第一章~④

 そう言われると、尊には心当たりがあり過ぎた。彼女も頭に浮かんだと思われる。そんな態度を察したのだろう。久慈川は別の話題をし始めた。

「ご主人が入社されたのは確か二〇〇八年、旧財閥系の大手二社が合併した後の葉山損保でしたね。その後、中小の損保をいくつか吸収合併して今に至る、と伺っています」

「それが何か」

「いえね。同じ社内でも、年次によって入社した会社が様々だというのはどういうものなのかと思いまして。私達で言えば愛知県警と三重県警と岐阜県警が一緒になり、東海本部が出来るようなものでしょうか。もし仮に今そういう職場になれば、さぞかし混乱するかもしれませんね。何故なら育った環境や事情が違いますから」

 やはり懸念していた方向に流れが向いている。彼女もどう答えればいいか困ったらしく沈黙していたが、彼は構わず質問を投げかけていた。

「ご主人が所属する部署では、和喜田支社長と宇山さんが吸収された新日しんにち損保のご出身で、芝元さんは大手である葉山損保のご出身。寺地さんと古瀬さんは合併後に入社されたので余り影響は受けていないようですが、出身によって軋轢は無かったのですか」

 これも既に聴取済みで把握しているのだろう。よって彼女は渋々ながら答えていた。

「学歴の話と同じで、それなりにはあったと尊さんから聞いています。ただ社員同士よりも、取引先の方が反応は顕著だったようです」

「どういう事でしょうか」

 損害保険会社では、商品である保険を直接社員が販売せずに代理店が扱ういわば間接営業が主で、そこが取引先だ。

 一口で代理店と言っても様々な形態があった。保険の販売だけで生活するプロ代理店もいれば、車の販売ディーラーなど主とする本業に付随した業務として保険を扱う代理店もある。後者を兼業代理店と呼ぶがその種類も様々だ。

 会社本体または関連会社内に代理店を持ち、社員や関連企業や取引先企業などに保険を販売する企業代理店、車の整備等を行いつつ保険販売する兼業代理店がそれにあたる。

 尊のような営業社員は、そうした代理店を五十以上担当していた。そこが成約した保険契約を集計したものは各担当者の数字となり、その合計が支社の成績となるのだ。

 営業社員は担当する代理店を時には指導や支援しながら、多くの保険契約を獲得できるよう促すのが仕事である。その成果が評価にも繋がる為、代理店と打ち合わせ等を行いつつ人間関係を作り、様々な手法を用いて保険の成約件数を増やさなければならない。

 しかしそこでいくつか問題が発生する。その一つは、多くの代理店が複数社の保険を扱っている点だ。つまり他社と契約を奪い合わなければならなかった。

 例えば顧客自身、葉山損保の契約が良いと指定すれば問題はない。しかしどこでも良いという客がいた場合、代理店がどこの会社の商品を推すかが重要となってくる。

 三十年近く前までは、どこの保険会社で加入しても保険料が変わらなかった。けれど今は自由化が進み、会社によって補償内容等も細分化され、差別化はかなり進んでいる。

 それでも保険種類によってはそう大した差がなく、または扱う代理店が勧めるのなら会社なんてどこでもいい、という顧客が一定の割合を占めていた。

 その為、弊社の商品を販売するよう代理店に依頼するのが、営業社員にとって大きな仕事となる。保険業法の縛りにより保険料を安く割り引いたり、商品をよりよく変えたりなど一社員にはできない。よって正攻法としては販売しやすいよう、企画を立て提案するのが主な手法だった。

 だが相手は人間だ。気に入らない担当社員をあてがう会社の保険は売りたくない。そう思うのが人情だろう。また任意保険とは異なり、自動車購入時に必ず付保される自賠責保険はどこで扱っても保険料や代理店が手にする手数料が同じだ。これも保険会社の営業成績となる。よって取り合いにならざるを得ない。

 よって頭を下げお願いしたり、何度も顔を突き合わせ人間関係の構築に勤しんだりするといった泥臭い仕事は、決して馬鹿に出来なかった。

 例に挙げればディーラーが土日に展示会を開く際、客の誘導を手伝うといった本業の人的支援等だ。そうして世話になったと恩を売れば、保険はその社員の会社の商品を優先に販売しようとしてくれる。それどころか手伝いに来ない会社の保険は売らない、という取引先もあった。つまり相手の機嫌を損ねてはならない。

 そこで弊害となる問題の一つが担当社員の出身だ。保険会社の合併は代理店にとっても、これまで扱っていた商品の販売元が変わることを意味する。また以前はライバルだった会社や代理店または顧客が、そうでなくなるのだ。

 例えば以前は損保業界で中堅だった新日の保険を専門またはメインで扱っていた代理店にとって、大手の葉山損保は競争相手だった。よってそちらと契約している顧客を奪い取ろう、または葉山の保険を販売する代理店に負けまい、と努力してきたに違いない。

 だが合併により新日として扱ってきた保険は自動的に葉山の保険となり、争ってきた葉山の代理店とも同じ仲間になるのだ。大手になったと喜ぶ代理店もいるが、そうでない人も当然いた。よって担当者も以前と同じ、元新日出身の社員が良いとの要望さえあった。

