ボカーソウルの苦悩
しまおか
プロローグ
走り梅雨のような空模様が長引き、じめじめした空気が纏わりつくすっきりしない日が続いている。ゴールデンウィークが明けた最初の週の為、まだ頭や体が仕事モードに対応しきれていない。だから余計にそう感じるのだろう。
しかし根底の要因が別にあるとは分かっていた。思わず深いため息をつく。既に時計は夜の九時を回っている。しかしまだやるべき作業が残っているのでまだ帰れない。
そんな
「し、
唯一残っていた
「お疲れ。気付かなくて悪かったな。俺のことは気にしないで、早く帰っていいんだぞ」
「いえ、今月は営業日数が少ないですし、やることはいくらでもありますから」
彼は一番年下の末席だが、
まだここに来て一年余りしか経っておらず、しかも四月から新たに次席の仕事を任されたばかりの尊とは違う。それに残業が必要な急ぎの案件を抱えているとも聞いていない。
「無理しなくていいぞ。支社長や宇山さん達だってよく言っているだろう。上が残業しているからといっても、自分の仕事を片付けられれば早く帰るように、とな」
尊や彼を含め、中央支社は全国各地への転居を伴う転勤が求められる総合職が男性ばかりで五人いる。既に支社長の
同じフロアの法人営業課やその向こうの東支社と南支社にも人はおらず、電気が消され暗くなっていた。長期連休明けの週末だからか、いつもより皆帰宅が早い。その上九時には退社するよう、日頃から厳しく言われている。
それでも尊は仕事が片付かないので、やむを得ず残業していた。しかし集中していたせいで彼に余計な気遣いをさせたようだ。
彼が何か言い返す前にもう一度告げた。
「悪かったな。お疲れ様。土日はゆっくりしてくれ」
尊達の勤める葉山損保は土日祝日が休みだ。けれど彼は苦笑いして言った。
「先週、休み過ぎというほどだらだらしていましたから、この土日で少し建て直したいと思います。資格の勉強もありますし」
「資格ってCFPか」
「はい。芝元さんは六課目全て取得されていますよね。しかも入社三年目でと伺いました。私なんかまだ一課目しか取れていません」
「いやいや。俺の場合はこれまで比較的勉強時間が取れる部署にいたおかげだ。古瀬のように現場で営業しながらだったら、そんなに早くはとても無理だったと思う」
保険会社の社員は入社後に取るべき資格が多い。まずは損害保険商品を扱う者として必須である、損保一般試験に合格しなければならない。資格が無ければ商品を販売できない為、営業社員にとって不可欠だからだ。
もちろん直接保険販売に携わらない内勤であっても、社員である限り取得しなければならない為、入社後は全員受験を強いられる。しかも総合職なら、さらにその上の損保大学課程も取得しなければならなかった。
加えて生保の販売資格も必要だ。基礎の一般課程試験から、専門、変額保険、応用、大学、外貨建て保険販売資格まである。これら全て入社一年以内の取得を義務付けられていた。
その次に難易度が高い資格が、FPと呼ばれるファイナンシャルプランナーだ。まずAFPを受験して合格しなければならない。これは何年以内との期限は設けられていなかったが、出来るだけ早くの取得を促されていた。
他にも証券外務員、銀行業務検定などの資格もある。ここまでは現場の全社員が、取得をほぼ義務付けられていた。よって当然受講費用やテキスト代は会社から援助が出る為、経済的負担は比較的小さい。
しかしAFP資格者が受験資格を持つその上のCFPは、相当難易度が高い為に必須でない。よって一部援助はあるものの、自己負担部分が発生する。
ただ近年は取引先である保険販売代理店の社員でも、CFP取得者が増えていた。高校の授業で金融知識等を勉強するといったパーソナル・ファイナンスが広まっている事情もあり、保険販売のプロとしてはより高度な専門知識が求められていたからだろう。
よって実質は担当社員としても、同程度以上の資格と知識を持つ必要に迫られていた。他にも年次を重ねる度に必要となる試験はいくつもある。しかし就業時間中に勉強ができる環境ではない。だから彼も休みの日や帰宅した後などの時間を使うしかないのだ。
