真赤、――罪深き眷属
七條礼
よわい、やさしい、さびしい神様
禁忌
中学生だった頃、祖父母に無断で物置部屋に入った。
ほこりっぽい臭いと、カーテンを閉め切った、陽が射さない、陰気な空気が滞留する物置部屋を“呉島家”だと思ったことを今でも鮮明に覚えている。
壁に立てかけられ、横一列に並べられた、父親、母親と姉の遺影、これらが私に哀しげな微笑を、今にも泣き出しそうな微笑を投げかける。
あの日、生き残った、生き残ってしまった私――。
本来なら私も――。
『っ……』
まるで綿雪のように遺影の上に積もったほこり、これをティッシュで拭う。
ティッシュで埃を拭ったのち、ティッシュをくしゃくしゃにして、これをブレザーのポケットに突っ込む。
部屋を歩き回る――と、黄ばんだ襖が視界に入る。
襖をサッと開けると、ビニール紐で括られた絵本、学術書や文庫本といったたくさんの蔵書が中に所狭と置かれている。
学術書、それは政治哲学にまつわるものだ。
父親の職業は大学教授、生前、
何か面白そうな蔵書があれば、――その時、1冊のとある書物が私の目を引いた。タイトルは『雨の玉川心中 太宰治と愛と死のノート』
“これを読みたい”
“これを読まなければならない”
なぜだろうか。このように思った。
周りをぐるりと見回し、ハサミを探す、と、文机の置かれた、使い古されたそれを見つけた。誰が使っていたのか。
文机の前にやってきて、ハサミを手に取り、手にしたこれをまじまじと見て、気づく。この鋏は、幼稚園児が使うサイズ、もしくは、小学校低学年が使うサイズのハサミであることに――。
私はこのハサミを一度も使ったことがない――ということは、これは姉のものだ。
胸が締めつけられる。姉がまるで存在を主張しているかのようで、彼女がまるで意図的にこのハサミをこの場所に置いたかのようで、うまく呼吸ができない。
『おねえ、ちゃん!……』
ハサミを強く握りしめ、襖の前に向かう。そこにやってきて、ハサミでビニール紐をちょきんと切り、学術書と学術書の間に挟まった件の本を抜き出し、畳の上に置いた。学術書が分厚いため、これを抜き出すのに一苦労した。
そして畳の上に座った瞬間、多量のほこりが粉雪のごとく舞い、ゴホゴホと咳き込んでしまう。
あの日、この部屋は文字通り“封印された部屋”なのだと思った。
咳が鎮まる。
ブレザーの袖で本の表紙のほこりを拭い、これをじっくりと見る。
『雨の玉川心中 太宰治と愛と死のノート』
著者名は山崎富栄。
各ページに貼られた付箋――本をゆっくりと開き、付箋が貼られたページを開くと、赤色のボールペンで傍線が引かれている。
真っ直ぐに引かれた傍線、持ち主の几帳面な性格が伺える。
傍線が引かれた文章に目を通す。
“先生は、ずるい
接吻はつよい花の香りのよう
唇は唇を求め
呼吸は呼吸を吸う
蜂は蜜を求めて花を射す
つよい抱擁のあとに残る、涙
女だけしか、知らない
おどろきと、歓びと
愛しさと、恥ずかしさ
先生はずるい
先生はずるい
忘れられない五月三日”
“十一月十七日
私の大好きな、
よわい、やさしい、さびしい神様。
世の中にある生命を、わたしに教えて下さったのは、あなたです。
今度もわたしに教えて下さい。
あなたのように名前が出なくてもいいのです。
あなたのみこころのような、何か美しいものを、み姿のかげに残しておくことができれば……”
“十二月五日
女ひとりというものは、佗しいものだなあ。
お目にかからない日がつづくと、もう駄目になってしまいそう。
良人として、妻としての生活に入るのが、私達の本当の姿だったのかも分かりません。
「妻や子供と別れて、君と一緒になってみても、周囲からの攻撃は、君を一層苦しい立場にするだろうしなあ」
「いいえ、そんなこと、わたしにはできません。奥様に申し訳ありません。わたしはこのままの形式でいいのです。本当に、あなたの仰言るように、十年前にお逢いしとうございました」”
“恋をしているときは楽しくて、愛しているときは苦しい。
十二月十一日~二月二十二日”
“十二月十一日
わたしのこういう生活が、
あなたにとっての喜びであれば、それがわたしの慰めですの。
二人の心もちの結ばれは自然です。けれども二人の生活は不自然です。わたしは結婚しとうございます。
二人が十年前にお逢いしていたのなら、なんにも言われることもなく、周囲の人達も泣かないでこんな幸せなことはなかったことでしょうに。”
“残した人に愛情があったということ程、いたましいことはない。”
“お互いをすっかり知り合うために、
心のすみまで打ち明け合っている”
ぱたん、本を閉じた。
この気持ちをどのように表現すればいいのか、言語化できない“何か”が凝縮されたこれを読んだ、読んでしまった気持ちをどのように表現すればいいのか。
壁を見つめ、ぼんやりとしていたとき、部屋の襖が勢いよく開く。はっとして即座に振り返ると、般若の形相で私の顔を見る祖母と目が合う。
『えっと……』
ドキッとして、額に脂汗がにじむ。
『ここを出なさい、今すぐに』
なぜそんなに怒っているのか、その理由が分かる一方、分からないままに件の本を胸に抱え、畳の上から立ち上がり、部屋を出る。
部屋を出て、祖母の横を通り過ぎる矢先『それを読んでしまったのね……』と彼女が諦めにも似た言葉を発し、これを危うく落としそうになった。
『……ごめんなさい』
謝る、しかし、返事はなかった。
――あの日、祖父母に無断で物置部屋に入り、“禁忌”を犯した私は、以降から呉島という眷属の罪を背負い生きることになる。
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