 けれど葉山出身の代理店から、中堅に過ぎない元新日社員など担当者にしないでくれ、という要望の方が圧倒的に多かった。大手損保と長い付き合いがある、との誇りを持っていたからだろう。

 新日損保自体、四葉と五山の大手同士が合併した二〇〇〇年に、新和しんわ火災と日栄にちえい火災という中堅同士が合併してできた会社だ。それでも大手の半分に満たない規模だった為、結局葉山損保に吸収されてしまった。

 それでも中堅にだってプライドがあり、大手に負けずここまで来たとの自負を持っている。だからこそ、担当社員が葉山出身だと聞いただけで露骨に嫌な顔をする者はいたのだ。

 合併直後は支社長に担当を変えろと迫り、もし拒否するなら別の大手損保と取引を開始するぞと脅す代理店まで現れたと聞く。

 幸い尊はその当時内勤だった為、実際そうしたトラブルに巻き込まれた経験はない。初めて現場に出た昨年で合併から十年が経っていたおかげか、今は落ち着いたと思われる。

 それでも着任して最初の挨拶周りの際、必ずと言っていい程出身はどっちだと質問された。その時先方がどんな顔をしていたかは、決して忘れられない。特に拒否反応を示した相手は、その後も要注意の代理店として慎重に接してきたつもりだ。

 彼女がその辺りの事情を知っている範囲で説明すると、刑事達は先程と同じく頷いていた。その為彼女は再び言い添えた。

「だからといって、それだけで人を刺そうなんて思わないでしょう。この一年でも彼が揉めた代理店さんはそんなにいなかったはずです。もしそこまで拗らせていたら、担当替えされていたでしょう」

 しかし久慈川はさらに踏み込んできた。

「そんなに、ということは、多少揉めたことがある。そう聞いてはいませんか」

「そ、それはありますよ。だけど大した話ではありません」

「それでも教えて頂けますか」

 しつこく食い下がっていたが、尊本人でさえ殺されかける程のトラブルは本当に思い当たらなかった為、彼女も激しく首を振った。

「誤解を招きかねませんので、控えさせて頂きます。本当に些細な話しか聞いていません。営業社員なら皆経験しているような話ばかりでしょう。それでいちいち刺されていたら、営業社員の多くは死にかけた経験があるはずです」

 これ以上は無理だと思ったのだろう。だがそれで許してくれるはずがない。久慈川は別の角度から責め始めた。

「そうですか。ちなみに先程おっしゃられた、担当替えというのは良くあるのですか」

 意図に気付いたのか、彼女は返答に困っていた。それでも話さない訳にもいかないと思ったのか、言葉を選びながら注意深く告げた。

「彼は営業経験がまだ一年余りだったので、それ程私もよく知りません。ただ社員の異動などで担当を引き継ぐ際、後任の年次や経験年数を含め課支社内のバランスなどを見て、多少は動かす場合があると聞いています。特に昨年は営業経験の豊富な次席の転勤が決まり、現場経験のない彼が着任した為にかなり入れ替えをしたようです」

「しかしその後も担当替えがされていますよね」

「はい。支社長代理なのに営業が初めてだからと、難易度が高く大きな数字を持つ代理店を当初は外したせいだと聞きました。バランスが崩れていたらしく、彼が思ったより何とか通用すると思って頂いたからか、昨年度の途中で少し彼の担当が増えたようです」

「それはバランスだけの問題だったのでしょうか」

「すみません。その辺りは支社長に聞いていただけますか」

「もちろん伺いました。どうやら宇山さんと揉めた大型代理店が、ご主人の担当になったとか。その影響もあり次席が変わったようですね。そんな話は伺っていませんか」

 やはりそう来たか。予想していたものの、尊は思わず天ならず、天井を見上げた。これまで何度も浮遊しながら彼女の代わりに答えたいと思ったが、それが叶わない自分の境遇に苛立つ。一体いつまでこんな状況のままなのか。

 尊がそんな忸怩たる思いをしている内に、彼女は答えていた。

「同僚の人が、担当していた代理店の社長と揉めた話は聞いています。でもそれで彼が次席になったかどうかは知りません。それこそ支社長に聞いて下さい」

「伺いました。支店長席の江口課長にも、です。もちろんそれだけではなかったようですが、ご主人にも説明されたそうですよ。奥様はご存じなかったのですか」

 無意識に舌打ちをしたが、当然誰にも聞こえていなかった。この刑事は曲者だ。どうしても宇山の名を引き出したいのだろう。彼女もそれを理解し、開き直ったように告げた。

「次席になるよう指名され、その際にいくつか理由の説明はされたようです。次席だった宇山さんが野城のしろという社長を怒らせ、一昨年度の数字が昨年にずれた。支店長や江口課長がその問題を良しとせず、状況を見て彼に担当を変えた。そう聞いています。また今年度から次席を変更するのも、その件が一因になっているとおっしゃったようです。しかしそれが建前で表向きの理由なのかは、彼も私も判断できていません。書面で渡された訳でなく、口頭で述べられただけですからね。刑事さんはその件があったから、恨まれた彼が宇山さんに刺されたと疑っているのですか。別に誰かを庇うつもりはありません。ただ確かな証拠があるのなら別ですけど、憶測にしては飛躍しすぎではないですか」

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