けれど現場の営業は取引先という相手がいることもあり、なかなか自由な時間を作るのは難しい。昨年この中央支社に配属されるまでの十二年間、ずっと内勤だった尊はそうした環境の違いを痛感していた。
というのも損保資格等は五年ごとに更新をしなければならない。AFPやCFPに至っては、定められた継続教育期間内に所定の単位を取得できなければ更新できないのだ。よって合格すれば終わり、とはならないので勉強を続ける必要があった。
保険会社の両輪は、保険収入を得る営業と支払い業務を行う事故損害調査と言われている。どちらも顧客に近い為、様々なトラブルに直面する機会が多いからだろう。サービス残業など当たり前のようにあった。
よって内勤では主となる社内での人間関係以上のストレスを抱えるだけでなく、仕事量も相当の負荷が掛かっていた。内勤にはない外勤手当が一日千円付くのも頷ける。いや、こんなものでは安すぎるだろうと思うほどだった。
といって保険会社の給与は世間でいえば相当高い。異動と同じタイミングで支社長代理に昇進した為、尊の年収は約一千二百万円に上がった。これは国民所得の平均を大きく上回るだけでなく、上位七~八パーセントに入る。よって贅沢など言える立場でないと重々承知はしていた。
担当する代理店の重要顧客の中には法人契約があり、時々そういう会社に訪問して総務課長や担当役員と接する機会もある。けれど給与の話題はタブーとされていた。何故なら彼らの所得はほぼ間違いなく尊より下回るからだ。
中小企業であれば社長クラスでようやく上回るかどうかだろう。こちらは頭を下げて契約をお願いする立場の為、下手にプライドを傷つけてはいけないのだ。
「何を言っているんですか。芝元さんの頭なら、CFPの試験勉強なんてそれほど時間をかけずに済んだでしょう。私みたいなレベルだと、仕事をしながらではさすがに辛いです。大学受験の時以上に勉強しているかもしれません。ではお先に失礼します」
古瀬はそう自虐的に笑い、フロアを出て行った。
「お疲れ」
背中を見送りながらそう投げかけた所で、彼は確か慶応出身だったと思い出す。地頭は良いはずだ。それでもあのような言い方をするのは、尊が東大出身だからだろう。
顧客相手に注意しなければならないのはこの学歴もそうだ。二〇〇〇年に大手で旧財閥系の
その後の二〇〇八年に尊が入社。二〇一一年に中小損保を吸収合併してから若干比率は下がったらしいが、それでも高学歴の社員はかなり多い。現にこの中央支社でも五人の内二人が早慶出身だ。
同じ出身大学というだけで親近感を持ち、商談がスムーズに進む場合もある。よってこの辺りの話題は事前のリサーチが必要とされた。先方の学歴が上回る場合、優越感を持たせられる人もいれば、馬鹿にされるケースもある。
その点早慶辺りだと卒業生も多い為、無難と言えるだろう。しかし東大ではそう簡単にいかない。中には異常と思えるほど嫌悪感を見せる人がいるからだ。早慶出身者の中でたまにいる、かつて東大を目指していたけれど挫折した経験を持つ人達らしい。
そこで思い当たる人物達の顔が頭に浮かび、負の感情が湧きだす。こうなると集中できない。その為尊は頭を振って目の前のパソコン画面に視線を移し、目の前のやるべき仕事に取り組み始めた。余計な思いに気をとられている場合ではないからだ。
そうしてようやく一段落つきデータ保存した後、時刻を確認した。するともう十時近くだと気付き、これはまずいと慌ててパソコンの電源を切った。余りに遅すぎると労働基準監督所の指導が入ってしまう。また人事の残業調査にも影響を与える。
パソコンの使用状況だけでなく、ビルの管理上でも退出記録が残るのでごまかしは効かない。急いで片づけを済ませフロア全体を見まわす。尊が最終退出者だと確認してから電気を消し、社員証に付随したカードキーでロックをかけた。
