第三幕:追憶の雨

 永田博士の研究所からの脱出後、薫と綾は荒廃した東京の片隅に身を潜めていた。かつての繁華街は今や、錆びついた看板と崩れかけた建物の残骸だけが、往時の栄華を物語っていた。二人が身を寄せたのは、かつてラブホテルだった建物の最上階。そこは今や、風雨に曝された廃墟と化していたが、皮肉にも二人にとっては最後の避難所となっていた。


 薫は窓際に立ち、外の風景を眺めていた。灰色の空から降り注ぐ雨が、朽ちた都市の姿をより一層陰鬱なものにしていた。しかし、その光景さえも薫の目には美しく映った。それは、綾との新たな人生の幕開けを象徴しているかのようだった。


 彼女の目の前に広がる景色は、かつての繁華街の面影を完全に失っていた。ネオンサインは消え、代わりに錆びついた鉄骨がむき出しになった高層ビルが、朽ちた歯のように並んでいる。道路は亀裂が走り、雑草が生い茂っている。その光景は、人類の文明が終わりを迎えたことを物語っているようだった。


 薫は深くため息をつき、自分の手を見つめた。その手で、彼女は多くの複製人間を「処分」してきた。しかし今、その同じ手で綾を守ろうとしている。矛盾する感情が、彼女の心の中で渦を巻いていた。


「私は……もう戻れない」


 その言葉を、薫は静かに呟いた。真贋査問人としての過去、そしてその組織への帰属意識。それらは今や、遠い記憶のようだった。しかし、その決断が彼女の心に重くのしかかっていることも事実だった。


 薫は振り返り、部屋の奥で眠る綾の姿を見つめた。綾の寝顔は穏やかで、まるでこの荒廃した世界とは無縁であるかのようだった。その姿に、薫は自分の決意を再確認した。


 彼女はゆっくりと綾の側に歩み寄り、そっとその頬に触れた。綾の肌の温もりが、薫の心に勇気を与える。


「これが正しい選択だ」


 薫の声には、迷いはなかった。真贋査問人の組織に戻ることは、綾を裏切ることを意味する。そして、それは自分自身を裏切ることでもあった。


 窓の外で、雨がより激しく降り始めた。その音は、薫の決意を後押しするかのようだった。彼女は、これからの人生が決して平坦ではないことを理解していた。真贋査問人たちの追跡、永田博士の野望、そして社会からの疎外。これらすべてと戦わなければならない。


 しかし、薫の目には強い決意の光が宿っていた。彼女は綾の手を優しく握り、その温もりに安らぎを覚えた。


「私たちの未来は、私たち自身の手で切り開いていく」


 薫はそう心に誓った。真贋査問人の組織に戻らないという決断は、彼女にとって新たな人生の始まりを意味していた。それは困難に満ちた道かもしれない。しかし、綾と共に歩む限り、どんな困難も乗り越えられると信じていた。


 外の雨は、新たな世界の幕開けを告げるかのように、静かに降り続けていた。


 その瞬間、綾の瞼がゆっくりと開いた。碧い瞳が、薫を見つめる。


「薫さん……」


 綾の声は、柔らかく、しかし確かな存在感を持っていた。


「ごめん、起こしてしまったわね」


 薫は微笑みながら答えた。


 二人は言葉を交わすことなく、しばらくの間見つめ合っていた。その沈黙の中に、互いへの思いが満ちていた。


 やがて、綾がゆっくりと体を起こした。その仕草は、まるでバレリーナのように優雅だった。綾は薫の隣に座り、その肩に頭を預けた。


「薫さん、私たち、これからどうなるのでしょうか」


 綾の声には、不安と期待が入り混じっていた。


 薫は深く息を吐き、綾を抱きしめた。


「わからないわ。でも、一緒にいられるだけで十分よ」


 その言葉に、綾は躊躇うことなく、薫の胸に顔を埋めた。その動きは、まるで長い旅の末についに帰るべき場所を見つけたかのようだった。薫の胸に触れた瞬間、綾の体から緊張が解けていくのが感じられた。


