だから反対しない。その代わり、最後まで私にも面倒を看させて。病院じゃなく家族に囲まれて死にたいと思ったから、長く住み慣れた家に帰って来たんでしょ。だったら私もここにいさせて。それとも私は家族じゃないとでもいうの」

 志穂は涙声でそう訴えた。その様子を天井近くから見ていた尊は頷いた。そうだ、それでいい。彼女の言う通りだ。もしここで声が出せれば、そう言ってあげたい気持ちで一杯になる。しかし出来ない自分のもどかしさ、申し訳なさがそうした想いを包みこむ。

「そんな事は言っていないでしょう。ちょっと冷静になりなさい。今あなたは感情的になっているだけ。お父さんの病状をいきなり聞いて驚いたのは分かる。でもよく考えなさい」

 義母はそう言い抵抗を示したが、義父はそれを制した。

「いや。こうなったら志穂達に来て貰うのもいいだろう。本音を言えば、俺も畑や家のことは気になっていたんだ。剛志は大丈夫だと言っているが、ここ最近の顔つきを見れば無理していると分かる。あいつを手伝ってやれるのはお前だけだ。俺の世話なら志穂がいれば十分だろう。尊さんには申し訳ないと思うけれど、志穂だって今の状態が続くのは辛いはずだ。そうだろう。たった一人で毎日病院に通い、目を覚まさない夫の様子を見て今日も駄目だったと一人しかいない家に帰っているんだ。もしこっちへ来れば、病院までの距離は遠くなるけれど、戻ってきたら家には俺達や剛志がいる。志穂が私達を支えてくれる分、俺達だって支えてやれるじゃないか。それに志穂がいてくれたら心強い。俺の足腰や腕の力が落ちているから、付き添いがお母さんだと正直言って心許なかったんだ」

 義母はショックだったようで、目を見開きそのまま黙って俯いた。心当たりがあったのか、否定できなかったのかもしれない。

 また志穂も心の中を見透かされたと思ったらしく、顔を伏せた。やはり彼女も口に出せない悩みを抱え、孤独を感じていたようだ。

 それはこれまで長く浮遊し様子を見てきた尊も気付いていた。二人でさえ広すぎる部屋に、彼女はこの二年近くずっと一人で夜を過ごしてきたのだ。しかも周辺には誰も親しい人はいない。それどころか事件以降、敵が増えて気が休まる場所ではなくなった。

 それにただでさえ転勤族の家族は、その土地に慣れるまで時間がかかるものだ。勤めている方は会社関係で人と交わる機会があるからまだいい。けれど帯同する専業主婦の彼女からすれば、最後に頼れるのは結局尊しかいなかった。その唯一の味方が病院で眠ったままなのだ。

 それで寂しい、または不安を感じない訳がない。もしそんな状況から脱し、両親や兄と暮らせるならば心強いと思うだろう。

 長い沈黙が続く。山と田畑に囲まれたこの実家は、夏になるとカエルや蝉の鳴き声などで外は朝から夜まで騒がしい。春や秋だと虫の声や鳥のさえずりが聞こえる。

 だが冬の今は山眠ると言われるだけあり、うっすらと積もった雪が全ての音を吸い込んでいるかのように静かだ。

 多少の不安はあるけれど、尊は志穂の決断に異論など全くなかった。意識が戻らないまま宙を漂う立場で今出来るのは、彼女達の幸せを願う事だけである。ボカーソウルのように犯人を特定し証拠を掴められればいいが、現段階では諦めざるを得なかったから余計だ。

 重い静寂を破ったのは義母だった。彼女は義父の目を見て確認するように言った。

「あなたは本当にそれでいいのね。志穂に来て貰い、最期を看取って欲しい。それがあなたの願いだとしたら、私は何も言えないから」

 義父は頭を下げた。

「済まない。さっきは少し言い過ぎた。志穂を巻き込まない為に黙っていようと決めたのは俺だって同じだ。でも今は事情が変わった。知られてしまったからには、志穂の気持ちも尊重してやらないといけない。苦しい思いをさせたまま、誰もいない名古屋の部屋へ一人で帰らせるのはさすがに酷だろう。お前が同じ立場だったらどうだ。そう思わないか」

「そうですね。分かりました。志穂の気持ちも理解できますし、あなたが望むのならそうしましょう。でもね、志穂」

 義母は視線を移して言った。

「まずは会社を辞めずに転院ができるよう、お願いして頂戴。それがどうしても駄目だった場合は、あなたが言う通り退職手続きを取ればいいわ。でも本人の意識がないのに、妻のあなたが代行で手続きできるものなの」

「分からない。そこは会社に相談して確認しないと」

「だってよく考えたらおかしいでしょ。何か問題を起こして懲戒免職になったり、休職期間が満了して退職せざるを得なくなったりすれば別だけど。本人の意思が確認できないのに辞めさせられることが出来たら、問題じゃないの」

「そうかもしれない。会社側が退職させられなかったら、特殊事情を考慮して転院と転居の許可が下りる可能性はあると思う」

「だったら後は病院が許可してくれるかどうかね。駄目だと言われる可能性もあるでしょう。受け入れ先も含めて、調整には時間がかかるかもしれない。その間、お父さんの容態が急変する場合だってある。それでもあなたはいいの。それ位の覚悟はしなさいよ」

「うん。もちろん尊さんの容態が第一だから。その上でこっちへ来るかどうかを考えるし、覚悟もする」

「それにこっちへ引っ越してくるのなら、お父さんが亡くなった後のこともしっかり考えておきなさいよ」

「分かってる。尊さんの意識がまだ戻らないで、ここから病院に通うのが苦痛だと思ったら、近くに部屋を借りて引っ越すのもありだと思う。尊さんの意識が休職期間中に戻ったら、体調次第だけど一旦名古屋に戻るかもしれない。退職した後だったら、どこで再就職先を見つけるかはその時考えればいいでしょ」

「意識が戻り後遺症が残らず体調さえ回復すれば、優秀な尊さんだったら再就職先には困らないだろう。そこは心配していない。余り考えたくないだろうが、憂慮しなければならないのはもしもの事態が起きた場合だ。この際だから聞くが志穂はどうしようと思っている」

 義父がそう尋ねると、彼女は躊躇しつつも答えた。

「そうなったら当然今の社宅は出なければいけないし、名古屋に住んでいる意味もないから一旦ここへ帰って来るしかないと思う。その後どう過ごすかは余り考えていない。ごめん。想像したくないの」

「いや、こっちこそ申し訳ない。そうだよな。うん。ここへ戻ってきて休んで、それからゆっくり考えればいい。その時俺は生きていないと思うが、母さんと剛志がいる。お前は一人じゃない。それだけ分かっていればいいんだ」

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