第二章~②
一部では彼女を擁護するコメントが寄せられたけれど、それでも騒ぎは一向に収まらず、テレビのワイドショー等は取り上げ続けたのである。そんな様子を漂いながら見ていた尊は、頭に血が上り激怒した。
いくら夜道で背後から突然だったとはいえ、志穂に刺されたらさすがに尊もその気配に気付いたはずだ。また結婚前も含め十年以上の付き合いがあり、結婚後はずっと一緒のベッドで眠りお休みのキスを欠かしたことは無い。
そんな彼女に刺されるほど恨みを買っていたのなら、余程の鈍感野郎でない限り、もっと以前に不穏な空気くらいは感じていただろう。けれどそんな事は全くなかった。
それでも尊は誰にも気づかれずただ悶え続けながら意識が戻るよう願うことくらいしかできず、彼女の頭上を浮遊し傍観するしかなかった。その悔しさと歯がゆさで、胸が張り裂けそうな想いをした。
だからだろう。刑事の志穂に対する取り調べで怒りを覚えた時のように、そうしたストレスが病院で眠っている尊の体に影響を及ぼしたらしい。容態が急変し危険な状態に陥った時が何度かあったのだ。それを後で知り、それからはできるだけ冷静さを保つよう心掛けるようになった。
またこの他にも分かったことがある。幽体離脱した尊は、一度病室に入った相手なら一緒に移動出来るらしい。まだ死んでいない為に正しくは幽霊でないけれど、志穂や担当医師、出入りする看護師達なら取りつくように付き纏えるようだ。
そう理解できたのは、尊の容態が本当にどんな状況なのかを確認しようとした時だった。余りに意識不明の状態が長かった為、担当医師の口から病室で志穂に告げていた説明が嘘かもしれず、実際はかなり危険なのかもしれないと疑い始めていたからだ。
よって担当医師が病室に来た際、出て行く彼の後について行こうとしたところ、上手く頭上に漂って医務室まで移動できたのである。ただ問題はそこからだった。
しばらく医師に張り付いて確認したが、どうやら尊の容態について志穂に隠している事実はないと分かった。よって病室へ戻ろうと思ったけれど、彼はなかなか尊の元には向かわなかったので、志穂と会えなくなってしまったのである。
困った尊は、だったら看護師なら頻繁に出入りするだろうと考え、近くを通りすがった人の頭上に乗り移ろうと試みた。しかし何故か無理だった。そこで何度か試している内に、ようやく見覚えがあった一人の女性看護師についていくことが出来たのだ。
その後しばらくいくつかの病室を回った後、ようやく尊は自分の体の元に辿り着けたのである。それからも何度か医師や看護師の後につき病室を出て戻るという行為を繰り返す内、病室に出入りした者でなければ乗り移れないとの法則があるかもしれないと気付いた。
そうした推測をさらに裏付けたのは、事件発生から二週間が経とうとする木曜日、事前連絡した上で和喜田が志穂や担当医師と話をする為に病室へ来た時だった。
ようやく会社関係者に対する警察からの事情聴取が一通り終え、彼らも落ち着きを取り戻しつつあったからだろう。また事件がSNSにより拡散され騒動になる直前だった為、お見舞いに来られる状況でもあった。
その姿を見たのは、尊担当の看護師の頭上で浮遊し病室の外にいた時である。そこで彼に乗りうつれば病室へ戻れるかを試した所、それが出来なかった。よって止む無く彼の前を歩き案内していた志穂の頭に乗り移り、病室へと到着したのだった。
彼は部屋に入り、ベッドに横たわる尊の様子を見てから志穂に頭を下げ、
「この度は大変な事になりましたね。まだ意識が戻っていないと先程伺いましたが、奥様もさぞご心配でしょう」
などと表面的な言葉をかけとりとめのない会話をした後、ようやく本題に入った。
「ところで現在の芝元さんに対し、会社として対応できることは、」
どうやら和喜田と志穂は病室に来る前、二人で担当医師の元を訪れ尊の容態について説明を受けたようだ。その上で会社帰りに起こった災難だった為、労災の範囲に入るといった話をし始めた。
さらに今後意識を取り戻したとしても、直ぐ仕事ができる状況にはならない可能性が高いと医師から確認したらしい。よって現在残っている有休を優先し消化した後は休職という形を取るなど、社内的な取り扱いを解説していた。それを伝えに来たようだ。
折角なので尊も漂いながら内容を把握する為、耳を傾けた。話によれば治療費や休んでいる間の保障は労災で支払われ、経済的な問題はないと分かった。療養給付を受けられる期間は病気や怪我が治癒また症状固定するまでとなっている為、治療の必要な期間は自己負担なく全額受給できるという。
保険会社の社員ということもあり、これとは別に尊と志穂は個人的に十分すぎるほど加入していたと思い出す。よってその医療保険や傷害保険により、相当の給付金が支払われる。医療保険からは入院保険金が日額一万円で最高百八十日、さらに傷害保険から日額一万円が通算千日限度で支払われるはずだ。
その上入社十年以上の社員の傷病休暇だと、最高三年までほぼ全額給与が払われるという。そこからさらに半年は七割に減るが、最長三年半は会社を休んでいても給与が支給されるとの説明がされた。
