第5話 「だから言っただろ」

 ひょっとすると、道を間違えたのかも。


 そんなことあり得ないと思いながらも、わずかな可能性にもう一度スマホを取り出す。


 こうなったら、電話して道案内してもらうか、誰かに迎えに来てもらうしかなさそうだ。そうなると、大変申し訳ないのだけれども、背に腹は代えられない。


 ドキドキしながら画面をタッチして伯母さんに電話をかける。だが、出るどころか「プップップ……」と電子音が鳴るだけで電話自体が繋がらない。


「なんで⁉」


 戸惑いの声をあげながらスマホの画面を確認すると、圏外になっていた。


 伯母さんはちゃんと電波があると言っていたし、昨日だって伯母さんと連絡が取れていた。それが、どうして圏外になっているのだ。


 いや、それだけではない。ディスプレイの時刻も先ほど確認した時刻から一分も進んでいなかった。これはスマホの故障? それとも――


 摩訶不思議な出来事の連続に混乱していると、途端にぞくっと悪寒が走った。


「あー……」


 今、何か聞こえた。それも人間の声とは思えないような低い声で。かと言って動物の鳴き声には思えなかった。


 気のせい……だと、信じたい。


 そう思っていたのに、怯える私をあざ笑うかのように再び声がした。


「ああー」


 今度ははっきりと聞こえた。しかもさっきよりも声が近い。


 もしや、私の後ろに何かいる?


 心臓がバクバク鳴っているのも、緊張で体が震えているのも嫌というほどわかる。それでも、私は恐る恐る後ろを振り向いた。


 現れたその実体に私は悲鳴をあげた。


 そこにいたのは無論、人ではない。ただ、動物でもなかった。ドロドロに溶けた真っ黒なヘドロが生命を持ったようにうごめいている。しかもヘドロには目と口を模したような穴がついており、ヘドロなのにしっかりと手があった。


「ああー……ああー……」


 ヘドロが何かを訴えるように唸りながら私に手を伸ばす。その気色悪さと恐怖にすっかり腰が抜けてしまった私はそのまま尻もちをついてしまった。


「こ、来ないで……」


 身じろぎしながらヘドロの魔物から逃げようとする。しかし、立ち上がろうにも足にまったく力が入らない。


 そうしているうちに、ヘドロの魔物は私のほうへ寄ってくる。そしてその魔物が大きく口を開けた時、私は目を疑った。私の影がヘドロの魔物の口に吸い込まれているように見えたからだ。


「え⁉ 何これ!」


 戸惑って尻もちしたまま後ろに下がっても、魔物は私の影を吸い込むのをやめなかった。


 影が吸い込まれると同時にぞくっと寒気がした。それだけではない。頭が痛くなり、くらくらと眩暈めまいがする。具合が悪い。でも、こんなところで気絶なんてしたら、私はこの魔物に食べられてしまう。


 嫌だ嫌だ。死にたくない。


 助けて、お母さん。助けて、誰か……。


 そんなことを願いながら、私はあまりの恐怖にギュッと目をつぶった。


 ――突然突風が吹いたのは、まさにそんな時だった。


 突風が私の二つに結んだ長い髪を揺らす。


 あれだけ無風だったのにもかかわらずいきなり吹き出す風に魔物も驚いたように飛び上がり、後ずさりして私と距離を取る。


 いったい何が起こったのか。うろたえているうちに今度は私とヘドロの魔物の間に小さなつむじ風が吹いた。


「よお……何してるんだ、『影呑かげのみ』」


 聞き覚えのある声と同時に、つむじを巻いた風の中から人影がゆらりと動く。


 現れたのは他でもない。ついさっきまで家でくつろいでいたはずのシイバだった。


「残念ながら、そいつは琴子じゃないぜ」


 ほくそ笑むシイバに、『影呑み』と呼ばれた魔物の動きがピタリと止まる。


「シイバ……?」


 震えた声で彼の名を呼ぶ。すると、シイバはため息をつきながらゆっくりとこちらに振り向いた。


「……だから言っただろ。『おうまがどき』には気をつけろって」


 玄関前でもシイバに同じことを言われた。しかし、何度聞いたって『おうまがどき』の意味はわからない。


 それよりも、どうしてシイバはこんな恐ろしい魔物が目の前にいるのに冷静なのだろう。私なんて怖くて立って逃げることもできないのに、シイバは今だって「めんどくせー」と言いながらかったるそうにあくびをしている。


「シ、シイバ……その魔物って……それに、今、『琴子じゃない』って……」


 震えながら恐る恐る彼に尋ねると、シイバは「ああ?」と気怠そうにしながら魔物を指差した。


「こいつは『影呑み』。名前通り、影を呑んで魂を吸い取る『あやかし』だ」


「あ、『あやかし』……?」


「ああ。そんで俺も……」


 そう言いかけたところでシイバは目を閉じ、彼の周りにいきなり風が吹き始めた。


 渦を巻く風は彼の体を繭のようにまとう。


 そしてその風が止んだ時、もう私が知っているシイバではなかった。

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