31.もう、この話はしたくない
***
夜が、おとずれた。
頭上には、満天の星。地上には、キララ
ミズルチを抱っこしながら、湯葉先生の、うでまくらで休みつつ、カイトは焚火を見つめていた。それから、湯葉先生とは、反対のほうへ目をむけた。そこにはバッソと、そのむこうがわに、ひとり分のあいだをあけて、ウタマクラがいる。
「ねぇ、バッソさん」
小声で呼ぶと、「うん?」と、バッソは返事をした。お面は、焚火に、むけられたままだ。
「ありがとう。ほんとに」
「いや。たいしたことは、俺は、なにもしていない」
「ううん。バッソさんは、やさしいよ」
「そうか」
「ふふ」と笑う声も、やさしかった。
「心の傷はな、そこにあれば、見えるものだ」
「ほんと?」
「ああ。ミズルチは、お前から離れようとしないだろう? それは、お前の傷ついた心を案じているからだと思うぞ。動物のほうが、そういうものを、びんかんに感じとるからな」
バッソの言葉を理解してか、「ぴにゃぁ」と、あくび交じりに鳴いたミズルチが、カイトの胸に、ほおを、すりつける。
「そっか……ミズ、わかって、それで、ずっと、そばにいてくれたんだな」
「カイト、いい友達を、もったな」
バッソの言葉に、カイトは、すなおに「うん」と、返してから、「ありがとう」と、ミズルチを、抱きしめなおした。
「つらかった経験を、どう使うかも、決められるのは、カイト、お前だけなんだよ。傷ついたことがあれば、それだけ人の傷にも気づいてやりやすくなる。気づいて、共感して、その心によりそう。それが、やさしさってものだ」
ゆっくりと、やわらかな低い声での、バッソの語りに、湯葉先生が、うなずいている。カイトは、バッソの言葉の温かさと、湯葉先生とミズルチの体温に包まれて、うとうとと、まぶたを閉じながら、ゆめうつつに、つぶやいた。
「――バッソさんが、オレたちに、やさしくしてくれるのは、バッソさんが、傷ついたことが、あるから、なの……?」
もう、ほとんど眠りかけのカイトに、バッソは苦笑しながら、背中をむけた。
「もう寝ろ。おやすみ」
***
ばちばちと、火が爆ぜている。
カイトも、ミズルチも、それから〈
火の番は、バッソ、ウタマクラ、湯葉の三人が、交代で回すことにしていた。そろそろ、バッソからウタマクラに交代する時間が、こようとしていた。
バッソは小さくため息をつくと、右どなりにいる、ウタマクラの背中へ視線をむけた。
ウタマクラは、小さな背中を、ちぢこめている。うでをのばせば、とどく。目と鼻の先、そんな距離だ。だけれど、その距離は、とてつもなく遠かった。決して、手をのばしてはいけない。その理由はきっと、バッソの手のなかに、あるものだから。
と、ウタマクラが、ため息のようなものをこぼした。もぞりと、その背中が動く。
「……さっき、ごまかしたでしょ」
「え」
「カイトくんに。傷ついたことがあるから、やさしいのかって、聞かれた時」
「――起きてたのか」
「眠れないわよ、やっぱり」
そう言うと、ウタマクラはふり返った。まっすぐな、だけど泣いたあとのある赤い目をしていた。ウタマクラの言葉に、バッソはなにも言い返さなかった。ただ、帽子を目深にかぶり直して、ごまかそうとした。だけど、ウタマクラは話を終わらせなかった。
「傷ついたことのある人は、やっぱり、やさしいもの」
「そうだ。だから別に、俺が、特別親切だとか、おせっかいだとかいう話じゃない。ただの経験談をしただけで、きっと、あいつらのためですら、ないんだろうさ」
「孤独にならないためには、どうしたらいいかっていうのを、あなたは見せてる。ハムロくんのときだってそうだわ。見せてもらえたあの子たちは、とっても幸運だと思うわ」
「そうか」
「ええ、そうよ。あなたってほんとう――」
少しだけ言葉に、まよってから、ウタマクラは、結局こう言った。
「やさしくて、とても、真摯なのよ」
バッソは、少し黙ってから「真摯か、はじめて言われた、そんなこと」と笑った。
「努めてはいる。だけどやっぱり痛感したよ。思いやったり、よりそったりするというのは本当に難しいことだと。子どもには、無条件に愛されたいという気もちがあるだろう?」
