第一章~②

 やはり恨まれる事情があるはずとの前提で話が進んでいた。それでも尊は息を呑んだ。いくつか思い当たる節がある。恐らく彼らはそれを言わせようとしているのだと分かった。けれど具体的な事例について、彼女からはなかなか口にしなかった。

 これはれっきとした殺人未遂事件だ。下手な話を口にすれば警察は関連する人達の元を訪ね、厳しく追及を始めるに違いない。よって確証がない限り、言葉にするのは躊躇われるからだろう。

「そう言われても。例えばなんでしょうか」

 ようやく彼女はそう口を開いた。思い切って彼らにボールを投げ返したようだ。すると久慈川は確認とばかりに話し始めた。

「ご主人は葉山損害保険に入社されて十四年目ですよね。昨年の四月にこの名古屋に来られた。その前は京都にいらっしゃったと伺っています。その時の役職はなんでしたか」

 何を言わせようとしているのか尊は直ぐに理解できた。だが彼女も事実を言うしかない。

「主任です。名古屋への異動と同時に支社長代理へ昇進しました」

「つまり入社十三年目で支社長代理になられた。京都を含めこれまでどこの、どういった部署を経験されたのでしょう」

「入社してすぐは東京本社内にある、業務部という内勤でした。そこで四年勤めその後大阪の営業企画部、次に京都の本部営業企画部で同じく四年ずつ勤めました」

「大阪に配属された際、平社員から主任に昇格されたそうですね。また十二年間ずっと、先程言われた内勤だった。内勤というのは、今いらっしゃる部署と違うのですか。奥様も同じ会社に勤務していたと伺っています。ご存じであれば教えて頂けますか」

 既に調べて理解しているのだろう。それでも敢えて説明させたいらしい。よって彼女は渋々ながら答えていた。

「あの会社の内勤は、基本的に社外の顧客や取引先と接するケースがまずない部署を指します。今の部署は保険商品を販売している代理店と接し、顧客である法人や個人と直接お話しする機会が多く、ほぼ毎日外出するので外勤と呼ばれています」

「つまりご主人はこの名古屋に来られ、初めて外勤と呼ばれる部署を経験されたのですね」

「はい。まだ二年目なので、慣れないことは沢山あったと思います」

「ところで支社長代理という役職は、中間管理職に該当すると伺いました。課長や支社長以上と同じく、給与体系も主任までとは異なるようですね。すみません。私達のような公務員には良く分からないので、違いを教えて頂けますか」

 わざとらしいと彼女も心の中で思ったはずだ。けれど拒否する理由が無い為か説明していた。

「支社長代理以上は年俸制です。主任までの給与体系は、あなた達と同様の月給制で毎月基本給が支払われ、そこに一定の手当が付きます。基本給の金額に影響するのは、各社員の年齢や勤続年数に加え会社の業績や本人の成績です。その額に応じて夏と冬のボーナスが発生し、最終的な年収が決まります。対して葉山損保での年俸制は完全な成果主義ではなく、六割が月給制に基づいて四割が評価や目標達成率に応じ算出されると聞いています」

「なるほど。同じ支社長代理でも、それなりに差は生じる訳ですね」

「それは支社長や主任でも同じです。年次や毎年の評価の積み重ねで、ある程度の差は発生します。ただ主任までより、年俸制になってから生じる差の幅は大きいと思います」

「そういえば同じ中央支社に所属する、同僚の宇山さんも支社長代理ですよね。四十二歳でご主人より六歳も年上なのに、同じく昨年昇進されたばかりと伺いました」

 いよいよ具体名を挙げてきた。さらりと口にした彼だが、少しずつ核心に迫ろうという意図が見え見えだ。それでも事実の為、彼女も頷かざるをえなかったのだろう。皮肉を交え答えていた。

「直属の課支社長が年下という場合もありますし、今の時代だとそう珍しくはありません。刑事さん達だってそうでしょう。確か警部補以上は試験に合格した上で、上司等の推薦がなければいけないと小説などで読んだ覚えがあります。それにキャリアとノンキャリアでも差が付くそうですね。例えば署長はキャリアが多く若い人でもなれるそうですが、もしかしてあなた達より年が下の人だっていたんじゃないですか」

 だが彼は怯まなかった。

「よくご存知ですね。その通りです。おっしゃる通り、上司が年上なんてことは私達の職場でもよくあります。けれど年上で同じ時期の昇進にも関わらず、現在は宇山さんよりご主人が社内での順番は上だそうですね。しかも去年の四月の時点だと席次は宇山さんが上だった。さらに彼は入社して二十年間ずっと外勤の営業で、中央支社の在席も五年目とご主人より断然現場経験が豊富なのに。そういったケースは余り無いと思いますが」

