第二章~⑦
素面に戻った時の上役に対する彼はただの小心者だ。野城に暴言を吐いた時よりも真っ青な顔をし、自ら土下座したという。その態度を見て支店長が再び口を開いた。
「けれど怪我をしたのは江口課長だけだ。幸い軽症だったし傷害は親告罪なので、お前の態度次第では社内の問題として処理できる。その為にはどうすればいい」
その間、長い沈黙が続いたらしい。その空気を察したのだろう。彼は泣きながら言ったそうだ。
「責任を取って、会社を辞めさせて頂きます」
その際支店長を始め、皆が大きく頷いたという。
「そうか。それなら退職金も満額出る。君は独身でまだ四十代半ばだから、いくらでもやり直しが効く。出来れば早い方がいいな。といっても代わりの人事異動もあるし、君の引っ越しの時間も必要だ。来月の十二月末なら丁度区切りが良いんじゃないか。気持ちを新たに年が越せるだろう」
「わ、分かりました」
その時は素直に返事をし、彼は淡々と退職に向けて準備をしていたようだ。職場では人が変わったかのように物静かだったという。その様子に周囲は戸惑っていたが、事情が事情だけあって腫れものを触るかのように皆静観するしかなかったと思われる。代わりの要員も十二月初めの異動発表において、一月一日付けで直ぐ決まったと聞く。
しかし彼の心の中では全く腑に落ちていなかったのだろう。自ら起こした過ちとはいえ、一千万円以上の高所得者だった彼が年明けには無職となるのだ。収入だけでなく地位や名誉も失う。それに一部上場の保険会社を出ているとはいえ、潰しが効く職業でもない。
また表向きは自主退職だが、退職理由を詳しく調べれば雇用を躊躇する会社もあるに違いない。年齢だって四十半ばではかなり厳しいのが現状である。その上会社を辞めるとの情報が社内で広まった後、彼を嫌う人達からの陰口も多かったようだ。
「自業自得でしょう。酒癖が悪いのは自己管理がなってないって事じゃない。これまで勤めて来られたのが不思議だよね」
「自主退職って甘すぎじゃないか。退職金もしっかり出るんだってな。あんな人、捕まって首にしたら良かったのに」
そうした言葉が耳に入ったかどうかは定かでないけれど、彼は引っ越し予定の二日前の年末、五階建ての借り上げマンションの外階段から飛び降り自殺してしまったのである。その上遺書が残されており、会社に対する恨みが長々と綴られていたという。
酒を飲んでいたようで筆跡は乱れており、文章も意味の読み取れない個所がいくつかあったそうだ。けれどその中身からはかなり精神的に追い詰められていたと分かった。
しかも悪い事にこれがマスコミの知る所となった。尊の刺傷事件で重要参考人となった人物の自殺だった為、注目が集まるのは自然な流れでもある。もしかすると宇山はその効果を狙っていたのかもしれない。
そこで遺書が残されており、また死の原因は事件の隠蔽にあったと彼の両親等の証言により判明した。自慢の息子の自殺に憤りを持った彼らがマスコミの取材を受けた際、意図的に漏らしたのである。
そうなれば当然会社を始め、中部本部長や支店長達は世間から激しいバッシングを受けたのだ。結果本社はこの事件を重く見て、専務だった本部長を解雇。支店長は次長に格下げとなって四国に異動。新しく着任したばかりの支社長までが管理責任を問われ、二月一日付けという異例のタイミングと速さで九州の小さな支社に異動となった。
ちなみに江口は被害者でかつ退職を促した席でほぼ発言をせず、また権限がなかった為にお咎めを受けずに済んだという。
こうして怪我人や逮捕者だけでなく、とうとう死者が出てしまったのだ。さらに多くの関係者まで処罰される、最悪で後味の悪い事態に発展した。そうした事情を知った尊は、複雑な心境に陥った。
自身も被害者で身に覚えがないとはいえ、あの刺傷事件が発端になっているのは事実である。こうした災難はいつになったら治まるのだろう。犯人が捕まれば解決するのだろうが、一体誰なのか全く不明のままだ。
しかも重要参考人の一人だった宇山は死亡した為、万が一にも彼だったとすれば、完全に迷宮入りとなってしまう。彼が本当に自殺だったかを調べるという名目の元、警察は彼の部屋を捜索したけれど、尊を刺した犯人である証拠や痕跡は発見できなかったと聞く。
今回のことで尊を刺したのは、和喜田と同じく宇山でもなかったと思った。遺書には犯人でないと書かれ、信じない理由が無かったからでもあるけれど、それだけではない。
酒の勢いを借りてならともかく、通常の彼には犯行に及ぶほどの度胸などないと考えていたからだ。あの事件は計画的なものだったに違いない。そうでなければもっと早く多くの証拠が見つかっていただろうし、宇山なら早々に逮捕されていただろう。
だとすれば犯人は一体誰なのか。重要参考人として残るのは野城しかいない。よって皆が彼を疑うようになったのも当然の流れだった。それが更なる不幸を呼んだのだろう。つまり新たな騒ぎは治まるどころか、さらに続いてしまったのである。
