第二章~⑤

 確かにそうだ。相手を嫌ったり憎んだりする気持ちは、大なり小なり人間誰しも抱えた経験があるだろう。

 けれどそこから相手に手を出すなど攻撃を加えるとなれば、ハードルは一気に高くなる。ナイフで刺し殺すとなれば尚更だ。その一線を越えるには何某かの大きな、または決定的なきっかけがあったに違いない。そうさせたのは一体何だったのか。

 そこで改めて思う。もちろん自らを聖人君子だと思った事など無い。過去に他人を苛めた覚えはないけれど、喧嘩をした経験くらいはある。中学生の頃までだが人を殴ったこともあった。ここまで生きてきた三十六年間で、人の心や体を一切傷つけずにきたなんてとても言えない。

 といって殺される程の言動をしただろうか。それも意図せずしていたとなれば、相当な鈍感野郎か人でなしだ。いやそんなはずはない。相手が勝手に逆恨みしただけではないか。

 こうした苦悩の無限ループに嵌まったまま、尊は未だに抜け出せないでいる。それだけで頭が疲労し、ストレスは蓄積されていった。

 考えないようにしようと思うのだが、知らない間に元へ戻ってしまう。余り考え過ぎると尊の本体に危険が及ぶ恐れがある為に抑えてきたが、時々逃れられなくなる。特にこうした事件の捜査状況を耳にすれば、そうした苦悩はさらに強くなった。

「でも二か月は長いですよ。和喜田と宇山にその兆候が見られないのなら、次に怪しいのは野城でしょう」

 刑事達の話題が次に移ったようだ。興味深かった為、自戒の念から一旦離れた尊は目に見えない耳をすまして聞いた。

「彼の場合、担当が被害者の補充要員として着任した真垣という社員に変わっただけで、仕事上は和喜田達に比べればそう大して影響を受けていませんからね。ただマスコミに騒がれたせいで、営業上迷惑を被ったケースは多少あるようですが」

「彼もこれまで口にしていた被害者への愚痴は封印しているようだが、その代わり真垣を含めた和喜田達社員に対し、そうした鬱憤を晴らす為か相当当たり散らしているらしいな」

「ただそれ以外で彼も他の二人と同じく、変わった行動は取っていません。それに担当者や社員に不平不満を強くぶつけるのは、事件前と同じでそう変わらないようですから」

 結局警察の捜査は怨恨の線を辿りながらも、未だ決定的な証拠が掴めずにいるようだ。これではいつになったら犯人は逮捕されるのかと不安になる。下手をすれば、このまま未解決のまま過ぎて行くのだろうか。

 もしそうだとすれば、まだこの世のどこかに犯人は潜んでいるのだ。尊を殺してしまいたいと思うほど恨みを抱えている人物がいる。そう考えるだけで恐ろしくなった。もし目を覚まし、以前の生活に戻れたとしても気が気ではないだろう。

 尊はその後、再び何人かの刑事や警察官の頭を渡り歩いてようやく病室へと戻ることができた。それからしばらく経ったある日、志穂と一緒に病室でいた際、新たな事件が起こったと耳にした。なんと帰宅途中の和喜田が襲われたというのだ。

 場所は会社の最寄り駅らしい。階段の踊り場で、背後から呼びかけられ振り向いた際、ナイフを持った里浜奈々に腕を切られたという。その後彼女が馬乗りになり、彼の胸を刺そうとしている所を周囲にいた人に止められ、取り押さえられたらしい。

 幸い和喜田は軽症で済んだが、里浜は殺人未遂の容疑で駆け付けた警察官に逮捕されたのである。捜査に進展が見られず、重苦しい空気だけが漂い続けた結果、最悪の事態を招いたようだ。

 まだ意識が戻らない状態で病室にいた尊は、テレビで流れるニュースを志穂の頭の上で見ていた。これは明らかに尊の刺傷事件と関りがあるはずだ。もしかするとこれで滞っていた捜査が進むかもしれない。

 そう思ったらじっとしていられなかった。その為詳細を知ろうと、これまでの経験を駆使し再び出入りする看護師から外で見張っていた警官に乗り移り、そこから刑事へと渡り歩くなどして何とか取り調べ室に入り込んだのである。

 そこでは久慈川が彼女を尋問していた。

「どうして被害者を襲ったんだ」

 久しぶりに見た里浜の顔は、まるで別人のように醜く歪んでいた。

「あいつが全部悪いからよ。芝元さんが刺されたのだってそう。あんな事件が起きたせいで、私はあんた達警察やマスコミから酷い仕打ちを受けたんじゃない。そのせいで愛花は学校へ行けなくなったのよ。全部あの男がおかしなことをしたから、私達はずっと辛い目に遭ってきた。だから絶対に許せなかった」

「殺してやろうと思ったのか」

「そうよ。でもそれは芝元さんを刺したと言わなかったから。もし素直に認めていれば、命だけは助けてやるつもりだった。だって殺してしまったら、警察に突き出せないでしょう。ちゃんと罪を償って貰わなければ、私が犯人じゃなかったと証明できないし」

「芝元さんを刺したのはあなたじゃないんだな」

「当り前よ。私にはちゃんとしたアリバイがあったじゃない。警察もそれは分かっているでしょう。それなのにまるで私が犯人かのように扱われた。それも全部あいつのせいよ」

 どうやら尊の刺傷事件以降、彼女は情緒不安定に拍車がかかり、精神的にも相当参っていたようだ。そこで全て尊を刺した犯人が悪いと考え、それは絶対和喜田だと思っていたがなかなか逮捕されないことに業を煮やしたらしい。よって犯行に及び、ナイフを突きつけ自白を迫ったという。

