第二章~③

 会社というのはおかしなもので、社員が急に亡くなった場合はすぐさま人事が動き、代わりの要員を補充する。だが例えばうつ病などになって休んだり、怪我をしたりした場合で傷病休暇を取る社員が出た際、そうした動きはしてくれない。

 応急処置として支店または本部内で人員を動かし応援要員を確保するならいいが、酷い時など休んでいる社員が復帰するまでそのまま放置されるケースもあったという。

 けれど和喜田が志穂に告げた通り、今回は特例と判断されたようだ。中部本部のお膝元である名古屋支店内の、しかも次席の欠員だった点も考慮され、本社の専務役員でもある本部長が積極的に動いたらしい。

 結果来週から中部本部の総務課に在籍する、入社十年目の真垣まがきという男性総合職が応援要員で配属されると決まったのだ。しかしその間の次席業務は宇山が行ったとしても、支社で一番数字のウエィトが大きい尊の担当を真垣一人だけではフォローできない。

 彼は入社六年目まで転勤を伴う総合職として二か所の営業店を経験していたが、家庭の事情により転勤を伴わないエリア総合職を希望し、総務に配属され三年目を迎えた人材のようだ。

 よって経験はあるけれど、営業の仕事からやや離れていた二年余りのブランクがあるという。その為支社長を初め、宇山以下担当者全員で少しずつ割り振り、なんとか対応できるよう分担を決めていた。

 しかし混沌としていたのは担当業務だけでない。当然だろう。尊を刺した犯人は未だ捕まっておらず、さらに恐らく動機は怨恨で顔見知りの犯行だとの噂は、会社内でも相当広まっていたからだ。

 会社内やその取り引き先でさえ、未だ警察が捜査の為にうろついているという。その為皆が疑心暗鬼に陥り、また今度は別の人間が襲われるのではないか、いや再び尊が狙われるのではないかと危惧する声まで出ていたのだ。

 ただその件については、犯人が再度狙う可能性を視野に入れていた警察は、尊のいる病院を監視していたと後に知った。またどうやら志穂にも危険が及ぶと思ったのか、彼女にさえ刑事らしき人物が常に近くをうろついていたのである。

 こうして会社内で様々な情報を得られたのはいいけれど、このままずっと和喜田の頭の上で浮遊しなければいけないのか、と想像しただけでうんざりした。

 どうせならやはり志穂の頭か、病室で眠る自分の体の上が安心できる。それ以外の人と長い間居続けるのはどうしても落ち着かない。

 和喜田の性格からして、そう頻繁に見舞う可能性は低かった。次に病室へ行くのは社内的な要件を告げなければならない時だろう。それは一体いつになるのか。一か月後か、それとも半年後なのだろうか。もしそうだとすればかなり長い間、この状況が続く。

 そんな不安を抱えていた時、寺地が和喜田に投げかけたひと言で救われた。

「支社長、今日は芝元さんの病院へ行かれたんですよね。だったらそろそろ私達もお見舞いに伺っていいですか」

 すると尊の隣の席に座る事務職のリーダー、吉岡よしおかも声を上げた。

「そうです。私も行きたいのですが駄目ですか」

 彼女は入社十一年目のベテランで、以前いた次席と共に癖のある代理店とやり取りしてきただけあり、この会社の女性ならではと言える気の強さを持つ優秀な事務職だ。経験値が豊富なだけでなく、事務能力の高さに加え後輩への教育力は抜群だった。

 今時の、と言ってしまうのは間違いかもしれないけれど、叱られ慣れていないと言われる世代でしかも同性の指導は難しい。厳しくし過ぎればやれパワハラだと言われ、直ぐに辞めてしまう社員は少なくなかった。

 そんな中、彼女は決して甘やかすことなくかつ慕われている。支店長席の江口課長によれば、支店だけでなく本部内でも彼女は優秀な事務員で、評価もトップクラスだという。

 尊はそんな彼女とペアを組んでいた。尊が担当する代理店の事務を担う役割だ。数字が大きければ書類の処理件数も増えるし、一癖も二癖もある人達を相手に主に電話だけで応対しなければならない。だが彼女は問題なくこなしていた。

 さらに今回の事件で表面化したが、それ以前から支社にいる多くの人は尊に対する里浜の過剰な態度を良く知っていた。その中でも事務員同士の為に会話を交わす機会が多い吉岡は、誰よりも事情に精通していた。尊と共に仕事上だけでなく、精神的部分のフォローまで補ってきたからだ。

 そのせいで里浜は尊に好感を抱くようになったのだが、こちらは既婚者でもあり取引先との恋愛のもつれがあっては仕事に差し支える。よって吉岡は二人の間に入り、なんとか相手の感情を逆なでし拗らせないよう、心を砕いてくれていた。

 尊にかかってきた電話の取次ぎも、三回の内二回は席を外しているか他の電話に出ているなどと嘘を付き、彼女の相手をしてくれていた。重要取引先の事務員であり、悪い感情を持っていないだけあって邪険に出来ないという悩ましい問題だった。

 そういった面を含め営業現場経験が浅い尊はこの一年の間、相当助けられている。支社の運営を陰で支えているのが彼女だったからこそ安心して外出でき、代理店への企画書作成などにも時間をかけられた。だから好成績を収められたと言っても過言ではない。

