第二章~④
余りに酷い仕打ちだ。しかしそうした行為を、その都度彼女が抗議など出来るはずがない。当然尊は見ているだけだ。
おかしな話だが、マスコミは所謂個人情報保護法の対象外となっており、表現の自由という名の元に法律で守られているからだという。残念ながら現時点での日本国内の法律で、それを規制する方法はない。よって行き過ぎた行為や公開されたくない写真の削除を個別に依頼するしかなかった為、拡散は避けられないのだ。
ただでさえこれまでの報道で、刺される程憎まれていた被害者にも何かしら原因があるのでは、と書かれてきた。
高学歴を鼻にかけ人を馬鹿にしてきたのではないか。また損保会社の支社長代理なら、推定年収がこれくらいだと明かされてからは特に酷かった。上級国民の奴なら、殺したい程恨まれても仕方がないとまで叩かれたのである。
そんな状況で志穂が何か問題を起こせば、いくら相手が先に殴り掛かって来たとしても、彼女や尊が受ける損害の方がはるかに大きい。下手に反論して揉めれば、たちまちその様子を見ていた人がSNSで拡散し、容疑者の一人とされる妻が騒いでいたと世間に公表されかねないからだ。
よって泣き寝入りするしかなかった。志穂はその点を理解していたのだろう。罵声を浴びせられても唇を噛みしめ背中を向け、足早にその場を去るしかなかった。
「何だ、逃げるのかよ」
と怒鳴られる場合もあったが、それでも無視をしていた。彼女はそうした邪険な対応を、これまで何度も経験してきたのである。
尊はその度に腸が煮えくり返る思いをした。しかし魂となり頭上でさ迷うしかない為、まさしく手も足も出なかったのである。
―何もしていない俺や志穂が、何故こんな目に遭わないといけないんだ―
だが時間が経過するにつれ、考えは少しずつ変わった。余り興奮しすぎれば本体に悪影響を及ぼすから、という理由もあったけれどそれだけではない。
余りに周囲から被害者にも非があると言い続けられ、本当に全く自分に落ち度はなかったのだろうか。もしかすると無意識に、何か悪いことをしていたのではないか、と疑心暗鬼に陥るようになったのである。その為余りにも苦しくなり、志穂に愚痴を言いたくなった。けれどそれは叶わない。よって一人悶々ともがく日々が続いた。
しかし彼女は病室にいた際、尊の枕元で何度も繰り返し呟いてくれた。
「尊さんは被害者よ。悪い事なんかする訳がない。犯人がどんな人かは知らないけれど、夜道で背後から刃物で襲う悪党が全部悪いの」
まるでこちらの気持ちを察していたかのようだった。最も信頼している相手にそう言い聞かされ、尊の心は少しだけ安らいだ。
ーそうだよな。俺は何も悪くないよなー
けれどさらに時が経ち、様々な問題が噴出し始めてから、そうした懸念は一層高まったのである。
というのも事件から二か月経過したが犯人は捕まらず、捜査がどうなっているのか尊は気になっていた。その為定期的に意識が戻らないかを確認しに来る刑事が病院を訪れる姿を見つけた際、咄嗟に彼の頭に映り移動して愛知県警の捜査本部を訪れてみたのだ。
そこで里浜の娘が不登校となり、その責任は警察にあると彼女が何度も抗議の電話を入れ、時々訪問までしていると初めて知った。刑事達は口々に話していた。
「俺達は里浜奈々にアリバイがあったとマスコミに公表している。奴らはそれを知った上で、被害者に横恋慕していたシングルマザーがいると騒げば世間は面白がると考え、記事にしたんだ。そのせいで娘が苛めにあったのか、学校に行けなくなったんだろう。抗議する相手が間違っている」
「マスコミにもしつこく抗議しているらしいですよ。事情聴取されていた時、横にいて感じましたが、感情的になりやすいタイプでしたからね。思い込みが激しいようですし。今回のような事件を発作的に起こした可能性は最も高い人物ですから、アリバイが無ければもっとしつこく尋問されていたでしょう」
「ただマスコミが書いた憶測記事のように、彼女の意向を受けた第三者による犯行という説は、さすがに無理がありますよね」
「そうだな。里浜の周辺を洗ってみたが、そんな人物は一人も見当たらなかった。親しい友人はおろか、親族からも敬遠されていたようだからな。経済状況は困窮している部類に入る為、金銭で雇った可能性も低いだろう。ただ彼女の住まいが他の被疑者と比べても、事件現場から最も近かった点は見逃せない」
「そういえば、防犯カメラにほぼ映らず現場まで往復できるルートを、捜査員が見つけた話は聞きました」
初めて耳にする話で、尊は驚きを隠せなかった。しかしもう一人の刑事は首を振った。
「確かにあったが何度もあちこち道を曲がり、複雑な経路を辿らないといけなかったようだ。素人がそんなルートを見つけるのは至難の業だと報告されていたし、例え偶然探り当てたとしても、そこを辿って犯行に及んだのなら相当以前から計画を練っていなければ無理だ。それに事件当夜、里浜は全く別の場所にいた。実行できるはずがない」
「そうなると無理ですね。でも一緒に住んでいる人間がいたじゃないですか」