 予想した流れだった為、尊は思わずため息をついた。病室という陰湿で独特な空気がさらに重くなった気がする。しかし彼女は負けずにさらりと応じた。

「そのようですね。ですから彼も次席になるよう言われた時、困惑したようです。しかし上からの指示なら、会社員はやれと言われれば従わざるを得ないでしょう」

「昨年までご主人は三席だった。すみません。次席との違いは何か教えて頂けますか。それと次席になった経緯等もご存じであればお話し頂けますか」

「役割の違いだけで、給与が変わる訳ではないと聞いています。ただ責任が重くなる分、評価にはいくらか影響するでしょうけど。もちろん良ければいいですが、悪いと下がるというリスクも負いますから、どちらがいいとは一概に言えないと思います」

 三席以下は年次と役職に応じた順番に過ぎない。ただ次席は課支社長を補佐する役目として、業務責任者が押す印、略して業責印ぎょうせきいんを持たされる。課支社長がいない時、または代わりに押すことができて様々な承認を下せるのだ。

 しかし尊はまだ次席になって一カ月余りだが、営業に関していえばそれより重要視される大きい仕事は、数字の取りまとめや報告だと理解していた。各担当者が持つ成績数字を中央支社として集計し、管轄する名古屋支店長が所属する部署、いわゆる支店長席に伝える役目だ。

 もちろんそれだけではない。毎月及び四半期毎の目標数字が達成しているか、達成出来るかの進捗を確認し、足りなければ何らかの新たな方策を打ち出し軌道修正する必要に迫られる。その上で課支社長と相談しながら、各担当者に伝達し挽回するよう徹底させなければならなかった。

 成績がいい時はそれ程問題にならないけれど、悪い時は大変だ。営業というだけあって、やはりそれぞれの担当にも昔はノルマと言われた目標数字がある。それが未達なら叱責を受け、何故なのか要因を把握して達成する為に課支社長とどう対処するか、的確な答えを出さなければならない。

 要するに、昨年前任者が異動し支社長代理に昇進し三席から次席となった宇山は、こうした支店長席とのやり取りを失敗したのだ。その為甲島こうじま名古屋支店長の意向で、支店長席の江口えぐち課長から本年度は尊が次席業務をするよう、和喜田支社長に申し渡したと聞いている。

 といっても昨年度における中央支社としての数字全体は悪くなかった。それどころか名古屋支店の管轄である他の東、西、南、北支社の五支社中、二番目の数字で予算達成率も一〇三%を超えていた。四番目で予達率九十九%だった一昨年より改善していたのである。

 にも関わらず次席を交代したのは他にも色々な理由があった。恐らく刑事達はそうした内情も既に把握していると思ったのだろう。彼女は尊が伝えていた範囲で包み隠さず説明したところ、予想通り彼は頷きながら言った。

「つまり宇山さん自身の失策で次席が変わったと。ただ初めての営業だというのに、昨年ご主人の担当した数字が良かった点も評価されたと伺っています。しかも東大を出ていらっしゃる。相当優秀な社員だったようですね。だけど、と言っては語弊がありますが人当たりも良く、言い意味で東大卒には見えないともっぱらの評判でした。特に事務の女性職員達からは人気があるようですね」

「それは良く知りません。ただ私も在籍していたから分かりますけど、あの会社では社員の半数を占める事務職の働きがあってこそ、という特徴は外勤、内勤に関わりなく同じだと思っています。だからそうした人の助けを得る為、気を遣うよう彼が心掛けていたのは確かでしょう」

「そのようですね。年上の奥様とは社内で知り合われたと伺いました。愛妻家だと耳にしましたが、そうした点も影響していたのでしょうか」

 人の口に戸は立てられないというけれど、殺されかけたというのに余計な話を喋る人がいるものだと呆れた。しかし間違ってはいないと思ったのだろう。彼女は頷いた。

「私は彼が最初に配属された部署で事務職をしていました。七つ上の為に当然先輩で、彼に色々教えていました。親しくなり付き合い始め、彼に大阪への異動が出たのを機に結婚を申し込まれたのです。愛妻家というよりは恐妻家、頭の上がらない先輩という関係が続いているのではないでしょうか。しかし私は常に彼を立てるよう心掛けていますけれど」

 実際そうだ。結婚してから、先輩だった彼女に対し尊は志穂と下の名前を呼び捨てするようになった。けれど彼女は呼び方を芝元さんから尊さんと下の名に変えたが、さん付けのままだったのはそういう気持ちの表れだと言っていた。

 他人行儀だからと抵抗したが、彼女は頑として変えなかった。年上で先輩だったからこそ、彼女なりのけじめだったと思われる。家でも外でも、尊が大黒柱なのだからと尊重してくれたのだ。そういう彼女に尊はずっと尊敬の念を持ち続けていた。

「恐妻家という言葉は出ませんでしたが、多くの方から同様の話を伺っています。お二人は大変仲が良かったそうですね。ですから私達もご主人の意識が戻ることを願っておりますし、犯人は必ず捕まえたい。そうでなければ奥様も気が気でないでしょう」

 久慈川のご機嫌取りと分かるわざとらしい言い回しに、彼女は引っ掛からず声が尖った。

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