03 歪んだ終焉
『一家の幸せを奪ったのは紛れもない、私の息子と私なのよ』
米おばあちゃんの棘を孕んだあの声音と、突き放すような言葉が、痛い。
自室に戻り、ベッドに腰かける。
絵画がプリントされた壁掛けカレンダー、今月、8月の絵画はクロード・モネの「ひまわり」だ。
赤ペンでぐるっと囲われた9の数字――ああ、なぜ忘れていたのか、あの惨劇が数十年前の今日に起こったことを――。
茶箪笥の上の写真立てを見る。幼少期、遊園地でカメラマンに撮影してもらった1枚。無邪気な笑顔を浮かべ私の手を握る姉と、母親の肩を抱き、ぎこちなくほほ笑む父親が写真に写っている。
数十年前の今日。
『ねえ、巡』
『なあに? お母さん』
『巡はラムネが好きでしょう?』
『うん!! 好きっ!! 大好きっ!!』
歓喜する巡お姉ちゃんにお母さんはにっこりと笑いかけ、ラムネを手渡した。が、それはラムネではなく、睡眠薬だったことをのちに知った。
『もっと食べる?』
『うん!! 食べる!!』
もっともっととラムネを――睡眠薬を欲しがる巡お姉ちゃんになんのためらいもなくそれを与えるお母さんと、隘路を運転するお父さん。
『ちなみに、オレンジジュースとりんごジュースもあるけど、巡はどっちが飲みたい?』
『オレンジジュース!』
『分かったわ』
そう言って、巡お姉ちゃんに紙パックのオレンジジュースを手渡し、それを受け取った彼女に対して『こぼさないよう、気をつけて飲むようにね』と注意を促す。
『はあい』
『ああ、充』
『ん?』
『さっきから何も飲んでいないでしょう? 麦茶を水筒に入れたから、喉が渇いたらこれを飲みなさい』
にこりと笑み、大容量サイズの水筒を手渡す。
『ありがとう』
『いいのよ』
水筒を受け取ったものの、喉が渇いていなかったので、これの麦茶を飲まなかった。
水筒を手渡して以後、私の様子をちらりちらりと窺うお母さん。「何かおかしい」お母さんの様子を見て、こう思ったと同時に不吉な予感に襲われた。
巡お姉ちゃんを横目で見ると、両手で紙パックのオレンジジュースを握りしめたままいつの間にか眠っていた。
『巡お姉ちゃん?……』
『充』
名を呼ばれ、ルームミラーに映るお母さんをおずおずと見る――と『巡は疲れているのよ』と窘め、にこりとほほ笑む。
そのほほ笑みにぞっとした刹那『ようやく休憩所に着いたぞ』とお父さんが明るい声で私たちに告げた。
休憩所の駐車場にバックで車を停めてからぐっと伸びをし『さて、外の空気を吸うとするか』と言い、フロントドアを開け、車から降りた。
『わ、私も降りる!』
『私はやめておくわ。巡の様子が気になるから』
そう言ってお母さんは車内に留まり、私は車から降りた。
“巡の様子が気になるから”
一向に起きる気配がない巡お姉ちゃんを気にかけるお母さん。当時の私は、娘を心から心配する、優しい母親を演じる彼女の発言を信じて疑わなかった。
車から降り、ベンチに座るお父さんの下に駆け寄り、彼の隣に座って空を見上げる。
『今日は青空だなあ』
『うん! 空、とっても青いね!』
『……なあ、充』
『ん?』
『充は今、幸せか?』
『うん! とっても幸せだよ! 巡お姉ちゃんがいて、お母さんもお父さんもいる! 本当に本当に幸せだよ!』
すると、次の瞬間『ごめんな……ごめんな……こんなお父さんで本当にごめんなっ!!……』と謝り、いきなり泣き始める。
『おっ、お父さん!?』
『っ……こんなことに……こんなことになるならっ!!……』
なぜ泣いているのか、お父さんが言うこんなこと、そのこんなことが一体何を指すのか、それが全く分からず、ただ狼狽えることしかできなかった。
感情表現が豊か、だけれども涙は見せない、そんなお父さんがどうして、どうして――。
