14.「やあ、週末のスポーツに、山登りはどう?」

      ***


 父の言いつけどおり、研究所の事務所で、欠勤の手続きを、してもらったあと、ウタマクラは、駅へむかった。


 自転車を、地下にある駐輪場にあずけて、コンクリートで、できた階段をのぼり、暗い、トンネルのような出口をぬける。とたん、駅前の、ざわざわと明るく騒がしい世界が、ウタマクラの目の前に広がった。肩からさげた、革のショルダーバッグを、かけなおし、ふりそでの衿元を、整えなおす。夕方の風に前髪が乱されて、目をほそめた。胸の奥に、うす暗く、そして重たいものが、のったりと、うずくまっているようだった。


 重要なことを、そうだと気づけずに見逃し、報告しなかった結果、たいへんなことになった。それは事実だ。罪悪感が、じわじわと湧いてきて、ウタマクラの足どりを重くする。


 夕日が、たっぷりとしたオレンジ色の光で、ビルの外壁を塗りかえている。ふと、通りすぎたばかりのお店のショーウィンドウに、見おぼえのあるものがあった気がして、立ちどまった。アウトドアスポーツの専門店。きりっとかっこうをつけた、最近よく見かけるインフルエンサーの男性が、登山用のウェアを身につけて、あの黄色と緑のザイルを、にぎりしめている。それが、突然「やあ、週末のスポーツに、山登りはどう?」としゃべりだした。ノーボルの宣伝モニターだ。画面下には、五か国語での翻訳字幕がでている。


 そうだ、理系教員免許を、もっているのを売りにしていて、妙な、おもちゃを発明したり、ニュースキャスターとか、会員制チャンネル運営をしている人だ。たしか名前は、シネラマ・シネラリア。思いだしたとたん、その笑顔が憎らしくなり、ウタマクラは、モニターへむけて、べっと舌を出した。それから、そそくさと、その場をあとにした。


 駅前の大通りを、ゆきかっているのは、学生か、ティータイムを終えたマダムたちか、もしくは、保育園から自動送迎をしている、AIナニーのバギーくらいだ。ガラスカバーに守られた、なかにいる園帰りの子どもたちが、ウタマクラにむけて、にこにこと手をふる。つい、ウタマクラの顔に、笑顔がうかんだ。小さい子は、やっぱりかわいい。自分も、いつかは、お母さんみたいなお母さんになりたいと、そう思っている。


 角をまがれば、駅舎が見える。そう思った、次の瞬間だった。



   ニヴェーラ ニヴェール  チンチャール ニヴォーラス



 これは、とウタマクラは、あたりを見回した。それから、両目をうすく閉じて、せまくなった視界のなかで、〈おと〉の出所を、さぐる。はっと目を開けた。ひとつじゃない。たくさんの〈音〉が、重なりあっている。――〈嗅感きゅうかん〉の、〈おと〉だ。


 こんな街中で? こんなに、たくさん? 少なくとも十人はいる。しかも、明らかに〈音〉が大きい。これは、大人の〈音〉じゃない。


「子どもたちだ!」


 弾かれるように、ウタマクラは走りだした。こっち、いやちがう、この路地の先だ。せまいビルとビルのすきまを、かけぬける。アルミのゴミ箱や、警察の治安監視ドローンと、ぶつからないように、気をつけながら走った。どんどん奥まったところへ入りこんでゆく。


 少しの不安と責任感に、ウタマクラは、かりたてられていた。きっとあの子と、その仲間たちに、ちがいない。だって〈嗅感きゅうかん〉なんだもの。花屋の前を通りすぎ、大道路をはさんだ反対がわに建っている、古い雑居ビルと、お寺のあいだの路地を、ちらりと見た。


 その瞬間、誰かと、はっと、目があった。「あっ」と声が出る。


 そこには、あの赤い短髪の〈嗅感きゅうかん〉の少年がいた。それから、彼とよく似た姿形(ただし髪だけは長い。)の少年たちが、十人前後。見れば、短い髪の少年の背には、大きな白いふくろが、背負われている。大きさからして、〈竜骨りゅうこつの化石〉にちがいない。


「あんたたち! ちょっと、まちなさい!」


 大きな声を出して、かけよろうとするも、あいだにある四車線の道路には、車がひっきりなしに往来している。危険で渡れない。短髪の少年が「研究所の女だ」と口早に、仲間らしい少年たちに声をかけた。とたん、全員が腰ひもから、ぶらさげていた、あのザイルを手につかんで、ぎゅんっと空高くへ、放りあげた。ビルの高所の、窓をガードしている鉄柵や、お寺の庭木なんかに、先端のフックをひっかけて、ちりぢりに飛んでいく。


「まっ、まちなさーい! それっ、街中で使うのは違法でしょおおお!?」


 ウタマクラのさけび声が、むなしく車の走行音に、かき消されてゆく。


 足踏みしながら、左右を確認して、一番近い横断歩道へと、かけつける。だけど、反対がわへ渡れた時には、すでに、少年たちの姿は、影も形も、なくなっていた。


「うううっ」


 悔しさのあまり、ウタマクラは、頭から湯気が出そうだった。ザイルで飛びあがってゆく直前、あの少年が、心底、軽べつしたような顔をしていたのが、目に焼きついている。


「見てなさい……! ぜったい、絶対に、つかまえてやるんだから……!」



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