第31話 あの日のように
百人程度だった辺境の町バシリオスの人口が、今や軽く三倍に膨れ上がっている。
「客」とも言える調査団目当てに、露天商を開く者まで現れ、にわかに活気付いている。
「……はあ」
「そんな顔をしても無駄です。同情などしませんよ? あの尊き白防壁に触れることが許されるのは、神官か聖女だけなのですから」
私も聖女なんですけど……。
大神官様にサヴァス様やファニス様はもちろん、随行者である神官たちが、白防壁に手を当てて何かを感じ取ろうとしている光景を前にして、私はマリオスさんから、「分不相応」だという理由で規制区域への侵入を止められている。
頭でっかちな人だとは思っていたけれど……。
大神官様も、「触りたい人はみんな触ればぁ?」と呼びかけていたのに。
はぁ。
独りよがりな思い込みをしているマリオスさんも厄介だけど、それ以上に私は自分の不甲斐なさに呆れていた。
白防壁のこちら側とあちら側を聖なる光で覆うには、ほぼ丸一日かかるはず。
その間、ずっと手を触れているだけの理由を、私はいまだに思いつけないでいる。
白防壁の上部へ上がる階段の建設は順調に進んでいた。既に二階部分の建築に取り掛かっている。
大工たちの喧騒をよそに、壁中央の建築現場から離れた場所で、神官らが頬を紅潮させて壁を撫でている様子はなんだか滑稽だ。
彼らには見えていないようだけど、白防壁には、聖なる光が薄いベールのように、まだかろうじて残っている。
でもやっぱり……。本当にベールみたいに、透けて見えるのよね。
マリオスさんが立ち去った後も、私は飽きもせず一人で白防壁を眺めていた。
「ぼんやり固まる癖は直っていないんだな」
「……! ベネディクト!」
振り返れば、記憶にある目線よりも高い位置に、あの燃えるような瞳があった。
背が伸びただけでなく、顔つきも、少年のそれとは違っていた。
「来てたんだ……」
「そりゃあオレの生まれ育った町だからな。強引に潜り込むに決まってるだろ」
……よかった。私の知っているベネディクトだわ。以前のように私と話してくれるのね。
感動のあまりベネディクトの手を取って、飛び跳ねてしまうところだったわ。
そこに背後から声をかけられた。
「お邪魔かとも思ったのですが。何も避ける必要はないですからね。それにしても、これだけ大勢いても赤色はかなり目立ちますね。どこにいてもいい目印になります」
「なんだよ。騎士と神官だけじゃなかったのかよ」
ゆっくりと歩いて来たのはデメトーリだった。
ベネディクトが膨れた顔でデメトーリに文句を言うなんて、久しぶりじゃない?
ああ懐かしい。この感じ。
「もしかして二人で密会しているところを邪魔してしまいましたか?」
「はぁん! 誰と誰が密会だって!」
「ふふふふふ。まあまあ。私とベネディクトのことを言っているのよ。デメトーリに揶揄われただけじゃない。ベネディクトったらもう――。ふふふふ」
デメトーリもきっと、昔のベネディクトが帰ってきたみたいで嬉しいのよね。独特な可愛がり方――というか愛情表現だけれど。
「……」
「……」
なぜかベネディクトとデメトーリが、残念そうな、哀れみを宿した目で私を見ていた。
……は?
「出たよ。その顔は何だよ。前のも気持ち悪かったけど、その顔も輪をかけて気持ち悪いな」
「無駄です。あの顔は、どうせろくなことは考えていませんよ。はあ。本当に理解に苦しみます」
え? ひどい言われようだわ。二人のことを微笑ましいと思っただけよ?
まるで三人揃ったことを感じ取ったかのように、サヴァス様がこちらを振り返って微笑みかけてくれた。
サヴァス様はいつだって、私たちのことを気に掛けてくれているのね。
サヴァス様に命を助けてもらって、ベネディクトとデメトーリと一緒に生活をしたのは、季節二つ分にもならない。
それなのに、彼らとはずっと前から一緒にいたような感覚に陥り、時々不思議な気持ちになる。
彼らと一緒にいると、なぜだかゆったりと穏やかに時間が流れていくように感じる。
彼らの何かが――何かしら? よくわからないけれど、その何かが、私を優しく抱きしめてくれているみたいな……。
彼らが近くにいてくれると思うだけで、不安や恐怖を感じることはなかった。
私はいつだって、心から安心して大丈夫って思えた。
……そうだった。
今世だって私の周りには、私を気にかけてくれる人がいるじゃないの。
前世で私が支えられていたのは、何も特別な力じゃない。彼らの存在そのものだった。
今こうして、私の隣にいてくれるような……。
四六時中一緒にいなくても、たまに言葉をかわすだけでも……。
彼らの中に、私が私として存在してくれさえすればいい。
それだけで救われる。
私――今世でもひとりぼっちじゃないわ。
「それにしても、いつまでサボるつもりですか? 二人にだって仕事はあるのでしょう?」
「なんだよ。自分が戻らなきゃいけないから、オレたちにも戻れって言うんだろ?」
「当然です。二人が私よりも暇なはずがありませんからね」
「ちぇっ」
「ふふふふ」
「だからその顔やめろってばー!」
「その顔は見たくありませんね」
なんだかんだ言っても、ベネディクトはデメトーリの言うことをきくのよね。
早足のデメトーリと、ぶらぶら歩く私とベネディクトとの距離が、どんどん離れていく。
小神殿が見えてきたところで、それまで横を歩いていたベネディクトが急に立ち止まり、囁くようにつぶやいた。
「魔物に――。アイツらに
「……え?」
「あと。あれは無しだ。まあ約束した訳じゃないしな。オレは誰にも忠誠なんて誓わない」
ベネディクトはそれだけ言うと駆け出した。
え? 待って。
それって――貴婦人がどうとか、騎士の誓いがどうとか、いつだったか――照れながら言っていた、あの話?
どうして「無し」だなんて言うの?
声をかけようにもベネディクトの足が早くて、私の声が届くところには、もう彼の姿はなかった。
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