泥沼裁判のはじまりのこと
15 肝油は妻を奪い返さんとして、白猿に挑むのこと
金玉は申陽に迫られ、どうしていいかわからなくなった。
わーっ、どうしよどうしよ。
そしてぎゅっと目をつぶって……何も起こらない。
不思議に思って目をあけると、申陽は外の方を見てこういった。
「妙な音がするな」
――風鈴だろうか。
いや、そうではなかった。
金玉が申陽の視線の先を見ると、黒闇の森のなかを、あかあかと燃える火が、少しずつこちらに移動しているのが見えた。
「――旦那さま、大変です!」
カラスがばさばさっと露台に飛んできて、人の声でいった。
「どっかの兵隊たちが、おおぜいこちらにやってきてます! 夜襲なんじゃないですか?」
「なぜだろう。太平の世はずっと続いているのに」
金玉は「必ずおまえを迎えにくる」といった肝油の言葉を思い出した。
「きっと、あの山賊だよ。危ないから、早く逃げよう」
「なーに、落ち着いて話し合えばわかるさ。とりあえず、出迎えの準備をしよう」
「ち、ちょっと……申陽さん?」
申陽は根っからの平和主義者で、話し合いによってことは解決すると信じきっていた。
――というわけで、申陽は洞窟の外に出て、かがり火を燃やし、歓待の準備をはじめるのであった。
「あの人たちも、長い道中をやってきて、お疲れだろう。
お茶でも飲んでいただこう」
そして、召使いといっしょに茶器を用意している。
「おしゃべりしにきたってわけじゃなさそうだけど」
「まずは、相手方の話を聞かないとな」
それはそうかもしれないが……。
ほどなくして、松明を持った兵たちが近づいてきた。
将軍が、朗々たる声でいった。
「やあやあ、我こそは肝油大将軍なり。
女を誘拐し、ほしいままに狼藉を働く妖怪とは貴様のことか。
成敗してくれようぞ!」
兜をつけた肝油が、芝居がかった調子でいっている。
せっかく夜討ちしてるのに、奇襲の効果はゼロだ。
「――肝油!」
「おお、金玉。我が妻よ。無事だったか?
いや……ちがうな。
きっとおまえは、もう猿に辱められてしまったんだ。
朝昼晩と限りなく淫を尽くして、腰も立たないようになったんだろうな。
そしてあまつさえ、化け物の子を妊娠しているとか……くそっ!
ああ、これが
相変わらずであった。
「何いってんだよ! ぼくと申陽さんは、そんな関係じゃないから!」
「おお、そうかそうか、じゃあすぐに帰るぞ」
肝油はつかつかと、金玉のもとへやってきた。
「いやー、大変だったんだぜ。
あれから役所に訴えて、住民運動を起こして、やっと化け物討伐の許可を得たんだ。
それで官位を買って、兵たちを訓練して、おれは討伐隊の将軍様ってわけだ。
これでもう、おれはチンケな山賊じゃねえ――結婚してくれるな?」
「あの、すみませんが……金玉くんは私の婚約者ですよ」
申陽が話に割って入ってきた。
「うわー! やっぱりな!
昔からこの国では、猿=エロい動物と決まってるんだ!
化け物猿が、金玉に何もしねえわけはねえ!
ああ、おれがもっと早く迎えにきていれば……」
間一髪のところで間に合ったわけであるが、肝油はそれを知らない。
「肝油将軍、お言葉ですが……。
彼の方から、私に歌を贈ってくれたのですよ」
それは恋文を渡すのと、ほとんど同義である。
「なんだとっ?」
「教えてあげましょう――」
申陽は「フフン」とばかりに、落花生の歌を詠みあげた。
「……このアバズレ! スベタ!
よくもそんな汚らわしい歌を詠みやがったな!」
肝油は
たちまちその意味をくみとって、激怒した。
「ええっ? ただ、ぼくはふざけて――
だいたい、ぼくはあんたの妻でもなんでもない!
あんたがぼくを誘拐しただけだろ! なにが将軍だよ!」
「うわーっ、おれの清らかで純潔な新妻が!
ぼくを剥いて食べて
この化け物猿と、どんな
周囲の兵士は「将軍の家庭内のことに口を出すのも……」と思って、黙っていた。
そこへ、涼やかな声が響いた。
「ずいぶんと騒がしいことですね」
「まあまあ、どうしたんですの」
琳倫と宝砂が、身支度を整えてやってきた。
さっきまでの痴態は、まるで夢であったかのような、楚々とした振る舞いである。
兵士たちは、その天女のような美しさに、思わず息をのんだ。
知らぬが仏である。
「――あのー、すみません。
もしかして、
先に、肝油について金玉を追いかけてきた子分が、ひょこっと顔を出して、尋ねた。
「ええ、そうですわ」
「私たちを知っていますの?」
「親御さんたちが『おまえたちの仲を許すから、帰ってこい』と仰ってますよ。
あっしと一緒に、街に戻ってくれませんか?」
「まあ、うれしい!」
「これで私たち、晴れて一緒になれますわね!」
琳倫と宝砂は、手をとりあって喜んだ。
「曹家と賈家だって? すげえ金持ちの家じゃねえか」
「まったく、親分はぼんやりしてますね。
あんな美人が、そうそういるわけないじゃないですか」
「そうか。おれは美少年にしか興味がないからな」
自分が意識しているものしか目に入らない――これをカラーバス効果という。
お風呂に入って、赤いボールを湯に浮かべることではない。
「ま、これであっしは、両家からたんまり謝礼をもらえるってことですよ」
意外と、抜け目のない男であった。
琳倫と宝砂は、自分たちの愛を貫くため、駆け落ちをして家を飛び出していたのだった。
今、二人は公認の仲となり、赤い縄でしっかと結ばれることになった。
なんとめでたいことであろうか。
――だが……。
男三人の、恋の行方は?
待て、次回!
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