第三章~②

 それはそうだろう。例え両親達がその土地や株の権利を渡さないと主張し全て相続すると言っても、法定相続人である志穂が異議を申したてれば最低でも半分は遺留分として彼女の手に渡る。つまり土地の三分の一は志穂から奪えないのだ。

 その価値は現金で換算すれば、少なくとも三千万円以上になるだろうと聞いていた。しかし尊は高所得者であり、現在共に六十代前半の両親が約二十年経ち死亡したとしてもその頃までには相当な資産を形成していたはずで、相続を放棄したって十分やっていけると志穂も考えていたに違いない。

 けれど刺傷事件を受けて事情が大きく変わった。今後意識を取り戻したとしても、下手をすれば後遺症が残る場合だってあるだろうし、再就職さえ叶わない可能性もある。よって、健康であればその後得られたであろう高額所得は、期待できないかもしれないのだ。

 あと二年半の間は働いていなくても一定の高収入が手元に入ってくるし、預貯金にも余裕がある。だが休職期間が過ぎれば無職だ。

 その後死亡すれば保険金などが手に入り、それなりの資産は出来るだろう。しかし意識不明の状態が続けば治療費は労災からある程度払い続けて貰えるかもしれないけれど、収入が途切れ介護における負担だってかかる。

 そうなるとやはり必要となるのはお金だ。志穂の実家は農家で、お米だけでなく様々な野菜も栽培している。その為食べるだけならそう困らないだろうが、決して裕福ではない。

彼女の三つ上の兄の剛志つよしが、跡取りとして両親と住んでいるけれど独身で女手はなく、もちろん尊達と同じく子供もいなかった。

 また彼女の両親は現役で元気に働いているとはいえ、七十三歳と七十二歳でそれなりに高齢だ。今後も剛志が独身のままとなれば、いずれは志穂が介護や経済的な面倒を看なければならない時期がくるだろう。

 ちなみに結婚したにもかかわらず、志穂と尊は孫の顔を見せられないことに、やや引け目を感じていた。

 そうした状況を尊の両親達は把握している。よって今後、尊名義の財産を目当てにするのではと危惧したとしても不思議では無かった。 

 だからだろう。事件から約一年半経ったある日、彼らはこぞって尊の病室に見舞いと称し現れ、その後志穂に迫ったのだ。

「知っていると思うけど、芝元家の土地の一部や会社の株が名目だけ尊名義になっている。固定資産税の支払いや管理などは、全部会社を通じて処理しているんだよ。いずれは名義変更する予定だったけれど、尊がこんな状態になってもう一年半余り経つ。だから申し訳ないが、代行者として名義変更の手続きに協力してくれないかな」

 芝元不動産の専務である兄の学がそう切り出した。社長で父の喜文がその後を続けた。

「節税対策の為に処理していた手続きに対し、四年ほど前に私の両親が事故で亡くなった後、以前からしたためられていた遺書に従ったものだ。葬儀の後に尊やあなたの前で説明したよな。だから形式上だけで、いずれ手放して貰う条件を呑んだ尊は手続きを承知してくれた。覚えているよね」

「はい。もちろんです」

 志穂の答えに彼らは笑顔を浮かべ、学が再び説明し始めた。

「そうだよね。だから尊が意識を取り戻せば、何も言わず手続きをしてくれただろう。でもこうなってしまった。だが不謹慎だと思いこれまで待っていたけれど、そうする訳にもいかなくなったんだよ。会社の業績がなかなか苦しくてね。資金繰りの為に、芝元家で所有している土地の売却をしなければならなくなった。そこでどうしても名義変更が必要なんだ。そうしないと売却手続きの際は尊のサインと印鑑などがいるし、その後入って来た売却益の税金を尊も支払わないといけなくなる。法律上では尊の一時所得に参入されるから、そっちで多額の税金を支払う手続きが必要だ。それだと困るだろう」

「もちろん困ります」

「そうだよね。全くの無収入だったらまだいいけど、休職中でもほぼ全額の給与所得が支払われているんだろう。そこに加算されたら払わなくてもいい額の税金まで、確定申告して支払う羽目になる。そうした面倒を避ける為に名義変更が必要なんだ。尊の名が無ければその後の売買や税金の支払い等も、全てうちの会社だけの手続きで済む。だからここにサインして印鑑を押して貰えるかな。株は売却しないが、この際だから一緒にして貰えば二度手間にならないからね。印鑑証明は役所に申請しているんだろう。それは後で取りよせ送ってくれればいい。もちろん発行手数料はこちらで支払うから」