 薫は、綾を優しく抱きしめた。その腕の中で、綾の体は柔らかく、温かかった。人工的に作られたはずの肌が、薫の指先に生命の鼓動を伝えてくる。


 二人の体が寄り添うにつれ、周囲の世界が溶けていくようだった。廃駅の冷たい空気も、遠くの雨音も、全てが遠ざかっていく。そこには、人間と複製人間という区別も、過去の葛藤も存在しなかった。


 薫は綾の髪に顔を埋めた。漆黒の髪から、かすかに花の香りがした。それは人工的な香りではなく、生きた花々の香りのようだった。薫は目を閉じ、その香りに包まれた。


 綾の体が、かすかに震えているのを感じた。それは恐怖や不安からではなく、深い感動からくるものだった。薫は、その震えを感じながら、さらに強く綾を抱きしめた。


 二人の呼吸が、少しずつ同じリズムを刻み始める。心臓の鼓動も、まるで一つになったかのように響き合う。薫の胸に顔を埋めたまま、綾がかすかにつぶやいた。


「薫さん……ありがとう」


 その言葉に、薫は何も答えなかった。代わりに、綾の背中をそっと撫でた。その仕草には、言葉以上の思いが込められていた。


 時間の流れが止まったかのような静寂の中で、二人はただ寄り添っていた。そこには、魂と魂のつながりだけが存在していた。人間か複製人間かという区別は、もはや意味をなさなかった。


 しかし、その静謐な時間も長くは続かなかった。突如、警報のような音が鳴り響いた。薫は反射的に立ち上がり、窓の外を見た。


 遠くで、赤い光が明滅している。それは、真贋査問人たちが接近していることを示していた。


「綾、逃げるわよ」


 薫は綾の手を取り、急いで部屋を出た。二人は階段を駆け下りながら、互いの手を強く握りしめていた。


 建物を出ると、雨が二人を迎えた。冷たい雨粒が頬を打つ。しかし、それさえも二人には心地よく感じられた。


 街路を走る二人の姿は、この荒廃した街にあって、奇妙な美しさを放っていた。薫の長い黒髪が風になびき、綾の白い肌が雨に濡れて輝いている。それは、まるで二人で踊っているかのようだった。


