友達の見つめるもの

てると

友達の見つめるもの

 高校時代に一緒に下校していた友達のことを思い出した。彼は、純粋で影響されやすく、今も連絡を取り合っているが、なにやら書店の1階に並んでいるようなハウツー本を読んでいる。

 そんな友達は、下校の際に通る橋で、いつも川の水面を見ていた。何があるというわけでもないが、いつも、人口10万の地方都市の中心部を流れる小さな、川を見ていた。わたしには当時から、そのことがとても印象的だった。

 おっとりしていて、悪意の混じらない友達は、それでも校内での成績はよく、いつも経済的野心を口にしていた。彼には父親がいなかった。

 わたしが調子を崩したとき、彼にはとんでもない嫌がらせで戸惑わせたが、久しぶりに話すと全ての感情を水に流すどころか、回復したことの喜びを伝えてくれた。


 今のわたしには活動を共にする大切な友人ができたが、彼は、とても反省的に自分を見つめるところがある。しかし、それをもって弱さの克服と徳を志しており、人を見る目を評価されるわたしを以てしても、彼にはどんな悪意の混じり気もない。彼もやはり、院に進学するほどの野心と成績をもち、そのことを臆して隠すこともない。わたし以外の公共性を要求される場で他人に向けて話すときは、いつも過度に形式ばった概念言葉を使いたがるところがある。しかし、その性質と能力を悪に振り向けるところが一切ない。


 わたしには、どうも生まれついて潔癖なところがある。一緒に不良をしでかすような友達を好まないのである。せいぜいわたしのする「悪い事」というのは、地方の進学校出身の先輩と酒を飲みながら徹夜でカラオケに籠ることくらいである。わたしはもしかするとそういう意味の経験の度量が狭いのかもしれない。


 ここからナルシスティックに書いていくと、わたしは周囲から評されるように、どうも一瞬で人を選別してそれがうまくいくことが多いらしい。実際にある友人が言っていたことによると、わたしは「キチガイ水でデパスを流し込む」人間であるが故に、わたしがスカウトしたサークルメンバーからただの一人も脱落者が出ていないということである。確かに、わたしの選んだ人からは、脱落者も出なければ、心根の悪い人もあらわれない。

 この直感の性質は自分でも当てにしてきたが、確かにまず外さない。そこで言うと、宮崎駿が芥川龍之介を「いい奴」と評していたが、同様に、アドルフ・ヒトラーや桐島聡も、わたしのフィルターを通すと、彼らは人間的に善良であったが故に、まさにそのことによって道を誤ったように思う。だから、本性善良な人ほど、トラジディな破滅の回路や破壊の衝動の亢進に向かわないために、じつに正しい信仰を確立しなければならないのだ。欲張りが許されるのはむしろ鈍感な人である。


 太宰治が『人間失格』のあとがきでやはりナルシスティックに、「私たちの知っている葉ちゃんは、とても素直で、よく気がきいて、あれでお酒さえ飲まなければ、いいえ、飲んでも、……神様みたいないい子でした」と「マダム」に言わせているが、実際、彼のような人は、たんに小説の題材にとるだけでなく、神様の子供として生きるべきだった。


 男が弱さを見せるからモテるというのは、あれは嘘だ。実際には、弱い人は、最初から弱さなど本人が思っている以上に丸見えなのだが、そういう人が頑張って強くあろうとしている姿に、誰しも魅力を感じるものなのだ。だから、わたしは今の友達や先輩が弱いことなど最初からよく知っているが、彼らが自立した格好良さを持とうと鍛えている姿に人間として惚れているのである。超人を説教したニーチェは、善にして義なる者の偽善を暴いた誠実を持っていたが、また一方で、わたしはずっと、世に理解されがたいやもしれぬ善にして義なる強さの誠実を信じて生きている。実に、圧倒する光は、外界ではなく、一人一人の、しかしその人にとって全てであるような世界全体を照らす。光あれ。

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