01 紺野先輩と私

 ヒーリングミュージックが流れる待合室、前方に設置された大型テレビに映るのは自然が豊かな場所を走行する蒸気機関車の映像だ。

 ここは美浜大学医学部附属病院の精神科の待合室。

 待合室のソファベンチに座る人々の様子を窺うと、漏れなく沈んだ表情で大理石の床を見つめている。

 人生が上向いている時は上を向ける、だけれども人生が下向いている時は上を向けない、これが人生だ。

 番号札をぎゅっと握りしめる。いつもなら診察室にすぐに呼ばれるのに、今日はそこに呼ばれるまでがやけに長く感じられる。

 早く、早く――と診察室の出入口に目を向けたちょうどそのとき、陰気な雰囲気を放つ、つば広帽子を目深に被った、ロングヘアの女性がそこから出てきた。

 その傷んだ髪の毛と適当なコーディネート、彼女には恐らく“自分を愛する力”が残っていない、残されていないのだろう。

 彼女から視線を逸らし、テレビに目を遣る――が、頭から離れない彼女の姿。

 あのように“自分を愛する力”が残っていない、残されていない人々がいる。こうした人々は、ここを受診し、これを取り戻そうとする。彼女は諦めているようで諦めていない。諦めていないからここを訪れる。

 彼女は、強い。

 テレビの映像が蒸気機関車からこれの車窓に切り替わったタイミング「番号札が8番の患者様、診察室にお入りください」と私の番がついに回ってきた。

 番号を呼ばれた後、ソファベンチから立ち上がり、受付カウンターの看護師さんに番号札を手渡したのち、診察室のドアをノックする。

 と「どうぞ」という主治医の返答。それから、診察室のドアをゆっくりと開けて診察室に入り、ここのドアを再びゆっくりと閉め、主治医の方へくるりと向き直る。

「こんにちは、先生」

 カチッ、ボールペンをノックし「ああ、呉島くれしまさん」と回転チェアーを回転させ、私と対面し「こんにちは」とやわらかに目を細める。

 ぺこりとお辞儀し、回転椅子に腰を下ろす。

「呉島さん」

 主治医――紺野こんの先生に名を呼ばれ「は、はい」とドキドキしながら、それに返答する。

 と、ボールペンをデスクの上にそっと置き「PTSD、これを治療するにあたって何より大切なのは、薬物療法ではなく、認知行動療法なんですよ」と説明する。

「は、はい……」

 忘れたい過去、あの日の惨劇と生き残った、生き残ってしまった私。私はどうして、どうして生きているのか。私はあの日、どうして、どうして生き残った、生き残ってしまったのか。

 お父さん、お母さん、じゅんお姉ちゃん――。

「っ……せん、せい……せんせいっ!!……」

「大丈夫です、焦って寛解を目指す必要はありません。ゆっくりで、ゆっくりで構わないんですよ」

「はいっ!……はいっ!……」

「……ちなみに」と切り出し、縦長の窓に映る、青々と茂る木々に目を遣る。

「呉島さんのお父様が教授を務めておられた美浜大学が僕の母校なんですよ」

「……美浜、大学……」

「ええ」

「だから、呉島さんの話を聞く度に呉島教授に対して罪悪感を抱くんですよ」

「いえ、父はそんな立派な……」

 こう否定した直後、紺野先生の顔に切なさを孕んだ笑顔が浮かぶ――が、それは瞬く間に消えた。

「ともかく、呉島教授の息女を懸命にサポートすること、これが僕の使命です」

「先生……ありがとうございます……」

「いえいえ、それはさておき、新しく追加したレクサプロは効いていますか?」

「はい、効いています」

「なら、安心しました」

 そう洩らし、安堵の表情を浮かべて処方箋に目を遣る。

 処方箋に印字された、いくつもの薬剤名――が、これでも減らせるところまで減らし、減らしてもらった。

 処方箋に視線を注ぐ私に気づいたのだろう、キーボードのキーをカタカタと打ち、電子カルテに診療の経過を記入しながら「今は減薬を目指す必要はありません。それよりも当初の処方量から現在の処方量にまで減らせたご自分を褒めてあげてください。処方量は増やしたり、減らしたりを繰り返しながら、量を調節する、つまり、バランスなんです」と諭す。

「……はい」

 不意にキーを打つ手を休め「呉島さんは十分、十分すぎるほど頑張っておられますよ」と褒め、再びキーをカタカタと打つ。

「ありがとう、ございます……」

 紺野先生の言葉は、その一つ一つが魔法だ。

「さて」

 電子カルテに診療の経過を記入し終え、私に向き直る。

「何かあったらすぐに来院してください。緊急の場合は病院に電話してくださって構いませんから」

「分かりました」と伝え、回転椅子から立ち上がる。

「本当に本当にいつもありがとうございます」「いえいえ、こちらこそ」

「それでは、失礼いたします」

 そして、診察室を出、待合室に踵を返し、そこのソファベンチに座り一息つく。

 以後、受付カウンターで処方箋を受け取り、薬局に行く。そこで処方薬をもらったあと、父方の祖父母の家に帰宅する。

 これが診察を終えてからの一連流れだ。

 自立支援医療制度を活用しているので、上限月額が2500円と負担なく通院を継続できている。

 流れ続けるヒーリングミュージック、待合室の大窓に目を向けると、雲ひとつない青空が視界いっぱいに広がる。

 今は夏。

 それをぼんやりと眺めていたとき「呉島さん、呉島みつるさん」と受付の看護師さんに名を呼ばれる。

「はっ、はいっ!!」

 ソファベンチから勢いよく腰を上げ、小走りで受付カウンターに向かう。

「処方箋、自立支援医療、診察券と保険証です。お大事に」

「ありがとうございます」

 返却されたこれらを財布とポーチに収納する。のち、待合室を後にし、病院を出て、病院に近接する薬局に向かったのだった。

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