他にも尊達が今住んでいる会社が借り上げているマンションの家賃は、給与天引きで月二万円弱しか払っていない。残りは会社が負担して直接管理会社に支払われている。
しかも部屋の広さが子供のいない夫婦二人には広すぎる、三LDKをあてがわれていた。一度調べたところ、相場で月十五万以上はすると分かっていた。つまり九割近く会社から補助が出ている計算だ。これ程恵まれた環境はない。それが休職期間中もずっと続くと聞き尊は安心した。
大手上場企業なら福利厚生面は充実しているとなんとなく知っていたものの、こうした点は実際に起こって恩恵に預かる身にならなければ気付かないものだ。約四年前後で海外を含めた全国各地への異動を強いられる分、そうした部分はしっかりしているのだろう。
ただ子供がいる家庭は転校などで神経を使うらしい。また介護が必要な親族を抱えている場合もある。よって最近は転勤を伴わない、エリア限定の総合職に切り替える社員が増えたと聞く。
誰も親しい人がおらず見知らぬ土地に馴染めないのは、子供だけではなく配偶者もそうだ。その為単身赴任をしている社員も少なくない。中には家庭内不和を起こし、離婚する人も増えているようだ。
けれど尊達には今のところ、そうした問題がない。その為支社長の説明を聞き、ほんの少しだけこれまで抱いていた不安が和らぎ胸を撫で下ろした。
「有難うございます。ただ会社にご迷惑をかけないよう、少しでも早く意識を取り戻して職場復帰できればと思っています」
彼女がそう頭を下げると、尊に見せたことのない温和な表情で和喜田は首を振った。
「いえ、まずはしっかり治療をして頂く事です。会社に関してはご心配頂く必要はありません。通常だとなかなか交代要員は配置して貰えないのですが、本社人事も今回の事態を重く見たようで、早速来週から一人応援要員が来ます。もちろん芝元さんほど優秀な社員の抜けた穴を埋めるのは大変ですが、そこを何とかするのが私達の仕事です。だから奥様は彼が無事目を覚ますよう、それだけに腐心して頂ければ結構です」
そう言い残し病室を出ようとしていたので、尊は彼の本心が知りたいと思いついて行こうとしたところ、今度はスムーズに彼の頭上で浮遊することが出来たのである。
そんな行為が果たせた為に目を丸くしながら彼と一緒に病院の外へ出たところ、彼はスマホを取り出し、耳に当て話し始めた。その内容から相手は支店長だと分かった。
「はい。医師の話ではいつ意識を取り戻すかどうか、全く分からないそうです。また一命は取り留め現在のところ安定しているけれど、容態が急変する可能性も否めないと説明されました。最長で三年半の休職期間を使い果たす場合も、覚悟しておく必要があるかもしれません」
志穂の前ではまだ言えないと判断し、外に出てから報告の為に電話をかけたようだ。その話によれば、休職期間が終われば一旦退職しなければならないという。
ただ状況を考慮し、その後体調が戻れば改めて復職できる可能性がある点は、伝えておくべきだと話していた。しかしそれは今のタイミングではなく、もっと後で良いと二人の意見が一致し電話を切っていた。
不安要素をまた一つ潰す新たな話を耳にして再び安堵する。余り良くない状況が続いていた為、少しでもこの先に希望が見いだせる話題は有難い。
そう思っていた尊にアクシデントが起きた。その後、病院まで乗って来た社有車の運転席に彼が乗ろうとした為、尊は病室に引き返そうとしたが出来なかったのだ。
どうやら漫画やアニメや小説で描かれているような瞬間移動は無理らしいと理解する。よって止む無く彼の頭上についたまま、会社へとついて行くしかなかった。
しばらく志穂と病院関係者ばかりに張り付いていた為、久しぶりに周囲の景色が変わったことで閉塞感はやや和らいだ。
けれど余り好きでない人物と一緒に居なければならない状況は、少しばかり苦痛だった。それでも尊には選択肢がない。よって我慢するしかなかった。
それからは彼の頭上を漂いながら、しばらく会社内をうろちょろしていた。久しぶりに顔を見る同僚達が忙しく働いているのを見て、申し訳ないとの想いを持つ。
と同時に懐かしい感じを持ちつつ、天井付近からというまず経験しない視点から見渡す仕事場は興味深かった。
けれど余りに長く見続けていると、単に人が仕事をしている様子は退屈だ。しかも明らかにくだらない作業をしている状況や、部下達を叱咤している姿を眺め続けているのはかなり不快だった。
そこで社内の見知った同僚達に乗り移れないものかと何度か試してみたけれど、誰もできないと分かった。その代わりと言っては何だが、和喜田について回っていたおかげで二週間不在していた職場の状況が徐々に見えてきた。
まずは人員補充の件だ。次席で最も大きな数字を持ち、厄介な大型代理店を担当していた尊の欠員は、中央支社として大きな痛手だったと思われる。それを和喜田や宇山を中心に分担し対応していたようが、相当混乱していた。
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