第二章~①

 事件発生時から一週間が過ぎても、尊の本体は意識が戻らないまま入院生活を続けていた。だが離脱した意識だけは浮遊し、主に志穂の頭の上を漂っていた。

 その間も死にたくないと怯え、毎日病室へと通う彼女と一緒に目を覚ましてくれと願い、こんな思いをさせたのは誰かと怒り、これは自業自得なのかと悩み苦しんだ。

 さらに目を覚まさない尊の手を毎日何度も擦り、時々涙ぐんでいる彼女の背を見て申し訳なくまた有難いと感じた。こんな妻と一緒になれて自分は幸せだと思う反面、何と酷い仕打ちをさせるのかと憤り、それはもしかすると自分が蒔いた種なのかと気が咎めた。

 そうした辛い日々を送り続けている中、尊を刺した犯人はまだ捕まっていない。その影響が思わぬ状況を生み出していた。というのも事件に関してマスコミが想像以上に煽り立て始め、やがて全国各地にまで広まったのである。

 本来なら一会社員が何者かに刺され、意識不明の重体に陥っているとのニュースが地域や全国ニュースで流れても、犯人が捕まっていないとはいえ被害者は死んでいない為、次々起こるその他の重大事件の影にいつしか消えていくものだ。

 最初はそうだった。しかし尊の釣り仲間が事件に気付き、その内容をSNSで拡散した為、大勢の人達によるお見舞いコメントが綴られたのである。そこでまだ意識が戻らないだけでなく犯人が捕まっていない状況に、一部の人達が憤り様々な事を書き始めたのだ。

 警察は何をしているのかとの批判から、やがて犯人は誰なのかといった推理合戦の応酬が激化していった。また以前から身元がばれていたので、尊が保険会社勤務の高所得者で東大卒だという情報も知れ渡ってしまったのである。

 それだけではない。どこから漏れたのか通り魔による犯行ではなく、恨みを買った人物によるものだと警察が疑っている、とまで書き込まれたようだ。

 さらに容疑者とみられる複数の人の大まかな人物像まで描かれたらしく、その中の誰かが犯人である可能性が高いと、マスコミまでが大きく取り上げる事態に発展したのである。

 高学歴高収入の社員が襲われ意識不明の重体に陥った理由が、合併により会社間格差等の歪みで生じた恨みか、または高学歴を疎んじた妬みか、はたまた実らぬ想いを拗らせた憎しみによるものなのか、といった話題が如何にも大衆に好まれる話題だったからだろう。

 よって尊の借り上げ社宅のマンションには、世間から事件の早期解決を迫られた刑事達が訪問するだけでなく、マスコミによる激しい取材攻勢が続いた。その為毎日入院している尊の様子を伺おうと出入りする志穂の周りは、常に人が集まるようになったのだ。

 けれど彼女は何も語らず、毎回彼らを振りきっていた。警察から余計な事は話さないようにと告げられていたからだろう。またいちいち相手をするのが煩わしいと感じていた事も確かだったはずだ。

 そうなると被害者の家族とはいえ、一般人の彼女の姿を許可なくテレビで流すまたは週刊誌に載せたりなどできない。また記事になるコメントを得られなければ、マスコミ達は単なる無駄な時間を費やすだけだ。当然現場記者達の上司から叱咤されるのだろう。

 そうして苛つき始めた彼らが次に狙いを定めたのは、警察と同じく会社の同僚や取引先を含め、自宅周辺の住民達だった。

 しかし会社関係者の多くは、詳細な情報を口にしなかった。せいぜい刺し障りがない程度の評判を語る程度である。これも犯人の動機が怨恨である可能性は高く、尊の周辺人物が疑われていた事情も関係していたのだろう。下手に喋れば、警察だけでなく会社や取引先からも睨まれると危惧していたらしい。

 また尊達は越してきてまだ一年足らずで、近所付き合いもほとんどしてこなかったおかげで、周辺からもこれといった証言が取れなかったようだ。

 そうした状況が、マスコミ達の不満を益々増幅させたのだろう。その結果、根拠のない推測記事が紙面を多く飾るようになった。

 こうなると厄介だ。当然名前は伏せられていたが、分かる人には誰についてなのかピンとくる書き方がされた。それがネットを中心に拡散された為、尊の関係者の中で後ろ指を差される人が続出したのである。

 和喜田や宇山、野城に加え、アリバイのある里浜までがそこに含まれていた。言うまでもなく尊との係わりや、疑われる根拠などまで記載されていた。またあろうことか、志穂もその中に入っていたのだ。

 彼女は事件当時、当然のように一人で自宅にいた。余程のことが無い限り、尊は今帰るといったメールや電話をしていなかった。その為いつもより遅いと軽く思っていたのだろう。だから普段通りテレビを観ていたようだ。

