第三章~③

 刺されたのは芝元不動産の息子だと嗅ぎ付けたマスコミ達が、彼等の元にも押し寄せた話は知っている。警察が兄夫婦のアリバイまで調べたほどだから、尊と実家との間の不和に関する情報も掴んでいたに違いない。よって怨恨の線を辿る中で、彼らも何度か聴取を受けたのだろう。

 そうなれば近所の人達や近隣に、良からぬ噂を立てられたとしても不思議ではない。その上彼らは元々嫌われ者だ。同業他社はもちろん日頃から良く思っていない人達が、さらに煽ったと思われる。その結果、以前からの業績悪化に拍車をかけたようだ。

 そうした焦りなのか、最初は優しい声音を使っていた父までもが志穂に対して乱暴な口調に変わっていた。

「尊さんが悪いと、お義父さんはおっしゃるのですか」

 それだけは違う。この一年半余り、彼女は自分に言い聞かせてきたのかもしれない。散々テレビや週刊誌でも言われて続けてきた。だからこそ絶対その言葉だけは許さないと言わんばかりに、父達を睨みつけていた。

 その迫力に彼らも怯んだ。そこで再び間に入ったのが亜紀だった。

「そんな事は言っていないでしょう。もちろん一番悪いのはどんな理由があろうとも、人を刺すなんて暴力に訴えた犯人よ。だから志穂さんも落ち着いて」

 そう言われて志穂も我に返ったようだ。関係を絶っているとはいえ、義父母達に対する態度では無かったと反省したのだろう。頭を下げた。

「申し訳ございません。口が過ぎました」

 彼女の感情を逆なですると手続きが出来なくなる。そう恐れたのか、兄は先程同様に柔らかい口調で語りかけた。

「父達はずっと尊の就職に反対していたから、こんな目に遭ってちょっと感情が高ぶっただけだよ。志穂さんも一時は疑われていたから良く分かると思うけど、警察やマスコミの奴らはしつこかっただろう。それがこっちの仕事に影響したのは事実で、土地の売却も急いでいる。決して尊の容態を気にしていない訳じゃない。そこは理解してくれないかな」

「分かりました。亜紀さんがおっしゃったように、以前から尊さんは実家と縁を切りたいと言っていました。また実家の会社にも関わりたくないので、もし相続が発生したら放棄し、全部学さん達に任せるつもりでした。ですから土地や株の名義変更はさせて頂きます」

「そうか。有難う。志穂さんなら分かってくれると思っていたよ。じゃあこの書類に判子を貰えないかな。今すぐじゃなく返信用の封筒に切手も貼ってあるから、印鑑証明と一緒に後で郵送してくれればいい」

 胸を撫で下ろした兄は、そう言って書類を取り出し差し出した。しかし次に放った彼女の発言により、彼らは固まった。

「その代わり条件があります。本来土地や株の名義を変更すれば、その分の価値を譲渡することになりますね。法的に言えば贈与税がかかるでしょうけど、節税対策により名義貸しをしていた訳ですから、そこは上手く処理されるのだと思います。私は尊さんの意思を尊重するので、未来永劫そうした細かい点に口を挟むつもりはありません。ですから万が一尊さんが亡くなった場合も、彼の所有する財産について芝元家の皆様は手を出さない、とお約束して頂きたいのです」

 尊が亡くなった時の遺産は、子供がいないので配偶者の志穂に三分の二、両親が健在であれば三分の一が彼らの法定相続分となる。もし両親が二人共死亡しており兄だけが生きていれば、志穂は四分の三、兄は四分の一を受け取る権利があるのだ。

 つまり芝元家の財産を手放す代わりとして、尊が稼いだお金にも手を出さないで欲しい。志穂はそう条件を突きつけたのである。

 父達は尊名義の土地や株を渡したくない一心で、わざわざ東京から名古屋まで四人揃って来た。だから尊が死亡した場合の財産を奪おうとまでは、さすがに考えていなかったのだろう。よって志穂の申し出は想定外だったのか、理解するまで時間がかかったようだ。

 そんな中、最も冷静でいたのは亜紀だった。

「尊さんは三十半ばだったし突然起きたことだったから、万が一に備えての遺書を残していないのね。そうなると確かに今彼が亡くなったとしたら、遺産の三分の一はお義父さん達に受け取る権利があります。ところで名義の土地や株の価値はいくらぐらいか、あなたは尊さんから聞いて知っていますか。そんな交換条件を出すからには、お義父さん達の受け取れる遺産額が下回らないと割に合いませんよ」

 彼女は兄よりも偏差値の高い大学を出ている。ちなみに母も同じ出身で、父はそこより偏差値の低い大学を卒業していた。兄が結婚する際は尊の時の態度と大きく異なり、諸手を挙げて賛成していたのが母だった。それ程裕福な家庭の出でなかった分、頭の良さと容姿が自慢の母は、彼女に自分と似ている点を気に入ったらしい。

 その眼力は間違っていなかったようだ。その証拠に父の代で潰れていたかもしれない会社をなんとか持ち堪えさせているのは、兄夫婦のおかげと言って良い。特に会社の経理関係を任されている亜紀の力は大きかったと思われる。

