第3話 それは魔法にかけられたみたいで
「それでは失礼します」
そう言ってウィルバートは大きな手でさらりとエミーリアの髪を一束掬った。
ドキッとエミーリアの心臓も跳ねる。
だがウィルバートは黙ったまま、持ってきた籠から香油を取り出しエミーリアの髪に馴染ませていく。
「大丈夫です。 痛いことはしませんから」
ウィルバートはそのままエミーリアの髪を丁寧にブラッシングを始めたのだ。
エミーリアの髪は元々クセが強いので、いつも一つに括るかバレッタで留める程度に済ましがちだ。
だがウィルバートの手にかかると、それがみるみる内に解されていく。
その手際の良さはまるで理髪師、いやそれ以上だろう。
香油のおかげか、いつの間にか身体の緊張も解れている。
気持ちいいような、擽ったいような、これがきっと『夢見心地』という感覚なんだろう。
何とも心地良い時間に、何日も張り詰めていた緊張の糸が解けていく気がした。
◇
「エミーリアさん、終わりましたよ」
名前を呼ばれてハッと瞼を開いた。
いつの間にか眠っていたみたいだ。
時計を見るとそれ程時間は経っていない。
けれど何時間も眠った後の様にスッキリしていた。
「これをどうぞ」
ウィルバートはエミーリアに小さな手鏡を持たせた。
「……これ、本当に私?」
一瞬、魔法をかけられたのかと思った。
ウィルバートのブラッシングによってエミーリアの髪は上質な蜂蜜のように輝き、波打つような艷やかな曲線を描いている。
「……やっぱり可愛い」
それは小さな呟きだったが、ウィルバートとの距離も近かった為、エミーリアの耳にも届いた。
持っていた手鏡に、頬を染めながら笑うウィルバートの顔が映りこむ。
ネガティブ発言のおかげで表情が崩れがちのウィルバートだが、元は端正な顔立ちの青年だ。
その美しい笑顔は想像以上にグッとくるものがあった。
(ダメダメダメ! ステラを探しに来たのにときめいてる場合じゃないわ!)
エミーリアは慌てて両手で顔を覆い、心の中で邪念を振り払った。
――――『お姉様、私達の事ばかりではなくもっとご自分を大事にしてください!!』 ――――
ふとステラに言われたのを思い出した。
母が亡くなってから、エミーリアは憔悴してしまった父に代わって家族を守ってきた。
自分の事はいつも後回しにして、寝る間を惜しんで領主の仕事や家族の体調管理に尽力してきた。
だからといってそんな生活が嫌だと思った事は一度もないし、家族の笑顔が見れるのが何よりも嬉しかった。
だが父も復帰、ステラも最愛の人と新しい家庭を築くのだ。
そろそろ自分を見つめ直す時間があっても良いのかもしれない。
そんな事を考えていると、ふとウィルバートの表情が冴えない事に気付いた。
「勝手な事をしてすみません……」
どうやらエミーリアが物思いに耽っているのは自分の所為だと思ったのだろう。
エミーリアは慌てて首を左右に振った。
「謝らないで下さい! ただ自分がここまで変われると思わなかったから驚いてて……」
「確かにやりすぎたかも知れません。 これじゃあ余計な
「虫?」
「いえ! それはその、『虫』じゃなくて……周りがエミーリアさんの魅力に気づいてしまいそうで……」
「そんなのあり得ませんよ。 厄介者に声を掛ける人なんていませんって」
エミーリアはまた自嘲気味に笑う。
その貼り付けた様な笑顔を見て、ウィルバートは唇を引き結び、顔を上げた。
「貴女は厄介者なんかじゃありません」
エミーリアは思わず息を呑んだ。
ウィルバートの瞳に自分が映っている。
そして今迄とは違う、ハリのある声色。
ハッキリと告げられた彼の言葉が、エミーリアの心を揺さぶった。
「貴女は家族思いで素敵な人です。 ですからそんな風に誤魔化さないで、ちゃんと自分を大事にしてください」
思いがけない台詞にドキンと胸が大きく高鳴った。
初対面の筈なのに、妹ステラと同じ事を言われ、エミーリアは胸中で何やら沸き立つのを感じた。
「……わかりました。 ちゃんと大事にします」
そう返事を返すと、ウィルバートは頬を緩めて小さく頷いた。
(何だか髪だけじゃなくて、全身に魔法をかけられたみたいだわ)
ウィルバートの優しさに触れて、じわじわと身体が温かくなっていく。
何とも心地良い熱だった。
「エミーリアさん」
「何でしょうか」
「外が完全に暗くなる前に、家まで送ります」
「あ……」
「いくら聖獣が住む地と言っても、それを狙う輩も多いですから一人で帰すわけにはいきませんので」