 彼女達の発言に一瞬戸惑いを見せながらも、和喜田は言った。

「そう長い時間で無ければ問題ないだろう。特に君達なら警察も警戒しないはずだ」

 寺地には事件当夜のアリバイがある為、そう言ったのだろう。また社内での会話や警察とのやり取りを後日確認して分かったが、吉岡も犯行は不可能だと聞いた。

 事件当夜は自宅の部屋にあるデスクトップのパソコンで、ライブ配信の番組を視聴していたらしい。驚いたことに警察はそのパソコンを任意提出させ、通信履歴なども確認したという。そこまでやるのかと思ったが、おかげでアリバイが成立したようだ。

 ちなみに視聴している時、彼氏から電話がかかって来たので少しの間だけだが話もしていたらしい。警察は里浜とは別の意味で彼女が尊と近しい関係にあった為、そこまで疑ったのだと思われる。

 警察ではその他の関係者もかなり徹底的に調べていたようだが、金曜の夜遅くにアリバイがはっきりと証明できる人間など、ほとんどいなかったようだ。よって寺地や古瀬や吉岡、里浜や同席していた営業社員を除けば、ほとんど容疑者から外せない状況だった。

 そうした背景や尊自身の容態の安定を鑑みて、しばらく病院への見舞いは控えるようにと会社からお達しが出ていたという。

 けれど事情聴取が一通り終わり、アリバイがないだけでなく重要参考人の一人として名を挙げられていた和喜田が見舞いに行けたのだ。よって少なくとも私達はもういいだろうと、寺地と吉岡は手を上げてくれたと思われる。

 何の濁りもなく純粋に容態を気にしてくれている気持ちが伝わり、尊は彼らの頭上で人知れず涙ぐんだ。危機的な状況に陥った時こそ、人間の本性が出るものなのだろう。

 職場の天井にずっといた間、どの人がどの程度尊について心を砕いてくれているかは、だいたい把握できた。といってもたった一年と少ししかいない職場だ。そう多くの人から慕われる程、深い人間関係は形成できていない。

 それでも寺地と古瀬、吉岡は別格だった。だがこの時古瀬は見舞いに行くとまで言及しなかった。というのも末席として仕事に忙殺され、余裕がなくそれどころではなかったからだろう。

 しかしそれだけではない。下手に和喜田や宇山といった上司や先輩から、目を付けられる行動を避けたかった為だと思われる。

 事実和喜田は彼らの申し出に、余りいい顔をしていなかった。ましてや宇山などは露骨に二人を睨みつけていた程だ。けれどその気持ちも分からなくはない。

 尊が事件に巻き込まれた為、ただでさえ忙しい彼らの仕事はさらに負担を増している。その上二人は、事件を起こした犯人かもしれないとの疑いまでかけられているのだ。事件前から関係が良くなかった分、余計に腹立たしい思いを抱くのは当然だろう。

 それでも許可が得られた寺地と吉岡がその日の業務を早めに終わらせ、早速尊の見舞いに行ってくれたらしい。よって次の日からは彼らの頭の上でも浮遊できるようになったのだ。

 ちなみに彼らが翌日出社してくるまで、不本意ながら尊は和喜田の頭上を浮遊し続けるしかなく、彼の自宅まで連れて行かれた。見たくもない彼の私生活はもちろん、お風呂での裸やトイレで用を足す姿まで目にさせられた。

 けれどその後、寺地達の他にも支店長や江口課長、古瀬や他の女性事務員達の多くが土日の休みを利用し、お見舞いに駆け付けてくれたのである。そのおかげで頭上を浮遊できる人の数が増えたのだ。

 そうした同僚達や接触してきた警察関係者達の頭上を渡り歩き、尊はある日ようやく病室に戻って来られた。だがそうしている内に事件が世間で騒がれ始め、周囲の様相は大きく変わっていったのである。

 試練は続いた。警察の度重なる訪問やマスコミによる攻勢が一旦落ち着きを見せ始めた頃、次は周辺住民達の冷たい、または好奇な視線に志穂は苦しめられていた。

 マスコミの取材で迷惑し、その不満の矛先が尊達に向けられたからのようだ。また元々人付き合いが浅かったせいもあったと思われる。それに近所で殺人未遂事件など滅多に起こらないからだろう。

 その上テレビで大々的に扱われるなど、彼女は一種の有名人となってしまった。顔は伏せられたものの、被害者である尊は年齢とフルネーム、SNSに以前釣り仲間と撮影し乗せた顔写真までが、当然のように掲載されていたからだ。

 おかげで近所の方や、普段一緒に出歩いていた場所などで志穂は認識され、外を歩く度に視線を感じていたと思われる。酷い時には指を差され、こそこそ陰口を叩く人達も現れた。

 モザイクがかかった、または腹部から下の部分だけ晒した彼女が泣きながらマスコミに抗議している姿をテレビなどで観た者だろう。すれ違いざまにわざと聞こえるトーンで、

「ヒステリックに泣く方が、余計怪しいだろう」

と吐き捨てていく奴らもいた。他にも指を差し、

「この人、ニュースで泣いていた奴じゃないの」

「旦那が誰かに恨まれて刺されたんだよね」

「東大出を鼻にかけていたんでしょ」

「ハイスペックで意識高い系だから、恨みを買ったに決まっている」

「裏で何か悪い事でもしていたのかな」

「旦那の方が不倫していたらしいよ」

「だったら殺されかけてもしょうがないか」

などと全くのデマを含め囁き合っている人達さえいた。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る