夏を待たず
根ヶ地部 皆人
夏を待たず
晶子はそっと兄の部屋へ忍び込み、後ろ手に障子を閉めた。
春の陽気が部屋から遠退き、静謐と陰鬱とが満ちる。
兄が何か言う前に、晶子は唇をゆがめるように笑って言った。
「お兄さまは、もう死ぬるのですって」
あらん限りの憎悪を振り絞った言葉はしかし、兄の満足そうな溜息によって迎えられた。
「そうかい。やっと死ぬるのかい」
布団に寝たままの兄は、晶子へ穏やかな笑みを見せていた。
晶子は兄が嫌いであった。
昔、つまり晶子の十二年の人生においての昔のこと、おおよそ去年まではそんなことはなかったように思う。
物静かでいつも優しい笑みを浮かべている兄を、あの頃はまだ愛していたように思う。
兄の部屋には立派な本棚があって、兄が欲しがったものであるのか、それとも両親が買い与えたものであるのか、そこにはぎっしりと本が詰まっていた。
兄にねだってその本を読んでもらうのを楽しんでいた時期が、間違いなくあった。
しかし、晶子の部屋には立派な本棚はない。兄が持つような多くの本もない。
その事実に気づいてから、晶子は兄を嫌いになることに決めた。
薄い掛布団の端から向けられる兄の微笑みを見て、晶子は大嫌いな兄を困らせようと、いたずらしてやろうと心に決めた。
蛍光灯の紐を引っ張ると、薄黄色の光が完全に春の日を部屋から追い出した。
「お兄さま、久方ぶりに御本を読んでくださいまし」
「いいとも。好きな本を持っておいで」
難渋するかと思った兄が笑みを絶やさぬままうなずいたので、晶子は少しうろたえた。しかしそんな顔を見せたくもなかったので、そっぽを向くようにして本棚へと
黒く硬く重そうな木でできた立派な本棚には、その棚板がたわむのではないかと心配するくらいに本が詰まっている。
どの本も、晶子が読むような子供向けばかりだ。兄の年齢にはそぐわない。
ぎっしりと詰まった本の中で、一冊だけ少し飛び出して美しい列を乱す本があった。それは晶子のお気に入りの一冊で、何度も兄に読んでもらったものだ。
その一冊を抜き取り、胸に抱えて兄を振り返った。
兄はまだ、忌々しいことに、まだ布団の上に寝たままであった。
「体を起こすのを手伝ってくれるかい」
いやです、と断りたかった。
ふざけないでください、と怒鳴り、憤然と足音荒く兄の部屋を出ていきたかった。
「はい」
胸に抱えた本を布団の横に、左手を薄い掛布団の上から兄の胸に置いて、右手を背中と布団の間に差し入れる。
兄の体は竹串のように硬く、細く、そして軽かった。
上半身を起こした兄の隣に座り、薄い掛布団をひざ掛け替わりにする。
脇に置いていた本を自分の膝の上に開き、兄が読みやすいように少し傾ける。
兄の柔らかな、そしてか細い声が本を読み上げはじめた。
それは一匹の大きな両生類が、また一匹の小さな両生類を横穴の中に閉じ込める話だ。
大きな両生類は、育ちすぎてしまって横穴から抜け出すことができない。
小さな両生類は、大きな両生類が邪魔で横穴から逃げ出すことができない。
二匹の両生類が反目し、ののしりあい、そして時のみが過ぎる。
晶子は思った。
自分が山椒魚ならばよかったのに。
この薄暗い横穴の中に、兄を閉じ込めてしまえればよかったのに。
もしくは自分が蛙で、兄が山椒魚ならばよかったのに。
しかし、兄はかすれた声で本を読み、晶子は横でただそれを聞いているのである。
晶子は枕元の小さな盆から吸い飲みを取り上げ、兄に差し出した。兄は小鳥が親から餌をもらうようにして喉を潤し、晶子への礼も言わずに朗読を続ける。
肩にもたれるようにして仰いだ兄の顔は、蛍光灯の光のせいか、古びた紙のように黄色く乾いて見えた。薄く軽い体は、晶子が身を預ければ耐え切れずに砕けてしまいそうだ。
晶子はまた怒りにかられた。怒鳴り、叫んでしまいたかった。
しかし兄の前でそんな弱みをみせたくはなくて、涙をこらえ、震える声で口にした。
「お兄さまは、もう死ぬるのですって」
読み上げを断ち切られた兄は沈黙し、それでも微笑みを消さぬままに晶子へ微笑んだ。
「そうかい。やっと死ぬるのかい」
なぜそんな満足そうに笑うのであろう。
いやだ死にたくない、まだ晶子と一緒にいたいのだと、なぜ言ってくれぬのだろう。
だから、晶子はそんな兄を嫌いになると決めたのだ。
嫌いになると決めたのに。
夏を待たず 根ヶ地部 皆人 @Kikyo_Futaba
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