第21話 聖櫃(せいひつ)の間

 一歩前進なんてものじゃなかった。

 マリオスさんの目的地を知って、私は驚愕した。


「ここは聖櫃せいひつの間と呼ばれています。この国に伝わる古い書物や文献の類が保管されている場所になります」


 聖櫃の間! ここに入るために、はるばる大神殿にやって来たのだ。それなのに大神官様しか入ることができないのだと聞いて――。


「あの。お尋ねしたいことがあるのですが、質問をお許しいただけますか?」

「なんですか?」

「この部屋には大神官様しか入室できないと聞いていました。マリオス様はともかく、私が入ってもよろしいのでしょうか?」

「そういえば、そんな噂を聞いたことがありますね。ふっ。くだらない」


 え? くだらない噂話なの?

 マリオスさんは躊躇いもなくドアを開けると、中に踏み込んだ。

 部屋に入った途端、その明るさに目を奪われた。

 天窓なんて目じゃない――天井全体がステンドグラスになっている!

 兄様やダビドといった英雄たちと思われる姿が、色とりどりのガラスで描かれていた。

 マリオスさんは天井を見上げている私に、簡潔に説明してくれた。


「何代か前の大神官様が、温室を改造してこの部屋を作られたのです。ですから上階がありません。それより周りを見てください」


 部屋の中は天井まで一面に書物や紙の束で埋め尽くされていた。壁一面が書棚になっており、中央に大きなテーブルが置かれている。


「百年ほど前までは、ここにある古文書を分類整理し、要請に応じて写本を作成する専門の担当がいたと聞いています。ですが徐々に古文書を研究する者も、過去の叡智を参考にする者も減り、古文書を読める者自体が減ってしまったのです」


 それはそうだわ。古語を学んでも活かせる場所がなければ、ただの趣味になってしまう。相当裕福な者にしか許されない趣味に。


「かつて神学校では古語は必修科目だったのですが、今では履修は自由で、希望する者のみとなっています。兼任の教官が一人いらっしゃるだけですしね。古語を学ぼうという意欲のある者自体が稀なのです」


 そう言ってマリオスさんがチラリと私を見た。

 ……う。違います。誤解です。私は決して意欲を持って学んだ訳ではありません。

 でもそんなことは言えないので、とりあえず口角を上げて微笑んでおく。

 マリオスさんが、テーブルの上にあった細長い紙を一枚手に取って、私に差し出した。


「君にはこれらの資料の分類を頼みます。どうやらこの数十年の間は、古語を拾い読みできる程度の担当者しかいなかったらしく、最後の担当者が引退した後、引き継ぐ者がいなくなったのです。ですから、ここにある資料がどこまで整理されているのかすら、わからなくなっているのです」


 マリオスさんは、状況を把握できていないことが許せないらしく、どこか不貞腐れたような顔をしてしゃべっている。

 几帳面な性格の人って、他人の領域ですら、ごちゃごちゃしているのを許せないのよね。


「おおよその時代が判別できるものがあれば、ドアの左側の棚に古い順に並べていってください。それと、何について書かれたものかわかるメモを挟んでいってください。そして歴史とか、人物とか、内容ごとにまとめていってほしいのです」


 この三センチほどの紙に、例えば、「アドニス国王の執務記録」とか、「白防壁の建設計画」とか、概要を記入して栞のように本に挟めばいい訳ね。

 マリオスさんはチラリと私を見ると、テーブルの真ん中に置かれていた資料を私に渡して、「何が書いてあるかわかりますか?」と尋ねた。

 渡された資料を両手で恭しく受け取ると、紐で綴ってあるそれに目を通す。


「これは、白防壁完成を祝うお祭りの――百年目の大祭の準備状況が書かれていますね」


 マリオスさんが息を呑んだのがわかった。


「……正解です。これだけは担当者が交代する際に、内容と共に引き継がれているのです。君は本当に古語が読めるのですね」


 またしても試験ですか。まあ私みたいな田舎育ちの娘が、「古語が読めるらしい」と聞かされても、にわかには信じられないのもわかる。


「不甲斐ないことに、私は古語がわかりません。ですから、ここにある資料を分類するのにどれほどの時間がかかるのか見通しを立てることができません。中には難解な資料もあるでしょう。一日のノルマはないので、作業は君のペースで進めてもらって構いません」


 ここまで理解しましたか? というようにマリオスさんが視線を寄越したので、黙ってうなずく。


「労働時間はこれまでと同じです。開始の挨拶も終了の報告も不要です。今朝行った上級神官の執務室でこの部屋の鍵を受け取り、終わったら返却してください。神官たちは皆心得ていますから」

「はい」

「では早速始めてください」

「承知しました」


 マリオスさんが部屋を出るまで行儀良く見送りの姿勢で立っていたら、彼はドアを閉める前に振り返って私を見た。

 報告不要の代わりに、釘を刺しておくことにしたらしい。


「季節一つ分の働きで、随分と信用を得たのですね。監視がなくても君はさぼらないと、太鼓判を押された方の評判が落ちないよう気をつけることです」


 ……! きっとファニス様だわ。私の仕事ぶりいかんでは彼に迷惑をかけてしまうのね。 

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