第二幕:揺らぐ境界

 霧雨の夜から数日が経過した。東京の空は相変わらず鉛色に覆われ、かつての輝きを失った超高層ビル群が、まるで朽ちた巨人の骨のように立ち並んでいた。その荒廃した景色の中で、鈴木薫は自らの心の葛藤と向き合っていた。


 薫のアパートは、かつての高級マンションの一室だった。しかし今や、その華やかさは失われ、剥がれ落ちた壁紙と錆びついた金属フレームが、時代の移ろいを物語っていた。彼女は窓辺に立ち、外の風景を眺めながら、綾との出会いを反芻していた。


 綾の姿が、薫の脳裏に鮮明に浮かび上がる。その美しさは、この灰色の世界にあって、まるで一輪の花のように鮮やかだった。綾の碧眼、漆黒の髪、そして白磁のような肌。それらは薫の心に深く刻み込まれ、消えることはなかった。


 薫は自分の手を見つめた。その手で、彼女は多くの複製人間を「処分」してきた。しかし今、その手が震えている。任務への疑念と、綾に対して湧き上がる感情が、薫の心を激しく揺さぶっていた。


「私は……何をしているんだろう」


 薫は呟いた。その声は、部屋の静寂の中で空虚に響いた。



 東京の廃墟と化した工業地帯の一角に、一見すると朽ち果てた工場が佇んでいた。錆びついた鉄骨がむき出しになり、割れた窓ガラスからは風が吹き抜けているように見える。しかし、この外観は巧妙な偽装に過ぎなかった。


 内部に一歩足を踏み入れると、そこは最先端技術の結晶とも呼べる研究施設だった。真っ白な壁と床、青く光る LEDライト、そして無数のホログラフィック・ディスプレイが浮かび上がる。空気中には消毒液の香りと、かすかな電気音が漂っている。


 中央実験室では、永田晶子博士が忙しく作業を続けていた。彼女の白衣は完璧に清潔で、その下から覗く黒いタートルネックは知的な雰囲気を醸し出していた。しかし、その鋭い眼光には狂気に近い執念が宿っていた。


 博士の前には、人体の三次元ホログラムが浮かんでいる。その映像は、筋肉の一本一本、神経の走り方、さらには細胞レベルまで精密に再現されていた。博士はホログラムを操作しながら、次々と数値を入力していく。


「完璧だ……これで人間と全く区別がつかない」


 博士の声は、静かながらも深い満足感に満ちていた。彼女は、机の上に置かれた政府への提案書に目を向けた。その表紙には「Project Evolution」と大きく記されている。


 永田博士は椅子から立ち上がり、実験室の奥にある特別な部屋へと向かった。ドアを開けると、そこには透明なカプセルが並んでいた。各カプセルの中には、様々な成長段階の人体が浮かんでいる。


 博士は一つのカプセルの前で立ち止まった。中には、完成間近の複製人間が眠っていた。その顔は、まるで天使のように穏やかで美しい。


「お前たちこそが、人類の未来だ」


 博士はカプセルに優しく手を当てた。その瞳には、科学者としての冷徹さと、創造主としての愛情が混在していた。


 再び中央実験室に戻った博士は、大型のコンピューター端末の前に座った。画面には、複雑な遺伝子配列と脳波のパターンが表示されている。


「あとは、この記憶移植プログラムを完成させれば……」


 博士の指が、キーボードの上を舞うように動く。彼女の頭の中では、人類の進化を自らの手で操作するという壮大な計画が、着々と形になりつつあった。


 外では夜が更けていくが、永田博士の研究所の灯りは消えることなく、新たな時代の幕開けを予感させるように輝き続けていた。



 薫は、真贋査問人としての任務を遂行しながらも、綾の行方を探っていた。そして、その捜索の過程で、永田博士の研究所の存在を突き止めた。


 研究所への潜入を決意した薫は、夜陰に紛れて建物に忍び込んだ。内部は、外観からは想像もつかないほど近未来的だった。無機質な白い壁、青白い蛍光灯の光、そして至る所に設置された最新鋭のコンピューター。それらが、この場所の非日常性を際立たせていた。


 薫は慎重に研究所内を探索した。そして、ある一室に辿り着いたとき、彼女は息を呑んだ。


 薫が重厚な金属扉を開けた瞬間、彼女の目に飛び込んできたのは、悪夢そのものの光景だった。部屋の中央には、幾つもの透明なカプセルが円を描くように並べられていた。そのカプセルの中に、綾そっくりの複製人間が、まるで永遠の眠りについているかのように横たわっていた。


 無数の綾の顔が、薫を見つめているようだった。それぞれの表情は穏やかで、まるで安らかな夢を見ているかのようだった。しかし、その平和な表情とは裏腹に、この光景全体が異様な雰囲気を醸し出していた。