 高校時代には既に父の会社は駄目だろうと見切りをつけていた尊は、大学を卒業し会社に入り金融関係について詳しく学ぶにつれ、予想は確信に変わっていた。恐らく母もうっすら気付いており、何とかしたいと考えていたはずだ。

 その為、将来会社は兄より尊に継がせたいと考えていた節があった。父はそこまで考えていなかったようだが、志穂と結婚するつもりだと事後報告した際、兄に足らない部分を将来補ってくれれば嬉しいとこっそり母から耳打ちされていたからだ。

 学歴も含め金融知識に通じていた尊なら、兄と違う分野で会社に貢献できると期待していたのかもしれない。例えば資産運用などで、会社を立て直すアドバイスがあれば欲しいと思っていたのだろう。

 しかしその気配を兄夫婦は察したに違いない。だから余計尊達を目の敵にしており、また亜紀は母と違い積極的に会社の業務を手伝い、兄を支えることで認められるよう必死に努力していたようだ。

 そうした事情を知っていたこともあり、将来の醜い骨肉の争いを避けたかった尊は実家と距離を置き、関わらないと決めたのである。志穂はその点も理解し了承してくれていた。

「名義分の土地や株の価値は三千万を超える程度、とだけ聞いています。もしそうだったら微妙かもしれません。尊さんが加入している生命保険などの死亡保険金や労災での給付金と今の貯金を合わせたら、一億円は超えると思います。正確には計算していませんけど、その三分の一となれば三千万円を超え、四千万円近くになるでしょう」

 微妙なところだ。額面的には遺産額の三分の一の方が、土地や株の代金より上回るかもしれない。だが生命保険の受取人名義は志穂になっている為、その分は遺産分配から外される。それ以外となれば関わってくる税金や手間などを考えた場合、諸々の諸事情を鑑みてもそこまで大きな差と言えず、彼らにとって土地や株の方が価値はやや高いと思われた。

 亜紀もそれを瞬時に計算したのだろう。とはいえ志穂の提案を直ぐに了承できる立場でない。あくまで今の時点だと父達の受け取り分だからだ。また他に問題点もある。彼女はそこを指摘した。

「尊さんの遺産に手を出さないでというのは、放棄を望んでいるのよね。でも遺産の放棄は、被相続者が生存していたら出来ませんよ。例えこの時点で放棄しますと念書を書いたとしても、法的効力はありませんから」

 その通りだ。それが出来れば尊はとっくにそうした念書を残し、父達に渡していただろう。それができない為、あくまで放棄は口で言うだけじゃなく、被相続人の死後三カ月以内に家庭裁判所へ届け出なければならなかった。

 もちろんそれは志穂だって知っている。だからだろう。彼女は頷いて答えた。

「分かっています。ただ念書があれば通念上、それを破った場合だと社会的制裁は受けかねませんよね。特にそうしたトラブルが起こっていると周囲に知れたら、私より会社経営されている皆様の方が被害は大きいはずです」

 これには冷静だった亜紀まで顔を引き攣らせ、他の三人も言葉を失っていた。確かに念書を交わした後、尊が死亡して遺産相続が発生した際、約束を破り三分の一を受け取ろうとする父達に志穂が抵抗し裁判を起こせば、世に恥を晒すことになる。

 そうなれば周りから、容赦ない様々な誹謗中傷を受けるだろう。尊の刺傷事件で既に彼らは皆、身をもって味わってきたはずだ。その痛みや辛さ、周囲に及ぼす影響力の大きさは経験済みである。その為業績不振により、個人資産の土地まで売却せざるを得なくなっているのだから。

 それに比べ精神的苦痛は計り知れないけれど、志穂は経済的損失という観点だけなら、そう影響は受けない。また相続争いとなった場合、念書があれば世間は妻である志穂の肩を持つだろう。

 妻が専業主婦の家庭で、稼ぎ頭の高所得者だった夫は何者かに刺殺されたとの事情を考慮すれば、残された無職の彼女に同情が集まるはずだ。対して法的には正当だとしても、遺産の三分の一を不動産会社経営している裕福な両親が受け取るのはおかしい、と普通なら思われるに違いない。

 会社の経営が苦しいからとなれば、尚更世間は許されないと感じるだろう。しかも法的根拠がないとはいえ念書があり、尊が意識不明の状態で土地や株の名義変更を行っていたと知れたら、明らかに攻撃対象となり炎上しかねない。間違いなく業務にも支障をきたすはずだ。

 そうした認識は父達や兄も理解したらしい。だから動揺を隠せず、顔色が変わっていた。それでも父達に視線を送りながら口を開いたのはやはり亜紀だった。

「志穂さんは私達を脅すおつもりですか」

「そうではありません。あくまで尊さんの意思を尊重したいだけです。先程お伝えしたように、彼は実家の財産を受け取る気はなく、縁を切りたがっていました。それは私達だけ、いいえ、厳密に言えば私達と私の実家とだけの関係を築きたいと考えていました」

「あなたの実家って、まさか農家を継ぐ気だったなんて言わないわよね」

 母が再び感情的になり、金切り声を上げた。

「違います。農家は兄が継いでいますし両親も元気で働いています。ただもう七十を過ぎていますから、今後いつ体調を崩すか分かりません。そうなると兄は今のところ独身なので、どちらかが倒れた時に面倒を看る人がいなくなります」

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