「……」
「すぐ支度をしてきますので、エミーリアさんはここで待っててください」
そう言ってエミーリアの返事を待たずに、ウィルバートは再び部屋を出ていってしまった。
すると側で身体を横たえていたラズも後をついて行ってしまった。
リビングに一人ぽつんと残され、エミーリアは椅子の背もたれにトンと身体を預け天井を仰いだ。
人助けは出来ないと言っていたじゃないか。
聖獣も、聖獣番も、
なのに、思いがけず優しくされて勘違いしてしまった。
もうこれ以上踏み込むべきではない。
自分を諌め、高鳴る心音を必死に抑え込んだ。
◇
エミーリアが部屋で悶々としている頃、ウィルバートもまた一人で自室の机に突っ伏し頭を抱えていた。
そこへラズがのそりと近づく。
『おい、支度はいいのか』
「どうしよう……絶対嫌われた」
『いきなりどうした』
「相手はご令嬢なのに、いつもの癖でブラッシングしてしまった上に無責任な事を言ってしまった」
『ああ、その事か』
「あんなに可愛い人なのに、自己肯定感が低いなんて勿体ないじゃないか」
『確かに容姿も性格も悪くない』
「だからもっと自信をもって欲しいと思ったんだ。 でもあんなに綺麗になったら絶対男が群がるだろ」
『まぁ……あり得るかもな』
「そしたら下卑た目で見る男だって出てくる。 そんなの絶対許せない。 絶対に挽き肉にしてやる」
『……物騒だな』
「何とかして見守れないかなぁ。 あぁでも彼女が誰かと一緒にいる姿なんてみてられないし……」
『おい、そろそろ
「え?」
『心の声がダダ漏れになっておるぞ』
ラズの冷ややかな視線によってウィルバートは徐々に冷静さを取り戻す。
ガシガシと頭をかきつつ溜息をついたウィルバートを見て、ラズは何だか感慨深げだ。
『あの娘に惚れたのだろう。 我がせっかくお膳立てしてやったのに無駄にしおって』
「それであんないかがわしいこと言ったのか?! 心臓が止まるかと思ったぞ!」
『別にあの娘もまんざらでもなかっただろう』
「それは妹君を助ける為だからだ。 人の心を弄ぶんじゃない」
『なぜだ。 先代も頑なだったが、人間というものは番を求める生き物だろう。 何故惚れた相手を野放しにするのだ』
ウィルバートはラズの言葉に耳を傾けつつ、クローゼットからフード付きの外套を取り出して袖を通す。
「人間ってのは色々あるんだよ。 好きになったからって、必ずしも報われるとは限らない。 それに僕はこの仕事が好きなんだ。 ラズ達を置いて行く気もない」
『我は聖獣番などいなくとも生きていけるぞ』
「ならこの先、僕のご飯もブラッシングも必要ないってことだな?」
『駄目だ! それは困る!』
「ははは。 ありがとう」
流れ作業の様に革張りのウエストポーチを取り付け、そこへ深緑の石が埋め込まれた伸縮式の杖を腰に下げた。
そう、自分にはこの道しかないのだ。
トリスタンの国民と自分とでは、住む世界が違う。
だから自分では彼女を幸せにすることは出来ないだろう。
「……そうだ。 今朝作ったパウンドケーキはまだ食べてないよな?」
『あぁ。 それがどうした』
「折角だしあれをお土産に渡そう」
『おい! いつ食べるのかと楽しみにしてたのだぞ!』
「また焼いてやるから今回は我慢してくれ」
『報われないとか言っておいて、手土産を持たすとは何事だ!!』
「どうせこれで彼女との縁は切れるんだ。 なら最後ぐらい僕の手料理が彼女の身体の一部になってほしいんだよ」
『……怖っ!!』
「何がだ! 彼女だっておいしいって言って食べてくれたんだから、あれだって気に入ってくれるはずだ」
『ちがう! 嗜好の話ではなく主の思考の話だ!』
「……先代に比べたらまだまともだと思うぞ?」
『いいや、主も大概だ』
楽しみを奪われたラズは長い長い溜息をつく。
『全く、こんなコソコソせずとも好いてもらう努力をすればいいだろう』
「貴族である彼女に僕はふさわしくない。 僕からの思いは素通りで良いんだよ」
『……そうかい』
張り合いのない会話に、ラズは呆れたように返事を返す。
ウィルバートもそれを聞いてラズの背中をゆっくりと撫でる。
「パウンドケーキにシフォンケーキも付けるから機嫌直してくれ」
『……それに生クリームも追加だ』
「はいはい」
ウィルバートは苦笑いを浮かべながら、ゆっくりと自室の扉に鍵をかけた。
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