第一章~⑧

「歩いて行くには少し時間がかかるけれど、新しい雑貨店が出来たとチラシが入っていたから一度行ってみようよ」

 そう志穂に誘われ、普段買い物に出かける日ではない土曜日の午前中、尊達は目的の店に向かった。地下鉄の駅でいえば二つ先ほどだが車を走らせるには近い。またその店が並ぶ商店街付近だと、無料で長く停められる駐車場が見つからなかったからだ。

「だったら散歩がてら、ついでに他の店も覗いてこようか。あの辺りは何度か車で通ったけどしっかり見てはいないし、お昼も近くにある店で済ませればいい」

「そうね。生鮮商品でいいものがあったら買ってもいいよね」

 そう言いながら、手は繋いでいなかったけれど仲良く二人で会話しながら歩いていた時だった。何となく視線を感じ、ふと首を横に向けると知った顔があった。だがその人はもう一人、見知らぬ少女と一緒に居た。

「ああ、里浜さん。こんにちは」

 尊は挨拶をし、担当代理店の事務職の方だと志穂に教えた後、妻ですと里浜に紹介した。

「主人がいつもお世話になっています」

 彼女は頭を下げ卒なくそう挨拶したが、複雑な心境だっただろう。里浜がどういう人物で実は困っている、という話をその頃既に説明していたからだ。尊もこんな所でよりにもよって、と思う心の声が表情に出ていないかと心配した。

「こんにちは。こちらこそ芝元さんにはお世話になっています。しかし噂通りの奥様ですね。芝元さんが愛妻家だというのも頷けます」

 里浜の言葉に顔が引き吊る思いをしながら、愛想笑いをして話題を変えた。

「いえいえ、ところでそちらはお嬢さんですか」

 彼女の後ろで隠れるように立ち、にこりともしない相手について尋ねると彼女は頷いた。

「そうです。すみません。もう中学生になるというのに人見知りで。こら、挨拶しなさい。私がいつもお世話になっている、葉山損保の担当社員さんよ」

 母親に促され、ようやく彼女は頭を下げた。

「里浜愛花あいかです。母がお世話になっています」

 その後の言葉が続かなかった為、何か言わなければと考えた。だが余り長話はしたくない相手だ。よってどうすればいいか戸惑っていると、志穂がすかさず気まずい間を埋めた。

「お買い物ですか。この辺りにお住まいですか」

「はい。ここからちょっと歩いたところなので、買い物はいつもこの商店街でほぼ済ませています。お二人もこちらへは買い物ですか。よく来られるんですか」

「いえ、歩いて来たのは今回が初めてです。新しい雑貨店の開店チラシを見たので、少し散歩を兼ねて来ました」

「ああ、向こうのお店ですね。私も気になっていたんですが、まだ行っていないんですよ」

「そうですか。でもお近くにこんな商店街があると便利ですね」

「芝元さんは確かここから二駅先でしたよね。あちらだとどの辺りに行かれるんですか。そうだ。百貨店があるから、地下の食品売り場などでしょう。何せ高給取りですものね」

「百貨店でも時々買い物をしますが、車を出して普通のスーパーへだって行きますよ」

 女性というのは恐ろしいものだ。感情を押し殺しながらでも、こうして会話が出来るのだと尊は感心した。しかし娘は違ったようだ。

「お母さん、もう行こうよ」

 場の空気を察したのか自分が嫌だったのかは不明だが、愛花が里浜の袖を引っ張っていた。それを助け船と見て、尊が切り出した。

「すみません、買い物の途中でしたよね。それでは失礼します」

 頭を下げ、直ぐに背中を向け歩き出した。その後ろで志穂も挨拶をしついて来た。しばらくしてからこっそり後ろを振り向くと、里浜達の逆方向へ歩いて行く様子が見えた。

 そこでようやく一息つき、呟いた。

「ごめんな。嫌な思いをさせただろう」

「あの人が例の里浜さんね。でも娘さんに助けられたわ」

「そうそう。あれ以上長く捕まっていたら大変だよ」

「そうね。この辺りに住んでいるのなら、今後はなるべくこっちへ来ない方がいいかも」

「そうしよう。例の店を覗いたら、ちょっと遠回りになるけど商店街を外れて帰ろう。食事は他を探せばいい」

「うん。またバッタリ会ったら困るからね」 

 そうしてその後、雑貨店を含め二度とあの商店街へは足を向けなくなった。何故ならこの近辺に彼女が住んでいると知っただけでなく、尊達の住まいが二駅先にあると相手に知られていると分かり、恐ろしくなったからだ。