『大丈夫だよ!! お父さん!! 大丈夫だから!!』
お父さんの背中を摩り、彼を必死に慰める。『……充にみっともない姿を見せてしまったな……』
そして、次第に落ち着きを取り戻し、反省したようにぽつりとつぶやき、半袖で涙を拭い、ベンチからすっくと立ち上がる。
『海、奇麗だな』
『奇麗だね、きっといろんな魚が泳いでいるんだろうなあ』
『ああ、いろいろな人がいるようにきっといろいろな魚がここで泳いでいるに違いないよ』
あの日、お父さんと一緒に見たマリンブルーの海、それは残酷なくらい綺麗だった。
『さて、2人の所にそろそろ戻るとするか』
『そうだね』
ベンチを離れた私たちは駐車場に戻り、車に乗った。
巡お姉ちゃんは相も変わらず眠ったままであり、お母さんまで眠っている。
あんなに元気だった2人が、殊に巡お姉ちゃんがなぜいきなり眠りに落ちたのか。また、水筒を手渡したあと、私の様子をちらちらと窺っていたお母さん。
寝ている2人と泣き出すお父さん――違和感が不信感に変わり、恐怖心に変わる。
『ね、ねえ、お父さん』
『ん?』
『お母さん、寝ちゃったね』
探りを入れる、これを目的にさりげなくこの話題を振る。
『ああ、そうだな。早紀は疲れているんだろう。俺たちのために毎日欠かさず美味しいご飯を作ったり、俺の仕事を支えてくれたりと早紀はとにかく頑張り屋さんだからな』
しかし、動ずることなくこの話題をさらりとかわした。
『……うん』
『よし、行くか! あっ、充、シートベルトを着用したか?』
『あっ』
指摘されてシートベルトの存在に気づき、慌ててこれを着用する。
『で、できたよ』と伝えると、私がこれをきちんと着用したかどうかを確認し、自身もこれを着用する。
『よし、発進するぞ。ああ、目的地までもうしばらくかかるからな』
『はあい』
のち、休憩所を離れた車は、くねくねとした道をゆっくりと走行し始める。
時間が経つにつれていやあな予感が募る。何か目論見があるのではないか。後には引き返せない、このような目論見が――。
と、速度がいきなり上がり、ひやりとする。
『おっ、お父さん!?』
とっさに声をかけるものの返事はなかった。
スピードメーターを直ちに見ると、速度がいつの間にか80キロを超えている。速度はさらに上がり、ついに100キロに到達した。
『お父さん!!!!』
叫んでも無駄だった。
ガン、という耳を劈くような衝撃音――車が何かに、ガードレールに勢いよくぶつかり、これを突き破ったことを理解するまでに約数秒かかった。
『きゃあっ!!!!』
『っ!!……』
ごつごつとした崖にぶつかりながら海に転げ落ちてゆく車。車内のあちこちに体を激しくぶつけ、あの瞬間、死ぬのではないかという恐怖に襲われた。
しばしして、音が止んだ。
『痛いっ……』
よほど強い衝撃を受けたのだろう。体に激痛が走り、顔を上げることさえままならない。
あれ、と異変に気づいたのは数秒後。
しん、と異様なほど静まり返った車内、まるで私だけがここに“存在”しているかのようで――このことに不安を抱く。
もしかしすると、と思う、が、このもしかするとが的中した場合、私は……。
ドキドキと騒がしい胸、いつもの明るい声で『充!』と名前を呼んでくれない巡お姉ちゃん……。
『ひっく……どうして……どうして!!……』
すると『何だあれは!!』と誰かが騒ぐ声が聞こえた。
『きゃあっ!! 事故よ!!』
『すぐに110番だ!!』
事故、110番――。
『巡、お姉ちゃん……』
巡お姉ちゃんの手の甲に手を重ねる。気のせいだろうか、巡お姉ちゃんのそれは冷たくて、涙が込み上げた。
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