第21話 甘い思い出
「多分、コトコトの力に引っ張られて幻を見ちまったんだろ。ほら、帰るぞ」
ポンッと私の肩を叩いた彼はそそくさと帰路に着く。
だが、シイバがなんと言おうが私は彼女の姿を幻だとは思いたくなかった。それがどうしても腑に落ちなくて、結局眠る時まで気分が晴れなかったのだった。
* * *
翌日。昼休みのこと。
次の時間が音楽の授業だということもあり、私はひと足早く音楽室に来ていた。
お母さんのことから頭を切り替え、昨日おばあちゃんが口ずさんでいたメロディーを探るようにピアノの鍵盤を叩く。断片的なメロディーだったとはいえ、すんなりと頭に入る音だった。それにあの歌は聞いたことがあるような、ないような、妙な引っかかりを覚えた。
「んー、なんだろう……もう少しメロディーがあればわかりそうなんだけど……」
そう独り言を言いながら懲りずに鍵盤を叩く。
すると、音楽室の扉がガチャリと開いた。加賀野先生だ。
「あら、早いね」
楽譜を手にした加賀野先生はこちらを見てにこりと笑う。
「ところで、探していた曲はわかった?」
「うーん……これなのかなってメロディーは探れたのですが……」
「お、どれどれ。聞かせて」
加賀野先生がそう言ってくれたので、私はもう一度おばあちゃんが口ずさんでいたメロディーを弾いてみる。その途端、加賀野先生が「ん?」と眉をひそめた。
「ちょっと待って。それってもしかして……これかも」
そう言って加賀野先生は奥にある音楽準備室に入っていく。
音楽室に戻ってきた時、彼女は楽譜の冊子を手にしていた。ただ、背表紙が日焼けしているくらいとても年季が入っていて、開くとバラバラになってしまいそうだ。
「先生、それは?」
「この前棚の整理をしていたら出てきたの。昔いた音楽の先生が置いていったのかもしれないんだけど……ピアノ、借りていい?」
「あ、はい! 勿論!」
加賀野先生に席を譲ると、加賀野先生は冊子が崩れないようにそっと開き、譜面台に置く。そして真剣な眼差しで音符をじっと見つめ、静かに鍵盤に手を置いた。
彼女が鍵盤を叩いた途端、思わず息を呑んだ。メロディーといい、曲の流れといい、おばあちゃんが口ずさんでいた曲だ。そして、私もこの曲を聴いたことがあった。多分、誰かがピアノの演奏会で弾いていたのだろう。
「この曲……なんて名前なんですか?」
「この曲? この曲はね――……」
そのタイトルを聴いた時、私は目を見開いた。
今まで、おばあちゃんが口ずさんでいた曲が睦美ちゃんの言っていた曲だと言う確信はなかった。わずかな期待に賭けてこの曲の正体を探っていた。だが、今、こうして曲名を聞いた途端、頭の中にかかっていたもやが一気に晴れた。
「先生! 今日の放課後、音楽室を貸してください!」
「え? い、いいけど……何かあった?」
「はい。もしかしたら……睦美ちゃんを元気づけられるかもしれません」
真顔で加賀野先生に訴える。私の真剣さが伝わったのか、先生の表情も変わり、「ほんの少しだからね」と優しく微笑んだ。
放課後になってさっそく音楽室に来たのはいいが、ひとつ予定外のことが起こった。コトコトがここに来ていたのだ。
「どうするよ……こいつ、学校気に入っちまったんじゃねえの?」
半目になりながらシイバは自分の頭の上に乗っているコトコトに視線を送る。しかし、コトコトは今日も元気に「コトッ!」と手を挙げるだけで、シイバの呆れ具合に気づいていないようだった。
「いいんじゃないかな。コトコト、悪いことしないし……もしかして、私が今日ピアノを弾くことを知っていたのかも」
フフッと笑ってみせるが、実際のところは緊張していた。ちゃんと上手く弾けるか。睦美ちゃんが元気になってくれるか。不安材料はまだ拭えていない。
そうしているうちに睦美ちゃんが音楽室に入ってきた。表情は相変わらず暗いが、彼女もどことなく緊張しているように見えた。
「ニノちゃん……もしかして、曲がわかったの?」
「うん……多分、なんだけどね」
心臓の高鳴りを感じながらもピアノに向かい、借りた楽譜をセットする。
深呼吸をし、そっと頭の中で聴いたメロディーを流す。準備は整った。あとは、このメロディーに合わせて指を動かすだけだ。
「では、聴いてください……メンデルスゾーン『無言歌集』より、『甘い思い出』」
その題名を告げると、睦美ちゃんがハッとした。
そっとピアノの鍵盤を叩いでメロディーを奏でる。流れる旋律は優しく、どことなく淡い音色だった。
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