小説家に化け物棲むと人の言ふ
水野とおる
第1話 早乙女さゆりの旅立ち
早乙女さゆりは生まれて初めて汽車に揺られていた。
汽車は明治の時代ほど珍しいものではなくなったが、大正時代になった今でも本数はおろか路線も未だ少ない。今回の目的地に線路が通っていたことはさゆりにとって幸運であった。
さゆりは本当は一人で来たかったのだが、年頃の「ご令嬢」であるさゆりに、母はもちろん許さなかった。隣には昔なじみの
ハナは田舎出身でいまだになまりが抜けてないが、早乙女家にいる家人の中でも古株だ。母からも信頼され、またさゆりにとっても頼れる存在だった。
だが、そんなハナでもさゆりは自分の手荷物を持たせようとしなかった。
ハナが何度も申し出ても、さゆりは頑なに退けた。
今日のうちに何回もそのやり取りは続いていたが、最後にはハナは根負けして結局その荷物はさゆりに委ねることにした。
そして今もそれは足元に置かれて、さゆりは肌身離さずにいる。
快適な旅であるにも関わらず、さゆりの体はこわばっていた。
ハナとおしゃべりをしながらも、さゆりはその無骨な革鞄の中身を何度も確認した。
父からもらった古い鞄だったが、しっかりとその中身を守っていた。
中身は何枚かの原稿用紙、一冊の本と古ぼけた
本は新しいものだった。
作者はロドリゴ・フェルナンデ。
これからさゆりたちが会いに行く、憧れの人気作家だった。
ロドリゴはたくさんの作品を世に出した人気有名作家だ。その作品は子ども向けの冒険ものからご婦人が嗜む恋愛小説まで様々で、彼のことを皆「文豪の鬼才」と言っている。
今回の新作はまだ途中までしか読んでいないが、この美しい文体、歌うように紡がれる物語、そしておそらく行き着く悲しい結末…。
これはロドリゴが得意とする悲恋の作品だと思われた。
さゆりは汽車に揺られている間に全部読んでしまおうと持ってきたのだった。
読みかけていたページを開くと、ハナはそれを見てそれまで楽しそうに話していた口を閉じた。こうなるとさゆりが全くおしゃべりに付き合ってくれないということを、長年の付き合いから知っているからである。
さゆりはたちまち物語に吞み込まれ、あっというまに読み終わってしまった。
とても綺麗で悲しい物語だった。さゆりはあふれ出た涙をぬぐった。
汽車の窓の外をのぞくと日が天高く昇っていた。ほぼ日の出と同時に出発したにもかかわらず、昼の景色に変わっていることにさゆりは内心驚いた。
面白い作品を読むときはいつもこうだ。夢中になりすぎて外の世界と遮断された感覚になる。
ちらりと隣をみるとハナはよだれを垂らしながらぐうぐうと眠っていた。昨日は旅行の準備で、忙しかったのだろう。
もう少しで目的の駅に着くようだった。
さゆりは景色を眺めながら、本を鞄にしまった。中にある古ぼけた
(今回の新作もこの物語の続きではなかった…。ロドリゴ先生の作品はどれも美しくとても好きだけれど私はやはり一番この物語が好き…)
さゆりはロドリゴが住む邸宅に、何度も訪れたかつての日々に思いを馳せた。
当時近所に住んでいたロドリゴが、子供たちを集めて自作のおとぎ話を読み聞かせていた時期があったのだ。
その時に一度だけ試作だといって、読んでくれたこの作品…。
あまりにもこの作品が好きでしつこくロドリゴに続きを迫り、困り果てたロドリゴは苦し紛れにまとめたこの筆記帳を私にくれたんだっけ…。
当時を思い出して、さゆりは顔を赤らめた。
(今思えば、なんて迷惑な行動をとってしまったのでしょう…。先生からしてみれば私は懇意にしてくれる金持ちの子供で、むげにすることもできず、大変扱いにくかったでしょうに…)
あれから9年が経った。さゆりは今は立派なご婦人になれるように女学校に通っているが、自分はあの頃からちっとも変わっていないとよく思う。
さゆりはボロボロになっている筆記帳をいとおしく思いながら見つめた。
ずっとこの筆記帳を繰り返し読んでいる。まるでずっと片思いをしているかのように…。
さゆりは今度は数枚の原稿用紙に視線を映した。そして、キュッと目線を上にあげた。
さゆりの今回の旅には大きな目的があった。思い出の中の物語に別れを告げるため、だけではない。
母には表向きそう言ってきたが、さゆりには自分の未来を切り開くための秘策があった。
そのために親の
そしてロドリゴへ手紙を書き、了承を得て、準備をし、最近めっぽう厳しい母の許可を取って、ここまで来たのだ。
さゆりは深呼吸をすると、ぎゅっと鞄の取っ手を、両手で力強く持った。
汽車が目的の駅に着いたのだ。ハナを揺さぶって起こすと、降り逃さないよう足早に歩んだ。
さゆりは緊張しつつも、勇気と決意で満ち溢れてきた。
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