第18話 においがする

 だが、曲も半分に差しかかったところで音楽室の扉ががちゃりと開いた。


 驚いて思わず手を止める。てっきり加賀野先生だと思ったが、現れたのは麻生さんだった。


「あれ? ニノちゃん……それに、シイバ君も」


 意外な人物にお互い顔を合わせて目をぱちくりとさせる。


「あ、麻生さん……び、びっくりした……」


「睦美でいいよ。というか私もびっくりしたよ。音楽室からピアノの音が聞こえてくるんだもん」


 どうやら私のピアノの演奏が廊下に漏れていたらしい。あの鉄の扉も完全に防音できる訳ではないみたいだ。


「ご、ごめんね!」


「どうして謝るの? ニノちゃんのピアノ、凄く上手かったよ。ピアノ弾けたんだね」


「うん。前の街にいた時に習ってたんだ。こっちに引っ越すから辞めちゃったけど……」


 ピアノ教室は辞めてしまったが、ピアノを弾くのは今でも好きだった。ピアノの先生いわく私は音を聞き分けるのが得意と言えるほど耳がいいようで、音色を聴くだけで粗方弾くことができた。いわゆる「耳コピ」というものだ。だから、クラシックでもポップスでも楽譜がなくたって弾ける。私の数少ない特技だ。


「ねえ、もっと弾いて!」


 睦美ちゃんは目を輝かせて私に請う。前のめりになるくらい距離が近い睦美ちゃんにちょっと戸惑ったが、私は再び頭に浮かんだ曲を弾いた。


 私も久しぶりにピアノを弾けたのが嬉しくて楽しさのあまりずっと弾いていた。そして弾きすぎて加賀野先生に見つかり、「早く帰りなさい」と叱られたのは言うまでもないだろう。



 * * *



「あーあ、もっと聴きたかったなー」


 三人で帰る帰り道、睦美ちゃんは残念そうにしていた。


「いいなー。私もピアノが弾けるようになりたい」


 くるっとバレエのように回りながら睦美ちゃんは言う。ここは小さい町だからピアノ教室もなく、隣の町まで通わなければならないらしい。通っている人もいなくはないが、お金と労力は大変だと言う。


「私のおばあちゃん、昔ピアノを弾いていたんだって。本当はおばあちゃんに教えてもらいたいんだけど、おばあちゃんは『もう弾けないから』って教えてくれないの」


 そう言うおばあちゃんだが、睦美ちゃんが小さい時にはおばあちゃんもピアノを弾いており、それが彼女にとっては子守唄だったようでそのメロディーが心地よかったらしい。


 そんな話をしていると、睦美ちゃんは突然「あ!」と声をあげた。


「おばあちゃん!」


 噂をすれば影というか、私たちの向こう側から杖をついたおばあちゃんが歩いていた。彼女が睦美ちゃんのおばあちゃんのようだ。


「おかえり、むっちゃん。お友達かい?」


「うん。ニノちゃんとシイバ君だよ」


「そう、こんにちは。いつもむっちゃんと仲良くしてくれてありがとうね」


 にこりと笑うおばあちゃんに私も「こんにちは」とお辞儀する。穏やかな口調にほんわかした笑顔。これだけ彼女の優しさが伝わってくる。


「おばあちゃん、どこに行くの?」


「ちょっと買い物に行こうと思ってね」


「え、荷物持つの大変じゃん」


 そう言って睦美ちゃんはちらりと私たちを見る。真面目な彼女のことだからきっとおばあちゃんの手伝いをしたいと思っているのだろう。


「ばいばい睦美ちゃん。また一緒に帰ろうね」


 彼女に気を遣わせないようにそう言うと、睦美ちゃんも「またね」と目を細めた。


 睦美ちゃんとおばあちゃんに手を振った私たちはその場で彼女たちと別れた。


 だが、帰ろうとしてもシイバは小さくなる彼女たちの背中を見つめたまま動かなかった。もうすぐ逢魔時だからシイバこそさっさと帰りたがりそうなのに。


「どうしたの?」


 彼の顔を見ると、シイバはヒクヒクと鼻を動かしていた。どうやらにおいを嗅いでいるらしい。


「あのばあさん……におうな」


「におい? においなんて全然しなかったよ?」


「体臭じゃねえよ――『死』のにおいだ」


「え?」


 シイバの言葉に咄嗟に訊き返す。だが、シイバは無表情のまま、さらりと流すように私に告げた。


「多分あのばあさん……もうすぐ死ぬぜ」


 本当は「冗談だよね?」と言いたかった。しかし、その言葉を言うシイバがあまりにも冷静で、私は怖くてこれ以上彼に何も訊けなかった。


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