11.怨墨だ!


 石段のほうから、男の人の大きな声がして、カイトは、はっと顔をむけた。そこから、二メートル以上ある大きな男の人と、その背中に負ぶわれた小さな人影と、ふたりにまとわりつくようにして飛び回る、白銀の生き物が姿をあらわした。


湯葉ゆば先生! ばあちゃん! ミズ‼」


 湯葉先生がきてくれた! ひざの悪いばあちゃんを背負って、かけつけてくれたのだ。ミズルチが、急いで、まにあわせてくれた。思わず涙が出そうになる。


 湯葉先生の背中から飛びおりた、ばあちゃんの顔は、見たこともないくらい、するどかった。前かけのポケットに手をつっこむと、そこから、白い三角形の紙をとりだす。ふたつを湯葉ゆば先生に手渡し、ばあちゃんも、ふたつを両手で、にぎった。


「湯葉! えんぼくだ! すみ抜きはまかせる。油断するんじゃないよ!」

「はい、くれ先生!」


 ばあちゃんがさけび、湯葉先生がうなずく。まるで、湯葉先生が、ばあちゃんの子分みたいだ。カイトが、あっけに取られていると、目の前のかすがいさんが、背中をまるめて「ううう」と、うなった。次の瞬間、かすがいさんの背中から、ぶわっと、すごい勢いで、黒いもやが飛び出てきた! それが、ばあちゃんと湯葉先生にむかって、押しよせる!


「ばあちゃん! 湯葉先生!」


 ばあちゃんは腰を低くすると、両手を左右に大きく広げた。そして次の瞬間、信じられない勢いでかけだした。大きく手をふりかぶると、襲ってきた黒いもやにむけて、白い三角の紙を、ふりおろす。ばあん! ばあん! と、すさまじい音とともに、左右から、同時に黒いもやをたたく。するともやは、音と一緒に、白い紙のなかへ吸いこまれていった。


「ばあちゃん! なにそれ!?」

「カイト! 口を閉じな! 絶対、えんぼくを吸うんじゃないよ!」


 聞いたこともないような、ばあちゃんの大声に、むぐっと両手で口をおさえる。


 ばあちゃんは、なかが黒く染まった紙を捨てると、また前かけから、同じものを取りだして、次々と襲いかかってくる、黒いもやを、つかまえていった。


「ぴいいっ」


 甲高い声をあげて、ミズルチが、カイトのそばへ飛んでくる。動けないカイトを守るように、そのそばでホバリングした。


「湯葉!」


 ばあちゃんが、さけぶ。見れば、横から回りこむようにして、かけつけてきた湯葉先生が、恐ろしい顔で、右手にもっていた三角形をかすがいさんの背中に、打ちおろした。ばあん! 一際、大きい音とともに、先生のふりおろした、三角の紙が広がる。とたん、かすがいさんの背中から、黒いもやが、ぎゅうっと、音をたてて吸いだされる!


「うわああああっ」


 すさまじい、さけび声とともに、かすがいさんは、海老ぞりになった。そのまま、地面に、たおれそうになるところを、間一髪、湯葉先生が、大きくて太い両うでで、抱きとめた。


「先生! えんぼく抜けました!」

「まて! 上に一匹逃げてる!」


 はっとして、湯葉ゆば先生とカイトが上を見あげると、ちょうどほこらさまの真上、枝々のきれているところから、太陽の光が差しこんでいて、まぶしさで目がくらんだ。そこから、黒いもやが一匹、ものすごいスピードで、カイトにむかって飛んできている!


「カイト!」


 ばあちゃんが、さけぶ! カイトも、黒いもやが、自分に襲いかかろうとしているのがわかって、キャップとヘッドホンごと、頭を抱えて身をちぢこめた。次の瞬間、「ぴいいいっ!」と、甲高い鳴き声とともに、ばしん! と大きな音がした。


 あっと思って、カイトが目を開けると、なんと、地面の上に、ミズルチが落ちている。


「ミズ!」


 背中が痛いのをガマンして、カイトはミズルチに、はいよった。ミズルチは、地面にうずくまったまま、ゆっくりと顔をあげて、カイトを見る。


「ミズ、お前、大丈夫か?」


 よわよわしく「ぴにゃ……」と、赤い目を細めて笑うミズルチに、大きなケガは、なさそうで、カイトは、ほっと一息ついた。だが、かけよってきた、ばあちゃんと湯葉先生がミズルチを見たとたん「なんてことだ……」と絶句する。ふたりの視線を追って、カイトもようやく気づいた。ミズルチの、しっぽのうろこの一部が、黒く染まってしまっているのだ。


