金玉はお姉さまに誘惑されるのこと

32 金玉は童貞を捨てたいと願うのこと

 ――かくして一行は、蓬莱山に住まう太上老君を探して、東に旅することになった。


 それはそれとして、金玉は悩んでいた。

 自分が童貞であるということをだ。


 悩むのが十年遅い。

 男は物心ついた時から、自分は童貞か、童貞ではないかの世界に投げ込まれる。


 金玉は満月の呪いにより「男なんてケダモノ!」と思って過ごしてきた。

 が、そういう自分もまた男性であるわけで……。


 金玉は、己の存在意義についてアウフヘーベンするようになったのだ。

 それ即ちコギトエルゴスムであり、オーガズムの賞揚であり、聖童貞の超克である。


「蓬莱山へいくったって、そんな山、ほんとにあるのか?」

 少し先のほうで、肝油が申陽に尋ねていた。


「蓬莱山とは『仙人が住まう山』というくらいの意味だ。

 どこにあるのか誰も知らないし、行ったことがある者もいない。

 ただ、昔から東にあると伝えられている」


 ――金玉にとっては、どうでもいい話題だった。


 ぼくは童貞を捨てたほうがいいのかな?

 朱帰の兄さんによると、お母さまはぼくのことを「童貞を捨てれば満月の呪いが解ける」と言っていたそうだ。


 もし、ぼくの満月の呪いが解けたらどうなるんだろう……。

 ぼくが女の人と契ったら、平和な毎日を送れるようになるのかな?

 

 金玉は、満月の呪いに辟易へきえきしていた。


 がしかし、この呪いがなくなったら、自分は誰からも興味を持たれなくなるのではないか、という不安も抱いていた。


 申陽も肝油も、満月の夜が過ぎれば、寝所からさっさと出ていった犬猫のようになるのかもしれない……。


 ――童貞を捨てるべきか、捨てざるべきか。


 金玉は花占いをしようとして、路傍の白い薔薇そうびの花に手を伸ばした。


 なぜこんなところに薔薇が咲いているのか?

 それは野薔薇だからである。野生品種である。何も問題はない。


「あつっ」

 金玉は、薔薇のトゲで指をついた。


「おい、どうした金玉」

 肝油がふりかえって、こちらへやってきた。


「べつになんともないよ。トゲでケガしたんだ」


 美少年に刺さるトゲは、薔薇でなければならないのだ。

 山椒さんしょうの木なんかであってはならない。


「見せてみろ」

 肝油は金玉の指をつかみ、それをぺろっとなめた。


「あっ……」

 そして肝油は、金玉の指をねぶり、音を立ててしゃぶった。


「何をやってるんだ!」

 申陽もやってきて、苛立った声を投げた。


「……申陽さんには関係ないだろ!」

 実存的苦悩で悩んでいた金玉は、申陽に八つ当たりした。


 ぼくとしたいしたいって、そればっかり……ぼくはもっと大きな悩みを抱えているのに!

 ――五十歩百歩ではないだろうか?


「金玉……くっ……」

 申陽はぷいっとそっぽを向いて、前を向いてすたすたと進んでいく。


「この薬を飲んでおいたほうがいいぞ」

 肝油は言って、黒い丸薬を取りだした。


「ケガをした時に飲む薬だ。化膿の予防になるぞ」

「肝油ったら、大げさだね。なんともないよ」


「金玉、飲んでくれよ……おれのために」

 肝油は情熱的な瞳で、じっと金玉を見た。


「わ、わかったよ」

 金玉は照れて目をそらし、肝油の前で薬を飲んだ。

 婆羅門僧の邪法によって練られた秘薬を……。


 *


 さて、日暮れて道遠し。

 一行はなんの収穫もないまま、その日も野宿することになった。


 その夜、金玉は夢を見た。

 自分は、どこともしれぬ山奥を歩いている。

 そのうちに、どこか遠くから、琴の音が聞こえてきた。


 ――こんなところに、誰かいるのかな?


 金玉は、音のする方に向かって進んでいった。

 それはたいそう典雅な音で、よほどの弾き手なのだろうと思われた。


 しばらく行くと、蓮の葉がたくさん浮いた池があった。

 その脇に、こんな山奥には似つかわしくない、立派な門構えの豪華な家があった。

 琴の音は、その中から聞こえてくる。


 さらに金玉のもとに、世にも妙なる香りが漂ってきた。

 それは天女がつかう薫香くんこうのようにも思われる。


 金玉はなにやら頭がぼうっとして、ついふらふらと、門のすきまから入っていくのであった。


 金玉は誘われるようにして、歩を進めていく。

 いよいよ部屋の前についたと思ったとたん、金玉は足元の小枝をぱきりと踏んでしまった。


 琴の音は絶え、

「――誰かいるの?」

 という女人の脅えたような声が聞こえてきた。


 金玉は「こわがらせてはいけない」と思い、

「ち、ちがうんです。ぼくは怪しい者ではありません!」と、

 怪しさ満点のセリフを吐いた。


「劉さん、見てきてちょうだい」

「はい、奥さま」

 しわくちゃの老婆がこちらへやってくる。


 金玉は「ヘタなことはいわないほうがいい」と観念して、黙って立っていた。


 劉婆りゅうばは金玉の顔を見るなり「まあまあ、天の貴人がやってこられましたよ」と、うれしそうな声でいった。


「さあさあ、こちらへどうぞ」

 劉婆が先に立って案内する。


 金玉は「怒らないのかな?」と不思議がりながらも、言われるままについていった。


 部屋には、琴を前にした、年のころ二十五、六の、うるむような瞳の美女がいた。

 彼女は胸元が大きくひらいた赤い着物をきて、金のかんざしをつけている。

 

 彼女は金玉を見ると、にっこり微笑んで、立ち上がった。

「まあ、下手な琴の音でお耳を汚してしまいましたわ。

 お詫びにお茶でもいかがでしょう?」


「え、ええと……その、ぼくは……」

 金玉は、彼女の美しさにどぎまぎしてしまった。


「遠慮することはありませんわ」

 彼女は鳳凰のように優雅に歩き、金玉の手をとって、きゅっと握った。

 その手はなめらかで、白いひすいのように美しい。


 金玉の胸は、我知らず高鳴ってしまうのであった。



 夢の中、美女、いきなりの歓待。

 何も起きないはずがなく……。


 以下、次号!

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