第一章~①

「尊さん、尊さん」

 妻の志穂しほが呼ぶ声に気付き、目を覚ました尊のいた場所は病院のベッドだった。いや正しく言えば、ベッドに眠る自身の姿とその横で縋り付きながら泣いている妻を、俯瞰して見える天井辺りだった。

 まだ意識が朦朧とする中、周囲がドタバタと騒ぎ出していた。それが二日間眠り続け、心拍数等がどうにか安定し、一命を取り留めたと言える状況に至った為、医師や看護師達が走り回っている足音だと知ったのは、もう少し後になってからである。

 尊の発した奇妙な叫び声を聞いた近所の人が外を覗き、倒れている所を発見し驚いて道に出たらしい。そこで腰に近い背中にナイフを突き刺されたまま血を流していると気付き、慌てて救急車を呼んだという。

 発見が早く、また犯人はナイフを抜かなかったおかげで出血を抑えられた点が幸いしたようだ。それでも出血量は多く、損傷した個所を十数時間かけて手術を行ったと聞いた。

 しかも脊髄神経の近くだった為、当初意識を取り戻す確率は五十パーセントで、命を取り留めたとしても後遺症が残るかもしれない。連絡を受け駆け付けた志穂は、そう説明を受けていたという。

 そんな状況を尊は長い間呆然と眺めていた。今は何とか安定しているが、まだ意識は戻っていない。このままの状況が続くようならば、酸素吸入や点滴による栄養補給がなければ生存できない、いわば植物人間状態となる恐れがあるそうだ。また最悪の場合は容態が急変し、命を落とす可能性もまだ消えていないと耳にした。

 尊はショックを受けながらも、自らは意識だけが体から離れるという幽体離脱状態だと分かり混乱していた。手足や体など見えない視点は、まるでドローンから撮影した映像を見ているようだった。違うのは周囲の音まで聞こえる点だろう。

 どうしてこんな状況になっているのか。こんなことがあり得るのか。しかも俺は何者かに刺され、死にかけているらしい。一体誰が、どうしてそんな真似をしたのか。

 様々な疑問が頭に浮かび戸惑う時間が続いたある時、病室の扉を叩く音が聞こえた。

「どうぞ」

 付き添っていた担当の男性医師が答え、志穂に小声で何か呟いた。彼女はそれを理解したらしく頷いた。

「失礼します」

 入って来たのは背広を着た二人の男だ。三十代前半と四十代半ば辺りに見える。医師の背後にいた看護師が動き、余っていたパイプ椅子を入口に近い側へ一つ置いた。ベッドを挟んで部屋の奥に医師と志穂が座り、彼らは反対側に立っていた。

「こんな時に申し訳ありません。意識は戻られていないようですが、容態が安定したと伺ったのでお邪魔しました。少し宜しいですか」

 どうやら相手は愛知県警の刑事達らしい。尊が意識を失っている間、何度も病室を訪ねていたようだ。

「構いませんけど、こちらからお話しできることはもう何度もしましたからありませんよ」

 志穂の突き放すような言葉にも屈せず、先輩と思われる刑事が頭を下げながら椅子に腰かけ、話を続けた。

「申し訳ございません。それでも繰り返しお伺いするのが私達の仕事でして。そうしている間に、何か言い忘れたことをふと思い出す場合がたまにあるものですから」

 そう言い訳しながら、これまでも繰り返してきたのだろう質問を投げかけていた。しかし当然ながら、尊は初めて聞く内容ばかりだ。ベッドに横たわり目を開けない自分の姿を上から眺めつつ、警察による事情聴取を聞いていた。

 今は事件発生時から四日経った火曜日の午後らしい。容疑は現段階だと殺人未遂で、財布などの所持品に全く手が付けられていなかった為、通り魔かあるいは怨恨の線が強いと聞かされ尊は驚いた。

