第6話


「ふうっ」


 ぼふん、という音を立てて、羽毛布団がへこんだ。美典が、疲れた体をベッドに投げ出したからだ。

 結局、一日中探し続けても、あの少女は見つからなかった。夜の十時まで走り回ったところで、いくらなんでもあんな女の子がこんな時間まで歩き回っていないだろう、と考えて帰ってきたのである。


「あ……ご飯……」


 走り回ってとてもお腹はすいているのだが、食事を作る気力もない。かといって、食事抜きというわけにもいかない。

 こういう時、一人暮らしは不便だ。ふと、家族が恋しくもなる。

 歩いて十分も行けばファーストフード系はあるのだが、そこまで行くのも億劫な気がした。


 美典は諦めて、ベッドから体を起こした。お風呂は昨日いれたから今日は沸かし直しをセットして、とりあえずご飯は滅多に使わない冷凍ピラフでごまかし、後は適当にあるもので済ます。

 ありあわせの食事をしながら、美典は冷静になってもう一度考えた。


 水希の足から感じられた気配は、少なくとも昨日まではまったくなかった気配だ。加えて、水希の精神状態は、明らかに昨日より憔悴していた。ただ同時に、あの時「大丈夫」と水希が言った時、彼女はウソを吐いてはいなかった。それは確信に近い。

 明日は終業式だから、その時にもう一度問い詰めよう、と美典は決めた。


 ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇


「リンを探していた?」


 商店街の会議が長引いて、夜遅くに帰ってきた薫は、リージアの報告を聞いて驚いていた。


「少し、妙ではあったわね。なんか焦っている感じだったわ」


 人間と異なる、妖怪のオーラを視たからというのであれば、昨日のうちに必死に探すだろう。だが、昨日は別にそんな様子もなかった。今日になって必死に探すのは、妙といえば妙だ。


「接触した方がいいのかも知れんな」


 美典が何の妖怪であるかは分からないが、少なくとも目覚めて人間に牙を剥くような事には、おそらくならない。だが、人として生きていた妖怪で、目覚めた自分の姿を受け入れられず、混乱、暴走し、大きな被害が出た例がないわけではない。

 かくいう薫自身、自分がハーフであることから、自分の存在について悩んだことは、一度や二度ではない。今はもう受け入れているが、当時本当に悩んだものだ。

 この辺りは、娘のリンにしても同じだろう。


「あるいは、天城さんに連絡したら? こういうのは、見ず知らずの妖怪から言われるより、説得力あると思うわよ。ほら、年末年始は、あの子も実家に帰るんでしょう?」

「ふむ……」


 確かに高校生の彼女は、おそらく年末年始は岐阜の実家に行くだろう。そこで実の父に説明してもらった方がいいかもしれない。ついでに、誰か一人、一緒についていって、妖怪の存在を教えてもいいし、現地のネットワークに連絡して頼んでもいい。

 彼女の覚醒が近いのは確かだが、一日二日を争う事態ではない。少なくとも、薫はそう思った。


「そうだな。年明け前にでも天城さんに連絡してみよう」


 だが、事態は彼らが想像しているよりもずっと早く進行していたのである。


 ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇


 十二月二十二日。

 多くの学校では年内の登校日は終わる。本来は二十四日まであるのが普通なのだが、今年は二十四日が土曜日、二十三日は祝日のため、二十二日が最後になるのだ。

 といっても、美典たちはいわゆる成績表は配られない。二期制となっているためだ。最終日も一年生、二年生は普通に授業が行われる。


 もっとも、三年生はこの後年明けに学校には来る事は来るが、すぐセンター試験が始まるし、その後は授業は任意参加が認められている。

 そしてそのまま二月に突入し、三月の頭には卒業式だ。事実上、卒業式の前にクラスメイトが揃うのは、今日が最後である。

 後期の終業式ではないが、一限目に当たる時間に、年末の挨拶として全校生徒が体育館に集められ、校長の話や休み中の注意事項が伝達される。


 美典はすぐにでも水希を捉まえたかったのだが、水希は珍しく朝ぎりぎりに登校してきたので、もう移動が始まっていて、問い詰める暇もありはしなかった。

 ようやく長い――そして去年と同じではないかと思われる――校長の話と、決まりきった連絡事項が終わり、生徒は順次教室に戻っていく。

 三年生はこれで終わりだ。

 美典は戻ったらすぐ水希を捉まえたかったのだが、すぐ担任の先生が来てしまう。だが、簡単な連絡事項のみで、すぐホームルームも終わってくれた。


「じゃあ、大半のみんな、勉強がんばれ!!」


 先生がそう言うと、生徒がみんな拳を突き出して「おー」と応じる。こういうノリのいいクラスで、その筆頭が水希だったのだが、彼女は小さく手を挙げただけだった。


「解散!!」


 その先生の言葉で、生徒は立ち上がり、帰り始める。

 美典は自分の荷物をまとめるより先に、のろのろと荷物をカバンに詰めている水希の机まで行った。


「水希」

「なに?」


 そう応じる声は、いつもの水希だ。だが、美典は水希を視てぎょっとした。

 昨日にはなかったはずの、左手の甲に痣があったのである。


「水希、その痣、どうしたの?」

「え? ……ああ、これね。昨日ちょっと、熱湯こぼしちゃって。大丈夫よ、もう」


 昨日と同じだ。彼女はウソを吐いていない。正しくは、ウソを吐いていないと思っている。だが、それが少なくともただの痣ではないことは、明らかだった。その痣からは、はっきりとあの少女と同じ気配を感じたのである。


「ねえ、ホントにその痣……」

「うん、大丈夫よ、心配しないで。すぐ冷やしたから。そのうち消えるわよ」


 そう言いつつ、水希は立ち上がる。


「じゃあ、新年にね」

「ちょ、ちょっと待ってよ、水希」


 反射的に、美典は水希の左手を掴んだ。その瞬間。


「離して!!」


 怒鳴り声に近いその声と共に、思い切り手を振り切られる。突然響いた大声に、まだ帰り支度中だったクラスメートの視線が、一斉に集まってきた。


「……ごめん。私もう、帰るね。勉強あるから」


 美典は半ば呆然と、水希を見送った。クラスメイトが心配したのか、美典の近くに来る。


「どうしたのかしら、篠崎さん。あんな風に声を荒げる人じゃないのにね」

「うん……」


 振り切られた手は、わずかにしびれてすらいる。

 明確な拒絶の意思。それを、叩きつけられた気がした。


「水希……」


 何かある。なんだかは分からない。ただ、その手がかりは、今の美典にはあの少女しかなかったのである。

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