【SF短編小説】電氣桜花 ―人工の心、真実の愛―
藍埜佑(あいのたすく)
第一幕:真贋の世界
二〇八九年、霧雨に煙る東京の夜。
かつての繁栄を失った首都は、今や巨大な廃墟と化していた。錆びついた高層ビル群が、暗い空に向かって無残に爪を立てている。その合間を縫うように、ネオンサインが妖しく明滅し、荒廃した街に歪な生命力を吹き込んでいた。
鈴木薫は、この混沌とした歓楽街を静かに歩いていた。彼女の纏う黒いコートは、雨に濡れてわずかに光を反射している。長身で引き締まった体つきの薫は、一見すると優雅な佇まいだが、その眼差しには鋭い光が宿っていた。「真贋査問人」としての彼女の任務は、人間に紛れ込んだ違法な複製人間を見抜き、排除すること。その使命が、彼女の全身から醸し出されていた。
薫は、朽ち果てたショッピングモールの残骸を抜けて路地に入った。そこで彼女の目に、一人の女性が飛び込んできた。
その女性の姿は、まるで荒廃した街には似つかわしくない美しさを放っていた。しなやかな身のこなし、優美な顔立ち、そして何よりも、その存在感。薫は思わず足を止め、息を呑んだ。
女性の髪は、漆黒の夜空のように濃く美しく、雨に濡れて艶やかに輝いていた。その髪の下から覗く白い首筋は、まるで最高級の磁器のように滑らかで、薫の目を惹きつけて離さない。女性の瞳は、深い海のように碧く、そこには測り知れない深さと哀しみが宿っているようだった。
薫は、この女性に不自然な美しさを感じ取った。それは人間離れした完璧さであり、同時に、どこか人工的な印象も与えていた。真贋査問人としての直感が、彼女に警告を発していた。
「あなたは……複製人間ですね?」
薫の声は、わずかに震えていた。その言葉が口から漏れ出た瞬間、彼女は自分の心臓が激しく鼓動しているのを感じた。薫の瞳には、疑念と驚き、そして言いようのない感情が交錯していた。
目の前の女性……綾は、薫の言葉に一瞬だけ驚きの表情を浮かべた。その表情は、まるで蝶の羽ばたきのように儚く、そして美しかった。綾の碧い瞳が大きく見開かれ、長い睫毛が微かに震えた。それは、ほんの一瞬の出来事だった。
しかし、その驚きはすぐに消え去り、代わりに穏やかな、しかし何か諦めたような微笑みが浮かんだ。その微笑みには、悲しみと受容が混ざり合っていた。綾の唇が優雅な弧を描き、頬に浮かぶ薄いえくぼが、彼女の表情をより人間らしく、そして魅力的なものにしていた。
「はい、その通りです。私の名は綾。そしてあなたは……真贋査問人の方ですね」
綾の声が、夜の静寂を破った。その声は、柔らかく澄んでいた。まるで、上質なクリスタルグラスを指でそっとなぞったときに奏でられる、繊細で美しい音色のようだった。その声には、人工的な無機質さは微塵も感じられず、むしろ人間以上に温かみのある響きを持っていた。
綾の言葉一つ一つが、夜気を震わせるように薫の耳に届いた。その声の調子には、諦めと受容、そして不思議な静けさが混ざり合っていた。それは、自分の運命を受け入れつつも、なお尊厳を失わない者の声だった。
薫は、綾の声に魅了されながらも、職務上の緊張感を失わないよう必死だった。彼女の指先が、無意識のうちにコートのポケットの中で震えている。そこには、複製人間を無力化する装置が収められていた。しかし、薫の心の中で何かが、その装置に手を伸ばすことを躊躇わせていた。
二人の間に、重く、そして濃密な沈黙が流れた。その沈黙は、人間と複製人間という二つの存在の間に横たわる深い溝を象徴しているかのようだった。しかし同時に、その沈黙には奇妙な親密さも漂っていた。