廊下に出てエレベーターのボタンを押し、ドアが開いたので乗り込んだ。一階に到着し降りると、一部の電灯しか点いていないせいでフロア全体が薄暗かった。
入館ゲートの先には、いつもよくみかける警備員が一人立っていたので、再び社員証をかざして通りながら、頭を下げて言った。
「お疲れ様です」
「遅くまでお疲れ様です」
そう声を返されたので尋ねてみた。
「まだ他の階にはいますよね」
彼は微妙な表情を見せつつ頷いた。
「二十階がまだですね。でも今日はそこだけですよ」
法人営業部や業務部、名古屋支店長席が入っているフロアで、それぞれ帰りが遅い部署として有名だ。東京本社の人事部からもよくお叱りを受けている、との噂を耳にしていた。
けれど彼は暗にその次だと警告したのだろう。尊は頭を掻く仕草をしながら告げた。
「すみません。では失礼します」
黙礼を返され恐縮しつつビルを出た。幸い雨は降っていなかった為にホッとする。地下鉄の入口まで歩く途中で少し立ち止まって後ろを振り返り、先程までいた会社を見上げた。
真っ暗な空とビル群の中に、ポツンと灯りが見える。まだ仕事をしている二十階のフロアだろう。尊が先程までいた十五階のフロアは暗くてどこにあるかはっきりしない。
もう仕事は終わり、明日と明後日は休みなのだ。そう気分を立て直し、尊は前を向いて地下道へと足を進める。
地下鉄には乗り換えを含め、二十分余り乗車すれば借り上げ社宅の最寄り駅に着く。そこから五分ほど歩けば家だ。通勤時間が三十分以内というのは、一時間以上が当たり前の東京などと比べれば、精神的にも体力的にも極めて楽で有難い。
電車内では何とか座れた為、スマホを取り出しニュース画面を開いた。今日起こった事件などのトピックスにざっと目を通す。大きく取り上げられていたのは一年前に起きた殺人事件の裁判で、被告が無罪を主張している内容の記事だった。
ただこの件においては様々な証拠が上げられ、明らかに冤罪と思えない事案だ。それなのに無罪を主張する根拠が、ここ数年で起きている異常現象によるものだったからだろう。世間の関心が高い為、マスコミ各社は騒ぎ立てているようだ。
「俺は犯人じゃない。その証拠に、殺された被害者の魂が現れていないだろう」
数年前なら法廷を侮辱した証言だと一笑に付されていたはずだが、今は違う。何故なら人の悪意によって殺された被害者が、その犯人と思われる人物の逮捕後に魂のようなものとなり、第三者に乗り移る事例が日本だけでなく全世界で多発していたからだ。
実際、乗り移られた証人が今回のような法廷に出頭し、被告に殺された状況等を詳しく語りだすという裁判は既にいくつかあった。声色も証人とは全く違い、被害者に似ているという。
「私はここに居る被告の手で殺されました。使われた凶器は私自身が事件の起こる直前に購入した登山用のナイフです」
被害者の同僚が証言台に立った際、突然犯行に至るまでの経緯はもちろん、時に犯人と被害者しか知り得ない秘密の暴露まで明かし始めた為、事件の詳細がより明らかとなったケースだ。他には法廷に呼ばれた裁判員の体が乗っ取られた事例もあると聞く。
どうしてそんな不可思議な現象が起きているのかは、未だ解明されていない。世界的なパンデミックがまだ完全に収まっておらず、異常気象や各地で起こった戦争や紛争により世界が混沌としていたからだろうか。人類が滅びる前兆ではないかと恐れられた頃、突然世界各地で同様な事態が発生したのである。
よって少しでもより良い人類だけを残し、悪人を排除する為に起きたのではないか。ノアの箱舟ではないけれど、神様による選別が始まったのではないかとまで囁かれ出した。
けれど最近分かってきたのは殺された人物の魂が全て蘇るのではなく、出現する確率はせいぜい二分の一だという点だ。また被害者が死亡してから出現するまでの期間は、何故か二年以内の事例ばかりだった。
さらに自らの意思で死んだ場合や病死、または自然災害で亡くなった被害者で魂が乗り移った者はいない。事故死でも明らかに悪質な運転だった場合に限られていたようだ。