 社内の人間であれば最寄り駅はもちろん、どこに住んでいるか詳しい住所も調べようと思えばすぐ分かる。しかし尊は社外の人にそんな話をした覚えがなかったし、するはずがなかった。何らかのトラブルがあった場合等を考え、教えないことが保険会社内の暗黙のルールだからである。

 というのもかつて代理店が反社会勢力団体の人間と知らず保険契約を結んでしまい、その契約の取り消しなどを社員が間に入り行った例があった。もちろん相手は激しく抵抗し、はっきり口にしないが、脅しとも取れる発言をされたという。

 もちろん警察や弁護士に相談をし、会社内ではいつ乗り込まれても対応できるよう、万全を期したそうだ。保険会社を含め金融関係の会社にいると、そういった例は全国各地で時々起こる。

 よって社員の個人情報は決して外部に漏らさないよう注意を払っていた。万が一自宅が知られてしまえば、訪問されたり嫌がらせを受けたりする可能性があるからだ。

 志穂もそうした事情を理解している為、里浜の言葉に恐怖を覚えていた。一体どこで知ったのか。他の社員から上手く聞き出したのかもしれない。もしくは後をつけられたか、とまで考えたほどだ。

 尊は刺された相手が男か女か、どういう背格好だったかも分からない。はっきり見ておらず、気付いた時は腰に激痛が走り倒れて気を失っていた。その為刑事達から通り魔でなく怨恨の線が強いと聞かされた時、宇山の次に頭を過った一人が里浜だった。

 当然恨まれる程揉めた覚えはない。けれど少し感情的になりやすい彼女なら、逆恨みされたとしても不思議ではないと思ったからだ。

 しかし彼女でなければ一体誰なのか。和喜田や宇山、野城だとすれば、相当綿密に計画し足取りを消さない限り、犯行は難しいだろう。 彼らにそこまで憎まれていたのだろうか。そうだとすれば何が悪かったのだろう。

 尊は頭を抱えながら気付いた。犯人が誰かを知りたい。だがその前にこのまま死んでしまうのか。どうにか一命を取り留めてはいるようだが、魂は体から抜けてしまっている。これは尊が生と死の狭間にいることを意味するのだろうか。

 そう考えた時、急に恐ろしくなった。三十半ばで死ぬのは余りに早すぎる。仕事は大変で外勤という新しい分野に挑戦し悪戦苦闘しているけれど、ようやくやりがいも感じ始めたばかりだ。

 またそれなりの評価もされ順調に昇進を重ねており、まだまだこれから課支社長や部長の椅子が待っている。周囲からはいずれ役員を目指す人材だと言われ、尊自身もそうなりたいと考えていた。なのにこうした理不尽な死に方はしたくない。

 私生活も充実している。転勤族だから数年経てば、また新しい土地に住まなければならないとの不安は多少あった。それでも二人の間には子供がいない為、学校がどうだとか苛めに合わないかといった悩みを抱える必要はない。

 あるとすれば見知らぬ土地で、親しい友人達が周りにいない専業主婦である志穂がどう暮らすか、馴染めるかが問題だ。しかし今のところ、彼女からそうした不満や愚痴は聞かされずに済んでいる。時には喧嘩もするけれど、基本的には夫婦二人で仲睦まじくやってきた。

 これまで比較的大きな都市ばかりで、生活には不自由しない便利な場所だった点もあるかもしれない。けれど彼女は東京で生まれ育った尊と違って相当な田舎出身の為、葉山損保の支社がある土地なら、どこでも人が多く都会だと感じるようだ。

 またどちらかといえば一人だって平気な性格だけど社交的でもあるからか、寂しくなったり陰に籠ったりすることなく生活できるタイプといえる。高収入により生活費に苦労することも無い為、そう心配しなくていいと思っていた。