 けれど身に覚えがない、絶対私ではないと和喜田が否定した為、刺し殺そうとナイフを振り上げたところを取り押さえられたそうだ。けれど彼女は彼が犯人だという決定的な証拠を掴んでいた訳ではなかった。単なる思い込みに近かったと思われる。

 それならば本当に彼ではないのか。いや、ただ単に認めなかっただけかもしれない。尊は真実が知りたかった。

 そこで怪我の症状の軽かった和喜田が事情聴取の為に警察署に呼ばれたところも、尊は立ち会って話を聞けるよう移動を試み、何とか辿り着いたのだ。そこでも聴取の担当は久慈川だったのが幸いした。

 彼は穏やかな口調で質問をしていた。逮捕された里浜と違い、和喜田は被害者だったからだろう。

「里浜奈々は和喜田さんが、芝元尊を刺した犯人だと主張しています。あなたを襲った動機は、犯行を自白させる為だったと証言しています。その件についてはどう思いますか」

「どう思うも何も、私じゃありません。芝元にちょっと優しくされたからと思って、勘違いするような女じゃないですか。刑事さん達も良く知っているように、仕事で気に食わないことがあったらすぐ会社に連絡して来て、芝元に話を聞いて貰おうとしていたんですよ。その度に他の社員が代わりに出たり、止む無く芝元が相手をしていたら三十分以上捕まったりと、仕事の邪魔ばかりしていました。そんなおかしな奴の言い分なんて、まともに聞く必要など無いでしょう」

「しかしあなたが芝元さんに対して、悪意を持っていたのは間違いありませんよね」

「何度言わせれば分かるんですか。彼の存在を疎ましく思っていたのは確かですよ。東大を出たエリートで仕事も出来る。女性事務員達にも人気があり、上からの覚えだっていい。出身母体は大手の葉山で、新日出身の私や宇山のように肩身の狭い思いをしなくて済む。昇進だってとんとん拍子だ。この支社に来てやっと支社長になれた私や、四十を過ぎてようやく支社長代理に昇格できた宇山とは違う。だからといって刺し殺そうなどとまでは思いませんよ」

「それはあなたが彼の直属の上司だからですか。嫌がらせをするなら他にいくらでも方法はある。最終的な人事権は甲島支店長や人事部がお持ちのようですけど、具体的な評価を下し上に報告するのはあなただ。そう言いたいのでしょうか」

 彼はグッと言葉に詰まりながらも、これまで繰り返されてきたやり取りらしく、再び開き直ったように表情を歪めて答えた。

「そうですよ。もうそちらもご存じのように、直接彼に嫌味をぶつけたりしていましたし、昨年度の評価を低く出したのも事実です。しかし上から見直すよう言い渡され、渋々評価を上げましたけどそれが何か」

 初めて聞く話だ。昨年度の評価は通常、六月頃に告げられる。ただ現在寝たきり状態で休職扱いとなっている為、尊はその内容を知らされていない。しかし今年度から次席に昇格するよう言い渡され、担当数字も良かった為に悪い評価はついていないと思っていた。

 だが裏でそんなやり取りがあったと知り驚く。彼はそこまで憎んでいたのか。しかも警察はそこまで調べていたようだ。彼が重要参考人の一人に挙げられていた理由は、アリバイがなく日頃の尊に対する直接的な言動だけでは無かったらしい。

 さすがにカチンと来たが、興奮しないように心を落ち着かせる。けれどさらに驚愕しカッとさせる内容が続いた。

「事件が起こった後も、厄介事に巻き込まれたと愚痴をこぼしていたようですね。この三カ月近く仕事が手に付かなかったのではないですか。しかも重要参考人の一人に名を挙げられ、週刊誌にだって匿名ですが直属の上司だと取り上げられた。聞きましたよ。どうやらあなたの異動が早まるかもしれないそうですね。通常なら来年あたりになる所が、今年の十月一日にはあなたか宇山さんのどちらかが動くだろう。そう噂されていると聞きました。それが栄転だったらいいけれど、どこかに飛ばされるかもしれないと嘆いていた。そうなったら一体誰が責任を取ってくれるんだと怒ってもいた。違いますか」

「それはそうでしょう、警察も芝元の事件は怨恨の可能性が高いと考えて捜査をしているじゃないですか。つまり彼がどこかで誰かの恨みを買ったからあんな目に遭った。つまり彼が刺された責任は彼自身にもある。それなのに、何故関係の無い私が被害を受けなければいけないんですか。しかも今回のように襲われるなんて迷惑です。私は被害者ですよ」

 幽体離脱した身なので元々喋られないけれど、呆れてものが言えなかった。それにしても何という言い草だ。特に十月の人事異動の話は初めて知ったけれど、尊の件が影響しているかなんて分からない。事件がなくても囁かれた可能性が高い噂ではないか。

 というのも今の支店長や本部長から、彼は評価されていないからだ。そうした話は支店長席の江口課長に聞いた覚えがある。彼が支社長でいられるのは、新日出身の管理職が余りにも少ないとバランスに欠けるから、下駄をはかせられたおかげだとまで言われていた。

 また実力が無いとは言えないけれど、今後確実に頭打ちだろう。宇山を無理やり支社長に引き上げた時だって上はいい顔をしていない。そんな噂まで耳にしていた。

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