第5話 父の失踪 1
木村和枝が保来興信所を去ってから一年ぐらいして、突然孝太朗からの音信が途絶えた。蒸発というか失踪したのである。
信次郎は、この機会を利用すればいい加減嫌になっていた旅館業から解放されるかも知れないと考えた。
勿論、父を心配する気持ちも大きい。
「親父が心配だ。俺、探してみるよ」
その言葉に、ユキは抗えなかった。こうして信次郎は、妻を残したまま再び上京したのである。
信次郎は、父親の立ち上げた保来興信所に立つ。事務所内は、父が仕事をしていた時と同じで、直ぐにでも父がふらっと戻って来る様であった。
信次郎は、事務所を見回しながら推理する。父親の性格、そして普段の行動から察するに、孝太郎の失踪の原因は仕事関係ではないかと考えた。
信次郎は、小まめに記録されている調査内容を片っ端から調べ始めた。しかし、調査票からは父の失踪を匂わすような案件を見つけられない。
抑も、信次郎が大学時代に父の仕事を手伝ったとは言え、調査自体には深く関わっていない。
なので、何もかもが良く分からないというのが現状だった。
信次郎が、妙策も無く事務所内を調べ回って数日。まるでその様子を近くで見ていたかのように、突如木村和枝が現れた。
これにはさすがの信次郎も驚いた。
「私、半月前位に叔父様に用事があって、事務所や住まいに何度も電話したの。でも、叔父様は電話に出られなかったので心配になって。やっと時間が取れたので、様子を見に来たの」
和枝は孝太朗を、依頼者達の前では社長と言い、信次郎達家族の前では叔父様と呼んでいた。
忙しい中、時間を作って来たと言う割には、何時まで経っても帰ろうとしない。そんな彼女を心配して、信次郎は言葉を掛ける。
「帰らなくて良いの? 母さんから、和ちゃんはこの事務所を辞めて結婚したって聞いている。旦那さん、待っているんでしょ?」
妻の帰りを待つ夫の姿が思い浮かび、信次郎は心配する。
「今夜は此処に泊まらせて。私、そのつもりで来たから」
以前は、和枝も孝太朗や信次郎と家族のように一緒に住んでいた家。とは言え、今の和枝は人妻。はいどうぞと、単身男性の家に気安く泊まらせる訳には行かない。
「駄目だよ。親父の事を心配してくれるのは嬉しいけど、とにかく今夜は家に帰りなよ。明日また来てくれればいいから」
すると和枝は、
「あのね、私、別れたから」
彼女はあっけらかんとして言い放った。
その和枝の振る舞い、言い方からして、この件には二度と触れないで欲しいという雰囲気が信次郎に伝わってくる。以後この件に関して、信次郎は和枝の前で二度と口に出したことは無い。
和枝の出現は信次郎にとって有り難かった。なにせ、長い間孝太朗の補佐をしていただけに、気が付くことも多かろう。
しかし、和枝の助力を持ってしても、依然として孝太朗の行方は掴めなかった。
意外と多い調査記録。丹念に調べていくと、記述の中に特に興味を引かれる調査があった。後に、信次郎が「繭(まゆ)の館」として残した調査記録である。
この依頼調査を行った父・孝太郎は、几帳面な性格も手伝い、日記のように詳細に記載していた。
そう言えば、信次郎にもこの件に関しての記憶が少しある。
数ある調査依頼の中でも、孝太朗にとって特に印象深かいのか、時折この調査結果を信次郎にも語っていたのだ。ただ、当時の信次郎は全く興味が無く、うわの空で聞いていた。
当時、保来興信所にある依頼が舞い込んだ。桜谷貴子という人物の調査である。保来孝太郎が調べた結果、その人物は男だった。
戦時中に起きた事件から大きなハンディを負い、男として生き続けるよりも女としての道を選んだ桜谷貴子。その生き様は謎めいていた。
記載事項を見直し、父の話も想い出しながら、信次郎は丁寧に調べ直す。すると、彼の脳裏にある仮説が浮かんで来た。それは、父の失踪はこの時の調査が絡んでいるのではないかと。
確かな確信があった訳では無い。だが、記載の中ある一文が目に付いた。
「あの男は死んでいない。どこかで生きている」
と、桜谷貴子が述べた記述が妙に引っ掛かる。
若しかしたら、桜谷貴子はどこかで生存していると信じ込んでいる男の行方を、後に別途依頼として父に要請したのでは無いかと。
そして父・孝太郎は、その調査の最中に事件か事故に巻き込まれて、何らかの理由で音信不通になったのではないのかと。
最悪な場合、殺されているのではとまで考えが及ぶと、信次郎は不安な気持ちに包まれた。
そんなに年月が経っていないので、桜谷貴子は現存しているだろう。しかし、事情を聞きに行く気にならない。行ってはならないという、不思議な暗示を感じた。
強引なこじつけにも思えるが、信次郎はこの説を捨て切れず、燻りながら心の底に残り続ける事になる。 +
一週間が過ぎても何も情報が得られない。孝太朗の足取りは結局分らず終いである。すると信次郎は、警察に失踪届を出し早く旅館に戻って来るように母に言われる。
やむなく、信次郎は和枝に後を任せ一旦帰郷する。
次回の「父の失踪2」につづく
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