宇山の犯行の発端が、野城に対する逆恨みだったと知れ渡ってはいた。しかし彼は尊の事件における重要参考人の一人だったからだろう。内々に処分を決めたのは会社の独断であり、彼は関わっていなかった。にもかかわらず、自殺した原因は野城にもあったのではないかと周囲から糾弾されたのだ。
その為事件における噂が広まるにつれて彼の会社からは顧客が離れ、急激な業績不振に陥ってしまったという。もちろん野城が預かり知らないところで宇山を退職に追い込み、それを事後報告された後に自殺されたのだから、こちらに責任など無いと会社に強く抗議したそうだ。さらには葉山損保専属代理店を辞め、他社と乗合を果たしたのである。
けれど保険契約は益々減少するばかりだったらしい。葉山との関係が完全に崩壊し、新規取引を始めたとはいえ、他社も世間や顧客からのクレームに及び腰だった点が影響したのだろう。
その上元々ワンマンだった彼の態度に日頃から不満を持っていた従業員が、担当する顧客を持ったまま次々と辞めてしまったのだ。沈んでいく船から脱出しなければ、自らの生活も危うくなると思ったのかもしれない。よって業績の悪化はとどまる所を知らなかった。
こうしてほんの少し前まではちやほやされていた保険会社から距離を置かれ、廃業の危機にまで追い込まれた彼は自暴自棄になったようだ。また一連の騒ぎの発端は全て尊が刺された事件にある、と里浜や宇山と同じく彼も考えたらしい。
そこでなんと彼は、東北に異動した和喜田の支社に乗り込んだという。彼の住む家までは分からずとも、勤務している部署は社員に聞けばすぐ判明する。その所在地もネットで検索して調べたらしい。
尊の刺傷事件から丸一年が過ぎた五月半ばだった。本部のような大きい自社ビルとは違い、地方の出先の支社だとセキュリティは相当甘い。
よって野城は昼間に普通の客を装い支社を訪れ、和喜田の姿をみつけるとずかずかと事務所の中に踏み込み、胸倉を掴んで迫ったという。余りに突然で素早い動きだった為、周囲にいた社員は止める暇もなかったようだ。
「全てお前のせいだ。芝元を刺したのはお前だろう。アリバイがなく最後まで疑われていたのは三人だ。俺はやっていない。宇山かとも思ったが違った。芝元を刺し殺そうとまでした奴が、酔っぱらった勢いで俺を襲い失敗した挙句、会社を首になったからといって自殺するはずがない。そうなると残るのはお前だけだ。そうだろう」
血走った目で自白を促したが、和喜田は必死に抵抗し逃れようとしながら、首を激しく振り否定したらしい。
「ち、違います。以前警察にも説明しましたが、私ではありません。もし犯人だったら、里浜さんに襲われ迫られた時点で白状していますよ。本当です。信じて下さい」
「そんな訳ないだろう。正直に言え。まだ芝元は死んでいない。もし彼が目を覚ませば殺人罪にはならないし、上手くいけば殺人未遂でもなく傷害事件で済むかもしれないだろう。しかも傷害罪なら親告罪だ。頭を下げて許して貰えば、罪に問われない可能性だってある」
「勘弁して下さい。やっていないものはやっていないんです」
「嘘をつくな。じゃあお前以外に誰がいるって言うんだ」
カッとなった野城は掴んでいた手で、彼を強く突き飛ばしたという。しかしその行為が不運だった。よろめいて倒れた際、和喜田は机の角に頭を強く打ってしまったのだ。
驚いたのは周囲にいた社員だけでなく、野城もそうだったと思われる。頭から血を流し、意識を失ってしまった彼に駆け寄り慌てて救急車を呼ぶよう、近くの社員に告げたと聞く。
そこで駆け付けた救急隊員により病院へ搬送された。だが打ち所が悪かったらしい。数時間後に死亡が確認されたのだ。
野城は地元警察により傷害致死罪で逮捕された。その為愛知県警の久慈川達は拘束されている彼の元を訪れ、今度は任意の事情聴取ではなく正式な取り調べを行い、尊の刺傷事件についても厳しい追及を行ったのである。
けれど彼は完全に否定をした。
「俺が刺す訳ないだろう。犯人は和喜田に違いない。そう確信したからわざわざ東北まで足を運んだんだ。そうじゃなければあんな真似などしなかったよ。それに俺は奴を殺す気なんて無かった。芝元を刺したと自白さえすればそれで良かったんだ」
そう主張を繰り返し、また彼の自宅や勤務先の家宅捜索を念入りに行ったが、尊を刺した証拠は宇山の時と同様、一切見つからなかったという。よって和喜田に対する傷害致死のみで起訴されたのだ。
その結果を受け、署に戻った久慈川達は振出しに戻った事件について愚痴を吐いた。捜査の進展がどうなっているかが気になっていた尊は、なんとか彼らの頭に辿り着いて会話を聞くことが出来た。
「一体どうなっているんだ。最有力の重要参考人だった三名の内、二人が死亡し一人は別件で逮捕された。しかも今回野城の周辺を徹底的に洗ったが、何も証拠は出なかった」
「事件から一年以上経過していますからね。その間に物的証拠は全て処分していたとしてもおかしくありません」
確か悠木という名の刑事だ。彼の反論に久慈川は軽く首を振りながら言った。
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