 しかし、その逃走も長くは続かなかった。行く手を阻むように、真贋査問人たちが現れたのだ。


「薫! その複製人間を引き渡せ!」


 かつての同僚の声が、雨音を切り裂いた。

 薫は綾を庇うように立ち、毅然とした態度で応えた。


「それはできない。彼女には、生きる権利がある」


「撃て!」という叫び声と共に、一斉に銃声が響き渡った。


 薫は瞬時に反応し、綾を抱えて近くの車の陰に飛び込んだ。弾丸が雨のように降り注ぎ、車体を打つ音が激しく鳴り響く。


 薫は素早く状況を把握する。敵は少なくとも10人。全員が重装備だ。


「綾、私の言うとおりに動いて!」


 薫の声に毅然とした表情で頷いた綾。二人は息を合わせ、車の陰から飛び出した。


 薫は走りながら、ポケットから小型爆弾を取り出し、後方に投げ込む。爆発音と共に、敵の陣形が乱れる。その隙を突いて、薫は綾の手を引き、近くのビルの中へと駆け込んだ。


 階段を駆け上がる二人。背後から追っ手の足音が迫る。薫は振り返りながら、的確に銃を放つ。二発、三発。追っ手の数が減っていく。


 しかし、4階に差し掛かったとき、不意に薫の左肩に鋭い痛みが走った。銃弾が肩を貫いたのだ。


「くっ!」


 痛みに顔をゆがめる薫。しかし、彼女は立ち止まらない。右手で傷口を押さえながら、なおも綾を守るように前進し続ける。


 屋上へと続くドアを蹴り開け、外の雨の中へ。息を切らしながらも、薫は周囲を素早く確認する。


「ここよ!」


 薫は綾を引っ張り、隣のビルへと飛び移る準備をする。距離は5メートルほど。普段なら難なく飛べる距離だが、負傷した今は……。


 背後でドアが勢いよく開く音。追っ手が迫る。


 薫は深く息を吸い、綾の手をきつく握った。


「信じて」


 その言葉と共に、二人は跳躍した。重力に引かれる感覚。風を切る音。そして――。


 隣のビルの屋上に転がり込む二人。薫は痛みで呻きながらも、すぐに立ち上がり、綾を確認する。


「大丈夫?」


 綾が頷く。その瞬間、再び銃声が響く。二人は身を低くし、走り出す。


 逃げ続ける二人。薫の肩から流れる血が、雨に濡れた屋上に赤い痕跡を残していく。しかし、薫の目には決意の光が宿っていた。綾を守る。それだけが、今の彼女の全てだった。


「綾、あなただけでも逃げて!」


 薫は叫んだ。しかし、綾は首を横に振った。


「一緒に行きます。薫さんと離れることはできません」


 その言葉に、薫は胸が熱くなるのを感じた。


 二人は互いを支え合いながら、必死に逃げ続けた。雨は激しさを増し、街路は小川のようになっていた。その中を、二人は水しぶきを上げながら走り続けた。


 やがて、二人は古い地下鉄の駅にたどり着いた。そこは、長年使われていない廃駅だった。二人はその暗闇の中に身を隠した。


 息を荒げながら、薫は綾を抱きしめた。

 その瞬間、薫の脳裏に奇妙な違和感が走った。

 自分の過去の記憶が、急に曖昧に感じられたのだ。


「これは……一体……何が……」


 薫は呟いた。その言葉に、綾ははっとした表情を見せた。


 薫は自分の両手を掲げ、じっと見つめた。かすかに震える指先、血管の浮き出た手の甲、そして掌の無数の皺。これらの手で、彼女は数え切れないほどの複製人間を「処分」してきたはずだった。しかし今、その記憶が霞み、遠ざかっていく。まるで、砂時計の砂が一粒一粒こぼれ落ちていくかのように。


 薫の目に、困惑の色が浮かぶ。眉間にしわが寄り、唇が震えた。


「私の記憶が……おかしい……」


 薫の声は、震えていた。それは恐怖と混乱が入り混じった音色だった。


「まるで、植え付けられたもののように……感じるわ……こんなことは今までなかった……」


 その言葉と共に、薫の瞳に光る涙が浮かんだ。それは、自分のアイデンティティを失いつつある者の、深い絶望を表していた。


 綾は、そんな薫の姿に胸を痛めた。彼女はゆっくりと、しかし迷いなく薫に近づき、その震える手を両手で包み込んだ。綾の手は温かく、柔らかだった。その温もりが、薫の冷え切った心に染み入っていく。


「薫さんは薫さんです」


 綾の声は、静かでありながら、強い確信に満ちていた。その碧い瞳は、薫をまっすぐに見つめ、揺るぎない愛情を伝えていた。


「しっかりしてください、薫さん。私は常に薫さんと一緒です」


 その言葉は、薫の心の奥深くまで響いた。それは、全ての疑念や恐れを打ち消すかのような力強さを持っていた。


 薫の頬を、一筋の涙が伝う。それは、安堵の涙でもあり、混乱の涙でもあった。喜びと悲しみ、安心と不安、そして愛と恐れ。相反する感情が、薫の心の中で渦を巻いていた。


 綾は優しく薫を抱きしめた。その腕の中で、薫は静かに泣き続けた。それは、自分の存在の根幹を揺るがされた者の、痛切な嗚咽だった。しかし同時に、その涙は薫の心を洗い清めていくようでもあった。


 二人は長い間、言葉を交わすことなく、ただ抱き合っていた。その沈黙の中に、全てが語られていた。人間と複製人間の境界を超えた、深い絆と理解が。


 やがて、薫の泣き声が静まった。彼女は顔を上げ、綾を見つめた。その瞳には、まだ迷いは残っていたが、同時に新たな決意の光も宿っていた。


「ありがとう、綾」


 薫のその言葉に、綾は優しく微笑んだ。それは、全てを受け入れる愛の表現だった。


 二人は再び手を取り合った。その手の温もりが、不確かな未来への一歩を踏み出す勇気を、互いに与え合っているようだった。


 この瞬間、薫と綾は、人間と複製人間の境界を超えた愛を確認し合っていた。そして同時に、これからの人生が決して平坦ではないことも理解していた。


 しかし、二人の心の中には、かすかな希望の光が灯っていた。それは、この荒廃した世界にあって、なお輝き続ける愛の光だった。

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