第一章~③
「それは暗に会社関係の人間が犯人だとおっしゃっているのですか」
「そうは言っていません。ただ明白なアリバイがある方以外は、どうしても疑わざるを得ないでしょうね」
彼は全く気圧されることなく淡々と告げた。その為か、彼女は腹を括ったように尋ねた。
「アリバイが無いのは具体的にどなたですか」
尊も内心ではドキドキしつつ彼の言葉を待ったが、その答えに肩透かしを食らった。
「犯行時刻が夜の十時半頃ですからね。多くの人は自宅等に身内といるなど、明白なアリバイを証明できる方は圧倒的に少なかった。つまり無い人が多すぎて特定は難しいというのが正直なところです。ただ、同僚の寺地さんと古瀬さんはありましたね。別々ですが、彼らはそれぞれ友人とお店で飲み会をしていました。従業員やその他からの証言も得られましたので間違いありません。あと支店長席の江口課長は丁度会社を出られ、社員証による退社時刻のデータや警備員の証言もあり、犯行は不可能だと分かっています」
あの日遅くまで残っており、資格勉強もあると言っていた古瀬が飲んでいたと知ってやや驚く。ただ挙げられた三人は、尊に恨みを抱く可能性が極端に低いメンバーの為、何の参考にもならない。もし彼らのような人物が犯人だとしたら、動機など全く見当もつかない。完全にお手上げだ。
といって恨みを買っていると推測できる人物の名を、彼女も口にし難かったのだろう。それを理解しているのか、久慈川が少し話題を戻して続けた。
「保険会社の社員さんは専門的知識が必要なだけでなく、色々な資格を取らなければならないからか、高学歴の人が多いそうですね。先程名前が出た寺地さんは早稲田で古瀬さんが慶応卒、江口課長など一橋大だというじゃないですか。支店長の甲島さんも早稲田と伺いましたが、とはいえ東大卒となればかなり珍しいようですね」
「そうかもしれません。同期入社は二百数十名の内、三人だったと聞いています」
旧財閥系の銀行等だと二、三十人はいるので、かなり少ない部類に入るだろう。
「早慶出身者は多いようですね。合併前は半数近くがそうだったと伺っています」
「何をおっしゃりたいのですか」
「東大卒のご主人自身には理解し辛いでしょうが、そうでない私達からすればすごいと思うだけでなく、ある意味コンプレックスを抱いてしまいます。奥様はそう感じた経験はありませんか」
「無いと言ったら嘘になります。それに彼から聞いた話ですが、入社してすぐの新人総合職はいくつかの班に分かれ、三カ月間研修所に泊まり込みをします。そこで基本的な保険、金融知識を学びながら、必要とされる最低限の資格試験を受けるそうです。そうした講習等が終わった後、就寝までの僅かな時間を使って飲み会を開くことがあったらしく、そんな時に出身大学はどこかといった話題が挙がり、絡まれた経験はあったと聞きました。在学中もあったようですね」
「ほう。絡まれるというのはどういう風にでしょうか」
尊の脳裏に苦い記憶が蘇る。だが警察なら下手に隠しても全国に散った同期達にまで話を聞き出しかねない。それなら正直に告げた方が良いと彼女も思ったらしく説明し始めた。
「まず、東大の法学部を出ているのに民間の、しかも損害保険会社に何故入ったのかとしつこく聞かれたそうです」
他大学の学生は、東大法学部生の多くが国家公務員試験に挑戦し官公庁に入るか司法試験を受け裁判官や検察や弁護士になる、または大学院へ進んで研究をするというイメージを持っていたのだろう。
また民間の会社でも銀行や外資系のコンサルティング会社か商社が人気で、損害保険会社に入社する人は極めて少ないとの認識があったからに違いない。
大まかには間違っていないけれど、尊が就職活動していた二〇〇七年頃はバブルが崩壊した後の、第二期就職氷河期と言われた時代だ。その影響もあり、世間では公務員志向が高まっていたのは確かである。
けれど東大内では違う。実際二〇〇八年度の官公庁への就職は、過去五年間で最低を記録していた。一方、外資系など実力主義で給与水準の高い企業が人気だった。
こう言っては何だが、周囲は就職氷河期と騒いでいたけれど、東大生にとって全く関係なかった。国家試験を受けなければならない官公庁や、採用人数が極端に少ない企業を除けば、引く手数多だったからだ。これは京大や一橋大も同様だったらしい。また早慶でも学部や大学での成績優秀者は、就職難など縁が無かったと聞く。
当初から官公庁への就職や法曹界や大学院に興味を持てなかった尊は、早くから民間企業に入社しようと決めていた。そこで就職活動を始め各社を回る内、それまで人気が高かった銀行や証券会社は危ういと感じたのである。その予測は間違っていなかった。
現に入社した年の九月にリーマンショックが起き、外資系を含めた金融関係は軒並み業績不振に落ち込んだ。よってその後、企業における新卒の採用は相当厳しくなっていた。
損保業界も例外で無かったものの、他企業に比べれば影響は少なかったといえるだろう。しかし一九九六年の保険業法の改正により、それまでの「護送船団方式」から自由化へと大きく舵が切られた結果、銀行と同じく合併や統合が推し進められていた。
それでも大手なら資産運用の幅が大きい生命保険会社に比べ、制限される損保会社の方が市場の変動に左右され難く、安定しているだろうと考え入社を決めたのだ。
他にも理由はあったけれど、そうした説明をいくらしたって他の同期達は満足しない。次に始まるのが東大生の粗探しだからだ。
「俺の知っている東大の奴は、」
と奇妙なエピソードを引き合いに出し、意味不明のマウントを取り始める。
けれど尊自身の話では無い為、ただそうなんだと素直に聞くしかない。もちろん変わった人物など他大学を含めどこにでもいる。よって否定や擁護は一切しなかった。
だからいくら彼らが何を言っても優位にはならない。そうなると次に始まるのは
「俺も東大は受けたんだよね」
または
「狙っていたんだよな」
という奴だ。半数が早慶出身者であり、高学歴の学生が元々多く入社しているからだろう。そうした輩が一定数いるのだ。
中には純粋に東大なんて凄い、と評価してくれる同期もいた。しかし厄介なのは認めたがらない奴だ。恐らく不合格だった自分を否定する、または卑下に繋がってしまうと思い込んでいたからかもしれない。
そんな裏話を彼女には聞かせた覚えがあり、刑事達にもそう告げていた。彼らは頷きながら黙って聞いていた。驚きもせずさもありなんという態度から察するに、これまでの聞き込みで確認済みだったのだろう。
そんな態度に耐え切れなかったのか、一通り話終えてから彼女が質問した。
「そういう学歴コンプレックスを持った誰かに恨まれ、彼は刺されたとお考えですか。さすがにそれはないでしょう」
「どうしてそう思われますか」
質問で返され戸惑っていたが、なんとか反論していた。
「だってそうでしょう。たったそれだけで人を殺そうなんて、普通は思いませんよ。割に合いません。彼らだって世間から見れば高学歴者で、しかも高所得者じゃないですか」
「確かに動機がそれだけでは弱いかもしれません。しかし人の感情というのは複雑です。他の要素も絡んでいる可能性はあるでしょう。嫉妬や恨みはどこで買っているか分かりませんからね」
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