「同居しているのは、若年性のアルツハイマーを発症した彼女の母親とまだ十三歳の娘だ。彼女が外で働き家計を支えているから、家事や母親の世話は中二の娘に押し付けているらしい。いわゆるヤングケアラーって奴だ。母親にはもちろん犯行など無理だし、事件当夜彼女が仕事で家にいなかったせいで、娘は徘徊癖のある祖母を見張り介護していたと聞いている」
また別の刑事がそれに同意した。
「娘に確かなアリバイがないとはいえるが、被害者を刺し殺す動機があるとも考えにくい。長期に及ぶ計画的な犯行だとすれば余計だ。先程言った複雑なルートを通り、現場から往復するのも無理だろう。それに祖母を置いて外出するのは余りにリスクがありすぎる。いつ帰ってくるか分からない被害者を、暗闇の中でずっと待っていなければならないからな。その間、もし祖母が徘徊してしまったら大騒ぎになるだろう。実際夜中に抜け出て転倒し足に怪我を負ったことがあり、その時以外でも周辺住民からかなりの苦情を受けたケースが何度かあったようだ。それから母親がいない際は絶対目を離さず、ベッドに寝かせたまま動かないよう見張っているよう娘はきつく言い聞かされていたらしい」
「里浜奈々が働きに出ている間の介護は、一体どうしているんですか。娘だって学校があるでしょう」
「平日の学校がある時間はデイケア等を利用していたようだ。区の福祉課や民生委員達の支援を受けていたというし、看護師やかかりつけ医も定期的に巡回していたと聞いている。足を怪我した影響もあり、外へ出る際は車いすを使って散歩などもさせていたようだ」
「でもそう長くはいてくれないでしょう」
「だから娘は授業が終わると、直ぐに帰宅していたようだ。夕方を過ぎれば通常なら母親が仕事から帰ってくる」
「それでも事件当夜のように、仕事で遅くなる日もあったようですね。それは大変だ。でもそのデイケアで世話になった人達というのは、母親と親しくしていたんじゃないですか」
「いやそれも確認したが真逆だ。里浜奈々の気性が激しかったせいか、どちらかと言えば嫌悪していたと言える。娘や母親の状況を考慮し、止む無く世話をしていただけらしい」
だが今はデイケア達の出番も少なくなったという。不登校となり家に引き籠った娘が世話をしているからだろう。おかげで介護ケアの自己負担分を払わなくて済む為、家計は助かっているはずだ。
しかし里浜は尊を刺した疑いがあると言いがかりをつけられ、そのせいで娘が登校できなくなった事態に相当な怒りを感じたらしい。マスコミ各社も含め、毎日のように抗議の電話をかけ続けているという。彼女の気質からすれば十分想像できる事態だ。
尊が刺された事件の為、全く無関係と思われる里浜の家庭はただでさえ大変な事情を抱えた上、更なる災難に見舞われたのだから当然ともいえる。そう考えると責任の一端を感じ、申し訳ない気持ちになった。
志穂も言ってくれたが、尊はあくまで被害者であり自身に落ち度などないと、段々思うようにはなっていた。けれど本当にそうだろうかと、時折疑問を感じざるを得なかった。刑事が口にした人知らぬ恨みを買ってしまっただけでなく、暴挙に出ざるを得ない事情があったとは言えないだろうか。
ここ二か月の間、人の体の上をさ迷いながら、頭の片隅ではそれが何かをずっと考えてきたように思う。動機として心当たりをあえて挙げれば、警察が睨んだように妬みや嫉みだ。
刺し殺そうとまでそうした歪んだ想いを増幅させ、犯人に実行させた責任が尊にあったのかもしれない。無意識の内に取った自分の言動が、そうした引き金になった可能性はあるだろう。それ故、同じ被害者といえる里浜の環境には気の毒だとしか思えなかった。
そう考えていると、刑事達の話題が変わった。
「ところで他の重要参考人候補達はどうなっている」
「和喜田と宇山と野城ですね。この三人はマークし続けていますが、未だ変わった行動を取っている者はいません。意識不明とはいえ被害者がまだ生きているので、止めを刺すかもしれないと危惧していましたが、誰もそうした気配をみせていませんね。もしかして刺した際に顔を見られたかもしれないと、犯人が焦っている可能性を疑っていたのですが」
「野城はともかく、和喜田と宇山は被害者が欠けた穴を埋めようと必死で、ここ最近仕事に追われて全く余裕がなさそうです。人員は補充されたようですが、ただでさえ忙しい部署だったようですし、被害者が相当優秀だったからでしょう。事件が世間に広まり騒がれ過ぎた影響もあったのか成績も伸び悩んでいるそうで、上から相当なプレッシャーをかけられていると耳にしました」
「といって、被害者に対する愚痴を吐いているとの話は聞かなくなりましたね。事件前には相当色んなところで口にしていたようですが、そのせいで疑われたからでしょうか」
「果たしてそれがいつまで持つかな。事件のせいで彼らが厳しい状況に置かれているのは間違いない。嫌な目に遭っているのも確かだ。もし犯人が和喜田か宇山なら、その鬱憤を晴らそうと何らかの異常な振る舞いをし始める確率は高いだろう。犯行の動機が妬みや嫉妬である可能性から考えても、明らかに度を越しているとしか思えないからな」
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