 確かに財布の中身は十万円ほど入っていた。今時は全てスマホやカードでのキャッシュレス決済がほとんどの為、現金を使うケースは少ない。それでも用意していたのは、名古屋のランチタイムだと現金しか扱わない店が結構あったからだ。

 また万が一システムトラブル等で使えない場合を想定し、ある程度の額はいつも準備をしていた。保険会社の社員だからとリスクに備える癖がついていたからでもある。

 けれど財布は上着の胸元でなくお尻のポケットに入れていた。金目当ての強盗なら、前のめりに倒れた尊から容易に財布を抜き取れただろう。それでも盗まれていなかった為、警察は怨恨の線が強いと判断したらしい。

 通り魔だとすれば、通常似たような事件が近隣で起こるという。しかし尊が刺される前も後も、名古屋市内はもちろん隣接した市町村でさえそういった事例は全く発生していなかったようだ。よってどちらかといえば怨恨の線を中心に捜査は進んでいる、と説明されていた。

 ちなみに残された凶器に指紋は残っておらず、量産されている果物ナイフだったことから、犯人の特定が困難だと言っていた。だからなのか刑事はこう切り出したのだ。

「芝元さんご夫妻は、昨年の四月に京都から名古屋に引っ越してこられましたよね。こちらに来てから誰かに恨みを買った、またはトラブルに巻き込まれた覚えはありますか」

「そんな話、彼から聞いたことはありません」

 そう答える志穂の顔は引き攣っていた。その気持ちは尊にも理解できたけれど、刑事はそれなりの事情を把握しているらしいと次の言葉で分かった。

「先日もそう伺いましたが、事件の起こった日は金曜の夜で土日を挟んでいた為、私達が会社関係の方から話を聞けたのは、昨日と今日になりました。そこで耳にしたのですが、決して恨みを買う覚えがない人ではなかったようですよ。もちろんご主人が悪い訳ではありません。会社での人柄に関する評価を聞く限り、とても人当たりが良く優しい方だったそうですね。しかも大変優秀だった。けれどそこが問題だったと思われます」

 刑事達は尊が所属する中央支社の同僚達だけでなく、同じフロアの社員や取引先にまで聞き込みの範囲を広げていたらしい。

「そ、そんな事を言われても、殺されかける程恨まれるような人ではありません」

「普通はそうでしょう。私達もそこまで強い動機を持つと疑われる人物はまだ見つけられていません。しかし人の心は複雑です。通常他人が聞けばほんの些細なことと思われる事情でも、本人にとってはとてつもない憎悪の対象となる場合があります。人知らぬ恨み、とでも言いましょうか」

 森鴎外もりおうがい舞姫まいひめの一文を引き出され戸惑う。

 小説では誰にも知られず自分の心の奥底に潜ませている恨みを表し、それにより苦しめられるという意味合いで使われていたはずだ。今回の事件でそんな想いを抱いたのは犯行に及んだ人物だろうから、適切な言い回しでない。さらに恨みの根源がまるで尊にあるかのようなニュアンスを感じ、余計不快に思えた。

 そこで尊は、愛知県警刑事部捜査第一課の警部補だと名乗った久慈くじがわの顔を凝視する。警察関係者に知人はいないけれど、鋭い目つきや威圧感から叩き上げの刑事らしい独特の空気を纏っている印象を抱く。文学的な言葉を引用する理知的なタイプとは真逆に思えた為、そのギャップに改めて違和感を持った。

 後ろに立って控え、ほとんど口を利かない若い方の刑事は対照的に穏やかな目をしている。確か悠木ゆうきと呼ばれていたはずだ。以前二人から渡されたらしいベッド横の棚の上に置かれた名刺の一つには、千種警察署刑事課巡査部長と書かれている。つまり尊が住む地区の所轄刑事なのだろう。

「人知らぬ恨みというのなら、第三者の私に尋ねられても分かるはずがありません」

「言われてみれば、何となくご主人から聞いた覚えがあるなんてことはありませんか」

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