「カイトさん。ケガはない? 背中うったよね?」


 しゃがみこんで、ようすを、うかがってきた湯葉ゆば先生に、カイトはうなずいた。


「うん。大丈夫。ありがとう湯葉ゆば先生」

「そうか……まにあってよかった」


 ほっと胸をなでおろした湯葉ゆば先生は、身長二メートルをこえる、筋肉むきむきの大男だ。濃い茶色のヒゲもじゃな顔をしている。でも、たれ目だから、ぜんぜん怖く見えない。そんな湯葉先生に、助けおこされながら、「いてて」と、姿勢を変えつつ、カイトは地面の上にすわった。目の前では、ばあちゃんが、ミズルチのしっぽを難しい顔で見ている。


「ばあちゃん、ミズは? 今、どうなったの?」

「ああ。あんたの代わりに、えんぼくをしっぽで、はたき落とそうとして、それをしっぽに吸いこんでしまったんだよ」


 つまり、カイトの身代わりになった、ということか。カイトは、泣きそうになった。


「ばあちゃん、ミズ、大丈夫?」


 ばあちゃんは、ミズルチのしっぽや、身体のあちこちを厳しい目でチェックしてゆく。


くれ先生……」


 湯葉先生も、心配そうな顔だ。と、ばあちゃんが、にこっと笑った。


「うん。このうろこ、三枚だけだ。奥にまでは入りこんでいない。さすが〈出世しゅっせミミズぞく〉のうろこだよ。守りが堅い」


 はああああ、と、カイトと湯葉先生は、同時に安心のため息をついて、へなへなと体勢をくずした。ミズルチが心配そうに、カイトのひざの上に、ぴょこんと飛びのると、ぺろりと、ほおをなめた。それで、カイトは顔を、くしゃくしゃにして、笑った。


「かばってくれて、ありがとうな。でも、心配なのは、今はお前のことなんだぞ?」


 ぎゅっと、ミズルチを抱きしめると、ミズルチは「にゃぴ?」と、小首をかしげた。


 それから、カイトは、ばあちゃんと湯葉先生を見た。


「ところで、さっきのあの黒いのって、なんなの? かすがいさんは、大丈夫なの?」


 ばあちゃんは、地面に横たえられたかすがいさんを、ちらっと見てから難しい顔をした。


「――あれはね、えんぼくというんだ」

「エンボク?」

「人の心から湧いてでる、恨みや、悲しみや、不満。そういった感情が、形になって、身体の外に、もれでたものだ。それに身体のなかに入りこまれてしまうと、さっきのかすがいさんのように、心と身体をのっとられてしまう」


 かすがいさんの、さっきまでの行動や、表情を思いだして、カイトはぞっとした。いつもとはまるで別人のようなかすがいさんは、やっぱり、おかしくなっていたんだ。


 カイトがうつむいていると、ぽん、とあたたかくて大きなものが肩をたたいた。見れば、湯葉先生の大きな手が、カイトの肩にのせられている。ヒゲもじゃ顔が、にこりと笑った。


かすがいさんは大丈夫。先生のかみ鉄砲でっぽうは強いから、身体に入ったえんぼくは全部吸いあげたし、これから、まあ、ふつかか、みっかくらいかな、豆腐やヨーグルトや食パンなんかの白い食べ物をとって、こんぶ出汁とワカメの吸い物を飲んでおけば、じきに元気になるよ」


 そこで、ばあちゃんが「あっ」という顔をした。それで湯葉先生も「あっ」という顔をして口元を両手で覆う。かわいい動作だけれど、カイトはそれでは済ませられない。


「ていうか、なんでばあちゃん、あんなことできんの? あんなの使って戦えるって聞いたことないよオレ。それに、ばあちゃん、湯葉先生の先生なの? あとそれから――」


 早口で言いつのってから、カイトは、へにょり、と眉毛をさげた。うでのなかで、ミズルチが「ぴい」と鳴く。


「――ばあちゃん、ひざ、大丈夫?」


 心配を顔いっぱいにたたえて聞くカイトに、ばあちゃんは顔をくしゃっとさせて笑った。


「痛いに決まってるだろ? まったく、老体にムチうたせるもんじゃないよ」



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