そういってから、バッソは、声をぐっと小さく、低くした。
「カイトは、それが満たされていないんだ。ただでさえ、あの事故が彼の家族にもたらした結果は過酷だ。親御さんも傷ついてる。カイトのために、割く心の余裕はないだろう」
「……そうね」
「本当に難しいし、一概には言えないことだ。カイトのように状況がまずいこともある。もちろん親との相性もある。親自身のコンディションの良し悪しもだ。がんばれば、完璧な親子関係や、状態になれるというものでもない。どうしようもなく、すれちがうこともある。こういうときに大切になるのが、愛しかたを知っているかどうか、なんだろうな」
「愛しかた……」
「愛情を求めても、与えられたい相手から、えられないことなんてザラだ。だからこそ、愛しかたを、どこかで知ることが大事なんだ。親や他人から実感として学ぶことが難しい場合でも、物語などから愛しかたを学べれば、まず、自分から別の誰かに行動で愛情を手渡せる。そうしたら、その相手から愛がかえってくることもある。――そうしなければ、愛が手に入らない者もいる。無情だけど、無知と無理解には、拒絶しか返らないんだ」
ぱちん、と、焚火がくずれた。
「それって、見かえりを求めて、愛するマネをするってこと?」
「コミュニケーションとはそういうものだ。そこからはじまるものがあっても、いいんじゃないかと俺は思う。本物の関係にできるかどうかは、それこそケースバイケースだ」
ウタマクラは、ふふ、と笑った。その笑顔が、あまりにきれいで、切なそうで、バッソは、思わず、息をするのを忘れるところだった。
「――あなたのパートナーは、きっと、しあわせな人なんでしょうね」
思いがけなかった言葉に、バッソはどきりとした。それで、ごまかすように、「さあ、どうだろうか」と、ウタマクラから視線を外して、上をむいた。
「しあわせだと思うわよ。だって、そんなふうに、かしこくて、それでいて柔軟に、関係性について考えられる人が、パートナーなんだもの」
「買いかぶりすぎだ。理屈でわかったところで、実際に、うまくやれるって話じゃない」
「ねぇ。〈
「ない」
「――そうなんだ」
「出会って、はじめて相手が半身だと気づく。ただそういうものだ」
そこまで言うと、バッソは、ついにウタマクラに背中をむけてしまった。
「もう、この話はしたくない」
低い声での拒絶に、ウタマクラは泣きたくなった。それから、次のこの言葉に、もっと泣きたくなった。
「――あんたとは、したくない」
次の瞬間。
満天の星。そのはてから、太くて大きな怨墨のかたまりが、ぐぅんとのびてきた! それは、
「
悲鳴まじりに、ウタマクラが、自分の名前を呼んだのが聞こえて、バッソが、はねおきた時には、もうおそかった。ウタマクラの身体は、天高く運ばれ、彼女をつかんでいる怨墨の先には、あの、メガネで、茶髪の、白い服を着た、怨墨の本体が、にやにやと笑いながら、浮かんでいた。
「怨墨だ‼ ウタマクラがとられた!」
バッソのさけびに、全員が飛びおきる! 見あげれば、ウタマクラを抱えた怨墨の本体が、中空で笑っているではないか。突然の襲撃で、みなが呆然としているうちに、怨墨は、ぶわっと風を巻きあげ、飛んでいってしまった。
「ぴにゃあああっ!」
カイトのうでから、暴れ出たミズルチが、そのあとを追う。「ミズ!」と、カイトがさけぶのも聞かずに。全員、騒然とした。しかしウタマクラが、さらわれた現実と、ミズルチが追っていってしまった事実は変わらない。寝ぼけたシネラマを湯葉先生が、たたきおこして、ザイルにつないでいた
「オレが! ミズの〈音〉を追ったほうが早いよ!」
カイトのさけびに全員がうなずき、走りだした。キャップとヘッドホンをなおしながら、先頭を走るカイトのとなりに、湯葉先生がならぶ。
「カイトさん」
呼びかけに、カイトはうなずきながら、空をにらんだ。そして、苦しげに笑った。
「怨墨、母さんじゃなかった……! なかったよ……!」
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