第26話 バックハグ

「あ、やば、今日も話してたらこんな時間じゃないですか」


 俺は食器を台所に置きながら時計をチラ見して言った。


「ほんとだ。もうこんな時間かぁ……」


「さっさと洗い物済ませないと、また今日も片付ける時間が……」


 そう言って俺がスポンジに付けた洗剤を泡立てていると、お姉さんがふわっと後ろから俺の腰のあたりに抱きついた。


「……え?」

 

 驚いて振り返ると。


「ねぇねぇ、なんちゃん」


「はい……?」


 お姉さんは俺に抱きついたまま、話し始めた。


「今日は、洗い物、このままなんちゃんにお願いしてもいい?」


 まったく、この人は。昨日散々抱きつく依頼してもいいかとか聞いてきてたくせに。実際に抱きついてくる時はいきなりなのだから。


「まぁ、いいですけど。部屋片づける時間、なくなっちゃいますよ?」


 平静を装って言いながら、俺は洗い物を進める。けど、内心落ち着いているはずはなく……


 くそ―なんだよこの状況! いきなり抱きつくとか、ズルくないか。本当にこの人は、俺の両手が塞がるとすぐイタズラしてくるんだから。


 というかこれってイタズラ越えてないか。そもそもイタズラってなんだ。いや、確実に俺の心拍数上がってるからイタズラか。


 ……抱きつかれてるのは嬉しいけど。俺がドキドキしてるのは知られたくない。


 そんなことを思いながら、出来るだけ平静を装って淡々と洗い物を進める。


「……だって。もうちょっとこうしていたくなっちゃった」


「……はいはい。じゃあ、そのままそうしててください」


 二人分の食器くらい、と思わせて、今日はパスタを茹でた大きな鍋や、パイを焼いたオーブンの天板なんかもある。意外と時間がかかるのは、仕方がないことだ。そんな言葉を免罪符に、一向に洗い物が捗らない。


「……抱きついちゃったけど、文句言わないんだ」


「……まぁ。別に。いやじゃないですし」


「そっかー。いやじゃないんだー。ふふー」


 そう言ってお姉さんは嬉しそうにさらに俺の背中に自分の頬を押し付けた。

 さっきまでより密着度が上がって、背中にやたら柔らかい感触がする。


 え、何、何なのこの状況。


 ……俺、この状況で食器洗ってて、皿割ってしまわないか不安だったりもするんだけど。でも、この状況から抜け出したくない気もしたりして。やたら心臓が煩くて、やっぱり洗い物が捗らない。


「ねぇ、なんちゃん?」


 そんなことを考えていると、抱きついたままのお姉さんが後ろから話し掛けてきた。


「はい?」


「見た目全然平気そうなのに……ドキドキ、してるね♡」


「なっ!!」


 背中側はお姉さんの耳で、心臓側はお姉さんの手で俺の鼓動を悟られていて、言い訳もできず、恥ずかしさが一気に頭のてっぺんに向かって駆け上がっていく。


「あーなんちゃん照れてるー。可愛い♡」


 言いながらお姉さんは、さらに強く俺に抱きついた。


 本当にこの人は。俺を照れさせることが好きなようだ。かと言って、俺も俺で嫌ではない、むしろ嬉しいと思ってしまっているのだけど。


「そ、そりゃ。照れもしますよ。後ろから抱きつかれたりしたら……!!」


「へへ。でも、逃げないんだー?」


「まぁ、……仕事、ですし?」


「……仕事、だもんね♡ ねぇなんちゃん」


「はい」


「……『依頼』、してもいい?」


 まさかのお姉さんの言葉に、思わず手が止まる。『依頼』という言葉を飛ばして抱きついてきたというのに、一体なんの『依頼』をしてくると言うんだろう。


「……なんですか?」


「今日の時間……このまま延長……したいな」


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