薫は、職務上、綾を即座に拘束し、処分しなければならないことを理解していた。しかし、彼女の心の中で何かが揺らいでいた。綾の眼差しに宿る深い悲しみと、人間らしい温もりに、薫は心を奪われてしまったのだ。
雨が強くなり、二人の周りで水滴が舞い始めた。街路樹の葉から落ちる雨粒が、綾の頬を伝って流れ落ちる。それは、まるで涙のようにも見えた。
薫は、自分の中に湧き上がる感情に戸惑いを覚えながらも、綾に尋問を始めた。しかし、その言葉は次第に会話へと変わっていった。綾の言葉一つ一つに、薫は人間らしさを感じ取っていく。それは、彼女がこれまで出会ってきた複製人間たちとは、まったく異なる印象だった。
時が経つにつれ、薫の心の中で葛藤が激しくなっていった。任務と感情の狭間で揺れる薫。そして、瞬時の判断で、彼女は綾を逃がすことを決意した。
「逃げて」
薫は、ほとんど囁くように言った。
綾の表情が一瞬にして変化した。驚きに見開かれた瞳は、すぐさま深い理解と感謝の色に染まった。彼女の唇が微かに震え、何か言葉を発しようとしたが、結局は何も語らなかった。代わりに、綾は薫に向けて静かに頷いた。その仕草には、言葉以上の意味が込められていた。
綾の瞳に、薫は複雑な感情の交錯を見た。そこには感謝の光が燦然と輝いていたが、同時に深い悲しみと孤独も宿っていた。その眼差しは、まるで薫の心の奥底まで見透かすかのようだった。
綾は薄暗い路地を振り返ると、薫に最後の視線を送った。その瞳には、別れの哀しみと新たな人生への希望が混ざり合っていた。そして彼女は、しなやかな動きで身を翻すと、霧の中へと歩み出した。
綾の姿は、霧の中でゆっくりと輪郭を失っていった。漆黒の髪が霧に溶けていき、白い肌が灰色の闇に吸い込まれていく。最後に見えたのは、振り返る綾の碧い瞳だった。それは、夜空に輝く星のように、一瞬だけ光を放って消えていった。
綾の姿が完全に見えなくなった瞬間、薫の心に激しい疑念が芽生えた。彼女の胸の内で、これまでの信念が大きく揺らぎ始めた。人間と複製人間の境界とは、一体何なのか。その線引きは本当に正しいものなのか。そして、自分のしたことは正義だったのか、それとも裏切りだったのか。
薫は、霧の立ち込める方向を凝視した。綾の残像が、まだ網膜に焼き付いている。彼女は無意識のうちに、一歩、また一歩と、綾が消えていった方向へ歩み寄っていた。しかし、その足取りは重く、躊躇いに満ちていた。
薫の心は、相反する感情の狭間で激しく揺れ動いていた。職務への忠誠と、湧き上がる人間的な感情。正義の執行者としての使命感と、一人の女性としての共感。それらが激しくぶつかり合い、薫の内面で嵐のように渦巻いていた。
霧雨が薫の頬を濡らしていった。それは、彼女の心の中の混乱を映し出すかのようだった。薫は立ち止まり、深く息を吐いた。その吐息は、霧の中に溶けていった。
彼女は、これからの行動を決断しなければならないことを悟った。しかし、その答えはまだ見えない。薫は再び歩き出した。その足取りは、迷いと決意が入り混じった、複雑なリズムを刻んでいた。
雨は激しさを増し、薫の黒いコートを打ちつけていた。しかし、彼女の心の中では、もっと激しい嵐が吹き荒れていた。これからどうすべきか。薫は、答えの出ない問いを抱えたまま、暗い街路を歩み始めた。
遠くで、サイレンの音が鳴り響き始めた。それは、この夜が長く続くことを予感させるかのようだった。
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