 薫の足が震え、胸が締め付けられるような感覚に襲われた。彼女の頭の中で、現実と非現実の境界線が曖昧になっていく。どの顔が本物の綾なのか、もはや判別することすらできない。


 壁には無数のチューブや配線が這い、まるで巨大な蜘蛛の巣のようだった。それらは全て、眠る綾たちに繋がっていた。薄暗い青白い光の中で、それらの影が歪んで揺れ動き、薫の目には、まるで生きているかのように見えた。


 更に奥へと進むと、永田博士の研究室らしき場所にたどり着いた。そこで薫を待っていたのは、さらなる狂気の世界だった。


 壁一面に貼られた綾の写真。笑顔の綾、悲しげな表情の綾、怒りに満ちた綾……あらゆる表情の綾が、薫を見つめていた。その視線は、まるで薫の魂を貫くかのようだった。


 部屋の中央には、巨大な3Dホログラムが浮かんでいた。それは綾の身体を細部まで再現した設計図だった。筋肉の一本一本、神経の走り方まで克明に記録されている。その精緻さは、科学の域を超え、まるで狂気の芸術のようだった。


 机の上には、綾の髪の毛や皮膚の標本が、几帳面に並べられていた。それらは全て、ラベルが貼られ、日付が記されていた。永田博士の綾への執着は、もはや愛情とは呼べないほどに歪んでいた。


 薫は、息が詰まりそうになった。この部屋全体が、永田博士の狂気に満ちた綾への愛の証だった。それは愛というには歪すぎ、科学というには感情的すぎた。


 突如、薫の背後で物音がした。振り返ると、そこには綾が立っていた。


 しかし、それが本物の綾なのか、複製なのか、もはや判別することはできなかった。薫の現実感が、音を立てて崩れ去っていく。この瞬間、彼女は自分が狂気の淵に立っていることを悟った。


 薫の逡巡をよそに、その綾は煙のように消えてしまった。


「完璧だ……綾は私の最高傑作だ。彼女の中に、人間の記憶を移植することで、真の人工生命が誕生する。人類の進化が、ここから始まるのだ」


 博士の狂気じみた言葉が聴こえてくる。

 薫は戦慄した。

 人間の記憶を複製人間に移植する実験。それは、人間性の本質を根底から覆すものだった。


 薫は足早に博士の研究室を通り過ぎると、さらに奥に進んだ。


 研究所の最奥部、薫は息を呑んだ。そこには巨大なガラスの檻があり、その中に横たわる一人の女性の姿があった。


「綾さん……」


 本物の綾。

 先ほど無数に見た偽物の……いや、からっぽの綾とは明らかに違う。

 薫の心臓が激しく鼓動を打ち始める。


 綾は、透明な液体に満たされた檻の中で、まるで眠っているかのように静かに浮かんでいた。彼女の長い黒髪は、水中で優雅に舞い、白い肌は青白い光に照らされて幻想的に輝いていた。その姿は、美しくも悲しげで、まるで水中に沈んだ人魚のようだった。


 薫は、ガラスに手を当てた。冷たい感触が、現実味を帯びて彼女の指先に伝わる。


 その瞬間、綾の瞼がゆっくりと開いた。碧い瞳が、真っ直ぐに薫を見つめる。二人の視線が交差した。


 時が止まったかのような静寂。しかし、その静寂の中で、薫の心は激しく動いていた。綾の瞳に映る自分の姿。そこには、迷いも躊躇いもなかった。


 薫は決意した。綾を救い出すこと。そして、この歪んだ実験を止めること。それが、彼女の新たな使命となった。その決意は、薫の全身を貫く電流のように鮮明だった。


 しかし、同時に薫は、この決意が意味することの重さを感じていた。それは、彼女がこれまで信じてきた全てを否定することでもあったのだ。


 真贋査問人としての立場。人間と複製人間の境界線。そして、自分自身のアイデンティティ。これらすべてが、今、薫の中で大きく揺らいでいた。


 彼女は、自分の手のひらを見つめた。この手で多くの複製人間を「処分」してきた。その記憶が、鋭い痛みとなって胸を刺す。しかし今、この同じ手で、綾を救おうとしている。


 薫は再び綾を見た。ガラス越しに、綾がかすかに微笑んでいるように見えた。その笑顔に、薫は勇気づけられた。


 彼女は深く息を吸い、緊張した指先でガラスの檻の制御パネルに触れた。解放のプロセスが始まる。警報音が鳴り響き、赤い警告灯が点滅を始めた。


 薫は覚悟を決めた。これが正しいことだと信じて。たとえ、世界中が敵に回ろうとも。


 ガラスの檻が開き始める音。綾の身体が、ゆっくりと水面から上がってくる。


 薫は綾に手を差し伸べた。この瞬間から、二人の新たな物語が始まろうとしていた。そして、それは同時に、世界の在り方を変える大きな一歩でもあったのだ。

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