 しかしそれはあくまで尊がいるからであり、彼女一人だけになってしまえば心細くなるに違いない。結婚生活もまだ十年目に入ったところだ。その為給与も上がったことだし、日頃の感謝を込めて欲しがっていた高級ブランドのエルメスのバッグを、結婚十年記念にプレゼントすると約束をしていた。けれどこのままでは果たせなくなってしまう。

 彼女とは基本的に今後も二人きりで長く暮らすのだから、転勤族と高所得者のメリットを生かし、日本の全国各地を飛び回り楽しみたいと目論んでいた。もちろん長期休暇が取れる際は、海外に行くのもいいだろう。実際新婚旅行を含め、ヨーロッパの国々を何度か訪ねている。引き続きこうした人生を過ごすライフプランを立てて来た。

 しかしそれも死んでしまえば単なる夢で終わる。だから絶対死にたくなかった。いや例え一命を取り留め、意識を取り戻したとしても後遺症が残るかもしれない。その症状如何では仕事を続けられなくなる可能性だってあった。そうなれば収入が途絶えるだけでなく、これまでの計画も全て白紙だ。

 加入している生命保険や各種補償などで、ある程度は補えるだろう。けれど寝たきりなどになり介護が必要となってしまえば、志穂に苦労をかけてしまう。それは絶対に避けたかった。彼女を幸せにすると約束し結婚したのだから、男としてその役目は果たさねばならない。ならば必ず目を覚まし、元気になって会社へ戻り仕事を続ける必要があった。

 そうあれこれ考えると、こんな目に遭わせた奴が憎らしくなる。どこのどいつが余計な真似をしやがったのか。腹立たしい思いをすると同時に、自分はそれだけ人に恨まれていたのかと想像してしまい気が滅入った。

 堂々巡りで結論の出ない思考の迷路にどんどん嵌っていく。それではいけないと思い直した尊は、まず今の自らが置かれた状態を把握しようと視点を変え、改めて自分がどうなっているかを観察した。

 恐らく今は幽体離脱した状態で病室内を浮遊しているのだろう。意識や目ははっきりとしているし、耳も聞こえる。だが通常なら視線を下に向ければ胴体や手足が見えるはずだ。しかし不思議な事に透明人間になったかのようで、全く視界からは消えていた。

 また手足に関してもあるという感覚がない。天井を触ろうと意識はできるが、当然感触などないし、浮かんでいるからか足で歩いて移動するという概念すら良く分からなかった。病室のドアに向かって動け、と念じてみたがピクリともしない。

 このままの状態で意識が戻るのをずっと待ち続けなければならないのか。外に出られないのだろうか。どうすればいいのだろう。そう考えていた時、ベッドの脇にいた志穂がゆっくりと立ち上がった。

「じゃあ、また来るね」

 枕元に合った時計を見ると、もう夕方の五時を過ぎていたようだ。時間の感覚がなくお腹も空かない為、全く気付かなかった。だが彼女は普通に生きている。先程医師が二十四時間管理していると言っていたから、ずっとここで付いている必要もない。

 よって一旦家に帰り、食事をして夜になれば寝るのだろう。だったら尊はこのままここでベッドに横たわった自分の姿を見ているしかないのか。

 それはさすがに寂し過ぎはしないか。せめてもう少し近づきたい。そう思った途端、天井辺りにいたはずの尊がすっと下に降り始めた。

ーおお、こんなことが出来るのかー

と驚いたが、代わりに彼女が病室のドアへと向かい遠ざかっていく。

ー待ってくれよ。行かないでくれー

 追いかけようとそう意識した時、今度は彼女の体に引っ張られるかのような感覚に陥った。視点がベッドの傍から離れ、彼女の背中へと近づいていくではないか。

 このまま彼女について家まで帰ることが出来れば最高だ。もしかすると頭の中でそう描けば、背後霊のようにつき纏って移動できるのかもしれない。それが分かっただけで助かる。 こんな寂しく、自らが眠っている奇妙な部屋にできれば居続けたくなどなかった。

 この時はそんな単純な考えを持ったまま、彼女と共に病室を出たのだった。

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