そうした現象が起こっていたからこそ、被害者の魂が現れていないのは自分が犯人でないと言い張る者が出始め、裁判を混乱させる要因となっていた。
生き返った犯罪被害者は英語でVictim of crime revivedと訳され、その頭文字を取ってVOCR、通称ボカーと呼ばれるようになった。またその魂はボカーソウルと名付けられていた。
「ボカーソウルの不在は、被告が犯人でないという根拠にならない」
ネットで扱われていた事件で、当然検察側はそう主張していると記載されていた。ボカーソウルの出現で、逮捕された加害者以外に共犯者がいると判明した事件もあったらしい。
よって以前なら見逃されていた人物まで逮捕される事例もあったけれど、それ以上に混乱をきたしていたのも事実である。
「厄介な世の中になったものだな」
そう呟きながら、今度はSNSのアカウントを開いた。尊が実名を晒してやっている、釣りに関してだけ書き綴ってきたものだ。小学生の時に父親から教わったウグイ釣りが高じて趣味となり、今は疑似餌であるルアーを使った釣りを専門にしている。
趣味とはいえ、休みとなれば毎回といっていいほど出かけており、その範囲は近場に留まらない。全国各地で行われている大会があれば、スケジュールの許す限り参加していた。
その腕前は優勝をするか、それでなくても常に上位入賞を果たすほどだった為、釣り好き仲間では一目置かれていた。大会には釣りを職業とするプロも参加しており、その中でアマチュアながら好成績を上げていたからだろう。
よって当初はその仲間内だけでやりとりしていたSNSが公となり、身元がバレたのだ。それでも内容はプライベートで参加している釣りに関してのみの記載に限っており、職業も公にせず業務で知り得た情報などは当然一切書き込まなかった。
その為会社からは注意するように言われてはいたが、お咎めなしで続けていた。けれど今の部署に来てからは全く更新できていない。新しい業務に慣れる為、休みの日も勉強したり、休日出勤したりする場合も少なからずあったからだ。
従って古くから親しくしていた仲間達から大会に出ないのか、最近顔を見ないけど大丈夫かと時折心配する書き込みがあった。
当初は返信をしていたけれど、今は既読してもスルーしている。釣りが出来ないイライラをぶつけてしまいそうで怖くなったからだ。それでも落ち着くまでは釣り断ちすると決めていたのに、こうしてつい覗いてしまう未練がましい自分が嫌になる。
そうしている間に目的の駅へ到着し、尊は電車から降り改札を出た。そこからしばらく歩き住宅地に近づくと、店の灯りなどでまだ明るかった駅前と比べ、辺りは急に暗くなる。ところどころに街灯があるとはいえ、人通りは少なく女性の独り歩きだとやや怖い場所だ。
しかも途中にある公園の近くは、覆い茂った樹木の裏手に出来る黒い影が一種の死角になっていた。よっていつもは気持ち悪いと思いながら用心していたのに、家はもうすぐそこだと油断した訳でもないけれど、この日は疲れていたこともあり尊はそんな場所で人が隠れているなど考えもしなかったのだ。それが不幸の始まりだった。
公園を左手に見ながら通り過ぎようとした時、いきなり背後から腰にどんと人がぶつかり驚いた瞬間、激痛が走る。刃物によって刺されたと分かったのは、後ろに回した手がそれに触れたからだ。
同時に人の気配を感じ振り返ろうとしたが、体はその通りに動いてくれなかった。足に力が入らずそのまま膝から崩れ落ち、アスファルトの道路にうつ伏せで倒れた。
そこで走り去る足音だけがうっすらと聞こえた。
「がっ」
言葉にならないうめき声が出た。全く想定外の事態に陥り頭が回らない。ただ命の危険を感じた事だけは確かだ。
体全体が震え出し、どうにかしようとしたけれど、何故か手足がしびれて上手く動かなかった。それでも大きく息を吸い、最後の力を振り絞って出せた声が最後の記憶だ。尊はそのまま気を失ってしまったのである。
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