 十一時を過ぎたら彼女は就寝の用意をし始める。その時間でも帰ってこない時は待たずに寝て貰う。結婚当初からそう取り決めをしていた。それまでは録画していたドラマやお笑い番組を観るか、読書をして過ごすのが習慣だった。

 けれどその日はテレビを消す前、かなり近くで人の騒ぎ声が聞こえ何事かと気になったらしい。するとやがて救急車やパトカーのサイレンが彼女の耳に届いたという。その為何事かと窓を開けて外を覗いたようだ。

 ちなみに尊達の部屋は三階建てマンションの角部屋である。周囲は二階建てから三階建ての一軒家が多い閑静な住宅地の中にあった。

 その際、隣に住む住民や真下の階の人も、同じようにベランダから顔を出していたらしい。また一階の人達の中には、外へ出て様子を見に行った住民もいたと聞く。そこでお互い気付き、彼女は隣人に声を掛けられたという。

 転勤族でまだ一年余りしか経っておらず、近所付き合いは深くない。子供がいれば同じ学区内に通う子供の親と話をする機会などあるだろうが、それも無かった。それでもマンション内や近くで顔を合わせれば、当たり前だが挨拶程度はしていたからだろう。

「何か事件ですかね」

「事故かもしれませんよ」

「でも車がぶつかったような音はしませんでしたけど」

「歩行者か自転車とぶつかったのなら、余り音はしませんからね」

「そうですね。もし事件だったら怖いですけど。お宅のご主人はもう帰られたのですか」

 そう尋ねられ、志穂はハッとしたという。帰宅途中の尊が事故に遭ったのかもしれないと想像したようだ。

「まだ帰っていません。ちょっと電話してみます」

 慌て出した彼女を見て隣の住民は頷き言ったそうだ。

「そうした方がいいですよ。何もなければそれでいいんですから」

「分かりました」

 急いで自分の携帯電話を取り出しベランダに出たままかけたところ、しばらくして通じた為にホッと胸を撫で下ろしながら話しかけたそうだ。隣の人がいた手前、

「尊さん。今どこにいるの」

と告げたようだが、そこで返ってきた声は別人だった。しかも周囲が騒がしい為、嫌な予感がしたという。

「失礼ですが、どちら様ですか」

 そう尋ねられ、一瞬言葉に詰まった彼女だったがどうにか答えたようだ。

「この電話の持ち主である芝元尊の妻です。そちらはどなたですか」

「私は救急隊員です。ご主人が何者かに刺されたようで、これから病院へ緊急搬送します」

 そこからの彼女の記憶は曖昧らしい。やり取りを見ていた隣の住民はただ事でないと分かったのだろう。また電話の向こうから洩れ聞こえる声が外の声と重なり、騒ぎの中心に尊がいると理解できたようだ。

「早く行きなさい」

と声をかけられ、救急隊員の指示もあって彼女は急いで部屋を出たようだ。その後駆け付けた警察官に呼び止められ事情を説明し、先に走り出した救急車を追いかける為、パトカーに乗せられ病院へと向かったらしい。

 マンションの入り口には防犯カメラが設置されている。その記録によれば事件前に彼女が出入りした姿は映っておらず、隣の住民の証言などからもアリバイが成立していたと警察は判断していた。

 それなのに帰宅途中の夫を待ち伏せして刺し、何食わぬ顔で帰宅した可能性もあるなど、何の取材もしていない記者による心ない記事がネットに出回ったのだ。

 これには警察も見過ごせないと考えたのだろう。事件についての会見を開いた際や、その他記者によるぶら下がりを受けた時、志穂にはアリバイがあると告げてくれた。

 それでも風評被害は収まらなかった。一旦流れてしまった記事を消す事は容易でない。最初の間違った内容を鵜呑みにする愚かな人達は一定数いる。よって一時期とはいえ、SNSで妻犯人説がかなり広まった。

 というのも裏口に防犯カメラはなく、二メートル以上ある壁をよじ登れば抜け出して戻ろうと思えばできたのではないか、とまで囁かれたからだ。

 それに怒った彼女は顔を出さない条件を付け、病院の敷地の外においてそれまで避けていたマスコミの取材を受け、涙を流しながら強く抗議した。

「私には事件が起こった時間帯にアリバイがあり、犯行は不可能だと警察の方も確認し、皆さんにお伝えしています。それなのに未だ私が犯人かのような書き込みを、ネットで行っている方がいます。今すぐ止め、訂正コメントを書いてください。これ以上悪質な書き込みが続くようなら、弁護士にお願いして法的措置を取るつもりです。また私だけでなく、何の確証もない方が犯人かのように勝手な憶測をされているようですが、そうした記事を書く事も止めて下さい。捜査は警察が進めています。会社関係者や近所の人達に迷惑がかかっていますから、過剰な取材は控えて頂くようお願いします」

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