第4話
「ただいまー」
どこの家でも、帰宅時にされる挨拶。だが、それに対する「お帰りなさい」の声はない。代わりにあるのは、薄暗い家と静寂。
「ま、誰もいないわよね」
篠崎水希は、溜息を一つつくと、門灯の電気スイッチをオンにして玄関の扉に鍵をかけ、カバンを一度玄関において雨戸を閉じると、階段を上がっていく。途中、テーブルの上には二人分の食事の用意と、メモがあった。何が書いてあるかは考えるまでもない。
水希は一人暮らしというわけではない。両親と、現在中学二年生の弟の四人暮らしだ。
だが、パン屋を――ケーキも扱っている――経営する彼女の両親が、この時期に暇であるはずはなく、最近は特に遅くまで仕事をしている。また、弟は最近塾で遅い。受験生のはずの水希より忙しそうだ。
時間はまだ十七時。弟が帰ってくるまででも、あと四時間あまりはある。
もっとも、水希も暇な身分ではない。一ヶ月もしないうちにセンター試験はあるし、すぐに受験シーズンとなる。もう最後の追い込みの時期だ。
かばんをベッドに放り投げ、コートと制服を脱いでハンガーにかけた。
シャツもそのまま脱ぎ捨てると、いかに南向きの部屋で、昼間に太陽光で暖かくなっていた部屋とはいえ、さすがに寒い。
一瞬身震いすると、ベッドの上においてあったトレーナーの上下を羽織った。そして、部屋の空調のスイッチを入れる。程なく、暖かい風が噴出され始めた。
「さて、と。勉強勉強」
本棚にある問題集を取り出し、広げる。
壁にある時計を見て、時間を計って問題を解き始めた。
十分、二十分。
部屋は静寂に包まれ、コチコチ、という時計の秒針の音と、紙の上をシャープペンが滑る音だけが響く。たまに遠くの幹線道路を通る車の音が聞こえるが、それだけだ。
今日は風もなく、ある種怖いくらいの静寂に包まれていた。
「ん~~~~」
問題が一段落し、両手を組んで上に伸ばし、大きく伸びをする。堅くなった体が、ぴしぴし、と音を立てているように思えた。
その時。
「誰!?」
ふと何かを感じて、水希は振り返った。だがもちろん、そこには誰もいない。当たり前だ。
玄関の鍵はかけているし、雨戸も閉めた。誰かが帰ってきた音はしていない。仮に帰ってきていたとしても、挨拶くらいはするはずで、それなら気付かないはずはない。
「気のせい……よね……うん」
ふぅ、と息をつく。
このところずっとだった。部屋に一人でいる時とは限らない。ただ、誰かに見られている気がする。そんな事が増えていた。
最初は気のせいだと思った。受験が近付いて、ナーバスになっているからだ、と。
だがあまりにもそれが続いていた。
最初、ストーカーでもいるのかと思ったが、家の中まで入られているとは思えない。カーテンは閉めているから、中が見られているとも思えない。この部屋のカーテンは遮光カーテンだから、たとえ夜、中で電気をつけてても、外にはほとんど見えないはずだ。
寝不足になる、というほど気に病んでいるわけではない。受験のストレスかと最初は思ったが、それも違う気がする。
だが、かといって人には相談できない。
本当は今日、美典に相談しようかとも思ったのだ。彼女なら、受験も終わっているから負担にもならないし、何より一番の親友だ。
しかし今日、美典に『心配事?』と聞かれたとき、思わず『なんでもない』と答えてしまった。
美典の、並外れた洞察力ともいうべきものの事は良く知っている。その美典がそう訊いてきたということは、実際自分は何か不安を抱えているのだろう。そしてそれは、これしかない。
うっかり『なんでもない』なんて言ってしまったがために、そのまま押し通してしまった。こういう時、自分の少しだけ天邪鬼な性格が恨めしくなる。
「ふぅ……やっぱ明日相談しよっと」
勉強を一段落させて、ベッドに倒れ――こんだ瞬間、水希は頭が真っ白になった。
目の前の壁――すなわち天井に、顔があったのである。
「お前、だな」
(だれ……)
声に出したくても、何も言葉が出ない。
見えているのは、金髪碧眼の、こういう状況でなければ少しはゆっくり鑑賞したくなるような、美しく整った顔立ちだった。
その顔が、天井に張り付いている。正確には、天井裏にいて、顔だけ天井を透過して見えるようにした感じだろうか。
音もなく、その顔が近付いてきた。
予想通り、その体は天井裏にあったらしい。天井を壊すことなく、それは水希の前に全身を現した。
その姿は――。
(天、使?)
中性的な、だが文句なしに美しいといえる顔。白い、古代ヨーロッパの人が着ていそうな服。淡く輝いて見えるその体。そして何よりも、その背中には白い翼がある。
「イシュリエルよ。お前の犯した罪は、決して許される事はない」
そういうと、その天使は手にある槍を水希に突き出してくる。その切っ先は、銀色に輝き、その先端はどこまでも細く鋭い。
(やめて……)
声を出したくても声は出ない。体を動かしたくても、体は恐怖で固まったかのように指一本動かせなかった。
その槍は、ゆっくりと水希の右足の足の甲に、ゆっくりと突き刺さっていく。
しかも、いつの間にか両足の甲が重ねられており、槍はそのまま左足も貫いていく。
不思議な事に、痛みはない。骨が粉々になっていてもおかしくないのだが、何の痛みもなかった。だがそれは、恐怖で痛みが麻痺しているだけかもしれない。
(いや……助けて……!!)
せめて、この恐怖から逃れるために目を瞑りたいのに、それも出来なかった。目は見開かれ、眼球だけがかすかに動かすことが出来る。そして、今その視線は、右足にずぶずぶと突き刺さる槍を、まるで他人事のように見ていた。
どのくらい時が経ったのか、いつの間に槍は引き抜かれていた。
「残るは両手。聖夜の終わる時、お前は神への裏切りに対する罪の証をその身に刻み、永劫の業火の中で呪われるのだ」
その言葉を最後に、その天使は消えた。
「い……」
言葉が紡げる。恐怖が、声と共に堰を切って溢れ出す。
「いやぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁ!!!」
その溢れ出した恐怖は、あっさりと水希の意識をも奪っていた。
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