 だがそこで志穂は直ぐに頷かず沈黙した。その為彼らが警戒し、一瞬で空気が一変した。尊は気が気で無かった。そんなもの、さっさと押してしまえと思っていたが、もしかすると志穂は芝元家から得られる財産を手放したくないのかもしれないと心配した。

 これも刺傷事件に巻き込まれ、働けるような状態ではなくなった結果が産んだ、災いの連鎖の一つだ。あんな目に遭わなければ、お金の心配なんてする必要などなかった。それに彼らと関わり合いを持つ機会だって、最小限に抑えられただろう。

 これも刺した犯人が全て悪いと思いたかった。しかしそれが誰か、または動機も全く不明だ。さらには尊にも責任があったのかもしれない、との想いはずっと拭えないでいる。

 それになかなか目を覚まさない尊の世話をさせ、かつ将来の経済的な心配までさせてしまった志穂には、本当に申し訳ない気持ちで一杯だった。よって彼女の躊躇する態度を非難できなかったのだ。

 どう答えるか。父達と同様に固唾を飲んで待っていたところ、ようやく彼女は言った。

「あの、それはどうしても今、急がなければいけない手続きなのでしょうか」

 その言葉を聞いて真っ先に反応したのは、尊の母の加奈子かなこだった。

「あなた、話を聞いていなかったの。会社の資金繰りの為に必要だと言ったでしょう。それとも尊名義の土地代金が欲しい、とでもいうつもりなの。尊が死んだら手に入るだろう芝元家の財産を、まさか狙っているんじゃないでしょうね」

 実質は専業主婦だが一応芝元不動産の副社長である。ヒステリックで我儘な性格がでたのだろう。怒鳴るようにそう詰め寄った。それを宥めたのが兄の嫁で常務の亜紀あきだった。

「お義母さん、落ちついて下さい。それは有り得ませんよ。以前から芝元家と縁を切りたいと尊さんは言い続けていましたし、会社やお義母さん達の面倒は全て学さんや私に任せるから、財産なんて一銭もいらないと断言していました。そうよね、志穂さん」

 義姉だが兄と同じ年齢なので、志穂より年下になる彼女は母と同じく外面が柔らかい。その分内心、何を考えているか読めないタイプだ。

 そういえば刑事達の会話で聞き覚えがあった。尊を刺した犯人を捜す中で、兄夫婦だったらいずれ会社を乗っ取られるのではないかと危惧して刺し殺す動機があると分かり、アリバイを調べたという。

 ただあの日、兄達は遅くまで他の従業員と仕事をしていたと聞いている。もちろん名古屋から距離がある東京にいたので、彼らが犯人にはなり得ないと分かったらしい。それでも彼らにまで恨まれていたのだと改めて知り、刺し殺される可能性があったのかと想像し、ゾッとしたのだ。

 志穂は彼女の問いかけに頷いた。

「はい。そう私も聞いていましたし、彼の意見に賛成していました。ですからお金が欲しい訳ではありません。ただまだ目を覚ませずにいるこの状況で、彼の容態の心配よりも優先するほど急がなければならない案件なのか、お伺いしたかっただけです」

「冗談じゃない。私がお腹を痛めて産んだ子なのよ。心配に決まっているでしょう。でもそれとこれとは話が別。会社が困っているの。それとも邪魔をするつもりじゃないわよね」

「こいつの言う通りだ。それにこんな面倒な目に遭ったのは、俺がずっと反対していた保険会社になんか入社したからだろう。だから言ったんだ。東大まで出ていながら、あんなヤクザな仕事をするなんて馬鹿だとな。実際そうだろう。おかしな奴らに恨みを買って刺されたともっぱらの噂じゃないか。それをテレビや雑誌に取り上げられ、全国に恥を晒したんだ。こっちだって迷惑を被っているんだよ。会社の業績が悪化して土地を手放さなきゃいけなくなったのも、そういう影響が積もり積もった結果なんだぞ」

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