第十話 前世


 夜、私はすっと目を覚ました。

 いつの間にか開いていた障子の隙間から、月明かりがうっすらと差し込んでいた。

 月陰国は一日中夜なので、今も月星が黒々とした空に輝いているだろう。

 部屋にあった蝋燭は全て消えているため、本当に月の光だけが浮かぶ世界だ。

 前世以来久しい独りの夜は、少し心細い。


 夜風が音を立てて、吹きぬける。

「さむっ」


 着ているのが布の薄い夏用の寝巻きのせいか、夏の夜とはいえ風は冷たく寒い。

 余計に目が冴えてしまった。仕方なく身体を起こせば、空気の冷たさを更に強く感じる。


 昨日はお岩さんのおかゆを食べ、少しばかり風呂場で水浴びた後、すぐに眠ってしまった。

 寝る直前までなんやかんや春宵さんが傍にいたからこそ、この寂しさと冷たさに身体がふるりと凍える。


 昔、怖かった時、私は何をしていたっけ。

 いや、寧ろ昔は夜の静けさは安堵の象徴だった。誰も私を怒らない、誰も私を蔑まない、誰も私を頼らない。そんな安堵だった。


 前世、私はほぼ・・母子家庭のような家で育った。

 父親は弁護士、父の弟である叔父は一級建築士、父方の祖父は建築会社の社長、祖母は製鉄会社社長のお嬢様。

 そして、母親は法律事務所の事務員だったそうだ。

 私が産まれた頃には、男の跡継ぎがほしかった祖母と、三年子が出来ず女を生んだ母の関係は、修復不可能なレベルであった。

 また、父親には余所に女がおり、祖父は男は浮気するモノだと豪語するようなワンマンな人。更に、父親と愛人の間には、前世の私と同い年の弟までいたのだ。


 こんな家に生まれた私はどうなるだろう。

 簡単である。


『将来役に立つ塾よりも、今だけの友達を優先できる理由ってなぁに?』

『部活なんで時間の無駄じゃない。なに?不満があるなら、納得できる理由を言ってごらんなさい』

『受験ではこの一点が、命取りなのわかってるの!? なんでミスしたの!?』


 なんともテンプレな教育ママというやつだ。

 遊びに行くことも許されず、ひたすら机に向かって勉強をする日々。テレビも、ゲームも、マンガも、何も知らず育ってしまった。何度も脱走しようと試みた。反抗しようと思った。

 けれど、それが出来なかったのは

『貴方だけは、たった一人のお母さんを助けてくれるわよね。娘だものね? ・・・・・・

 何度も母は、私に泣いて縋りつく。母には、味方が居なかった。正しく言えば、味方のいない女だから、父親方の正妻どれいとして結婚できたのだ。

 生まれた頃から、私の視界に映る世界は、幸せなんて何もないただの空間だった。


 そんな息苦しい空間の中、私の心を初めて色付けたのは、塾帰りの道途中で見たよさこい・・・・の流し踊りだった。


 八月の一番初めの土日。


 肌をじりりと焼く、暑い夏の昼間。

 大きな道路を祭り囃子とともに、力強く大地を蹴り上げ踊り進む人達。

 華やかな化粧や衣装に髪型。

 人々の心を震わす歌や掛け声。

 なによりも、花火よりも強く輝く人々の笑い声。

 思い塾バッグを背負った私が、ぎちぎちに詰め込まれた習い事から習い事へと移動するわずかな時間。


 初めて、心が躍るのを感じた。特に大好きだったのは、強く羨ましいと思う気持ちから祭りから目を背け逃げようとした私の心を掴み、振り向かせたチームだった。


慶田よしだ大学よさこい衆ばんから! 我ら真理を追究する者なり!』


 慶田大学というのは、最難関私大であり、母が「せめてここには」と言い続けていた大学だった。

 そんな人達が踊っている。どんなものなのだろうか。視線の先には、若々しい大学生の男女が格好いいお揃いの衣装に身を包み、一糸乱れぬ激しい踊りを繰り広げている。

 こんな暑い日の中で、まるで全ての命の炎燃やすかのような踊り。

『よい! やっ! さぁー!!』

 踊り子たちの大声は、ほとばしを感じさせる。


 まだ、幼い私は唖然とその姿を見ていた。

 人生で初めて、心の底から思ったのだ。

「あの、大学に入りたい」と。

 数年後、私はどうにか慶田大学に入学した。一番偏差値が低い文系学部だったが、大学のネームバリューが大事だった母親は許してくれた。

 そして、願い通り、よさこいチームに所属して……。


 私はよさこい時代のことを思い出し、大きくため息を吐く。とても、楽しかった。けれど、その分、自分には何もないのだと気付かされる時間でもあった。


『お前はどうして、やりたいんだ?』

『答えられないなら、一番大事な役は任せられない』

 かつての仲間に問われた言葉は、今も私の心に深く刺さる。


 そして、この世界に来ても、私は家族に恵まれなかった。

 母は一番下の弟を産んで病死し、父親は長女である私は良いところに嫁げるよう厳しく躾をされた。

 そして、妹は私を見て育ったからか、たいそう要領がよかった。姉が良縁を掴めば自分が楽だからと、私が無意識に踊る等粗相をするとすぐに父親に告げ口をして、自分から視線をそらすのが上手だった。

 末の弟は没落寸前とはいえ武家の長男として、上げ膳据え膳のように大切に育てられており、明らかに姉妹との扱いに差があった。


『武士の子は、お家のために尽くす定めよ』

『姉さまは、いいところに。私は、それなりのに嫁ぐって決まってるもの』

『姉君、恥だけは晒さぬように』

『言い訳なんぞ、聞きたくない』


 私に拒否権も選択権もない世界だった。


 思い出せば出すほど、精神的に息が苦しくなる。

 外の空気を吸おう。

 廊下と部屋を隔てる障子を肩幅ほど開き、廊下へと一歩足を踏み出す。美しい月が庭を照らしているが、うっすら輪郭を感じるほどで、ほとんど暗く何も見えないに近い。ただ、白砂で出来た枯山水だけが、月光を照りかえし、ばわっとした光を放っていた。


 冷たい空気を大きく吸い込み、ゆっくりと背伸びをする。身体の中が新鮮な空気に満ちたからか、少しばかり思考の巡りも良くなってきたのだろう。


「あ、よさこい、どうしよう」

 よさこいには、音楽が必要だ。コンセプトや、どんな旋律を使いたいか、考える必要がある。

 今は自分に出来ることを。私は夜の月を見ながら鼻歌を口ずさむ。


 そんな時だった。ぱさりと、肩に布がかけられた。驚いて振り返れば、そこには。


「一白」

 いつの間にか、背後に春宵さんが立っていた。

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