恨んるわけじゃねえよ、と林田が言った。俺の両肩に手を置いて、半ば無理矢理に俺の顔を正面から見える。

「恨んではいねえよ。これは本当だ。でも――」

 林田は口籠り、

「悔しいって思いは、正直――」

 あったよ、と林田の声は言った。

「もういいよ」

 俺は一歩後退して林田の腕から離れた。

所詮しょせんは偽りだったわけだ。あのとき、図書室への階段の下で語った内容は」

「待て」

「おまえがそんな奴だとは思いもしなかったよ」

 背中を向けて立ち去りたい気分に駆られた。が、それは林田のせいではない。俺自身のだ。

 少しだけ、すくんだのだ。

「水沢先輩」

 築垣がよく通るテノールで俺を呼んだ。話していいですね訊くので、頷いてみせた。築垣は一度深呼吸をしてから語り始めた。

「林田先輩は犯人じゃなかった。では、誰が水沢先輩を階段から突き落としたのでしょう」

 築垣は意味ありげに間を持たせてから語りを再開した。

「水沢先輩は、階段から落ちたあとに犯人を見たのですよね。僕が聴いた話では、その犯人は女子。背が高くて髪が短かった。そうですね、水沢先輩」

「そうだよ」

「そして顔の特徴は見えなかった。残念ながら」

「しかし、それは可怪おかしいのです」

 築垣は階段の上へ手を差し伸べ、この階段を見てくださいと言った。

「三十段ほどはあるでしょう。高さで言えば、水沢先輩の背丈の、ゆうに二倍はあります。もしも、この階段のいちばん上から突き落とされたなら、大怪我はまぬがれないでしょう。良くて骨折、最悪死んでしまうことも考えられます。ところが水沢先輩は――」

 捻挫で済んでいます、と築垣は言った。

「もちろん落ちたときの体勢などによってはありえないことではないでしょう。でも可能性は低い。ということは、水沢先輩は一番上から突き落とされたわけということになります」

 つまり途中から突き落とされたことになる、と築垣は可能性をしぼる。

「仮に、階段の中間辺り、もしくはそれよりももっと下で背中を押されたのだとしましょう。それならあるいは捻挫程度で済むかもしれません。おそらく、だからこそ、水沢先輩は床に転げ落ちてから犯人の後ろ姿を見ることができたのでしょう。でも、だとしたら、犯人の顔を見ていないなんてことはないはずなんです。だって――」

 築垣は階段の一番上を指差す。

「階段の突き当りはUの字に折れていますから。階段から落ちた水沢先輩が犯人の背中を見たのなら、犯人は上へ逃げたことになります。となれば、犯人は一番上まで上り詰めたところで、あのUの字を曲がるために、一瞬かもしれませんが横顔を見せることになります。しかも髪は短かったということですからね、横顔を隠すものはないはずです。でも水沢先輩は横顔さえ見なかったと何度も主張しています」

 水沢先輩、と築垣は低い声で俺を呼び、

「本当に犯人の顔を見なかったのですか。いや、そもそも――」

 本当にと核心をいた。

「う――」

 声が詰まる。

「どういうことだ」

 林田が築垣の後ろから顔をのぞかせた。詩織と忍川は立ち尽くしているばかりだ。

 ――ここが。

 ここが覚悟の決めどころかもしれない。

 俺は観念して、築垣の問いに答えた。


「犯人は――いなかったよ」


 そう。俺は突き落とされたのではない。

 

 築垣は深く、ゆっくりと一度、頷いた。

「理由はやはり、サッカーのレギュラーを勝ち取ったから――でしょうか」

「そこまで、わかっているのか」

 再度、築垣は頷く。

「なんで、わかったんだ」

「正確には分かったのではなくて、想像が的中しただけです。休み時間、大松先輩と話していたじゃないですか。大松先輩は、新しくレギュラーになった水沢先輩に、ずいぶん期待を寄せている様子でした。だから――」

 俺は手をかざして、築垣を止めた。

「もう、いいよ。その通りだ」

 みんなと仲良くしているだけではなく、どこまで自分の技術が通用するのか試してみたいと思ってこの学校のサッカー部に入部したものの、いざレギュラーになってみて分かった。周りからの期待が想像以上に重いと。

 その重さに耐えきれずに潰れてしまいそうな気持ちにもなったが、だからといって今さら辞退もできない。

 辞退もできず、期待の重みに耐えることもできなかった俺は、考えた末に――。

 わざと怪我をしようと考えたのだ。

 そう語った。

 築垣は頷いた。

「つまり事故のせいにしようと考えたわけですね」

「そうだ」

「水沢先輩が作り上げた架空の犯人が女子だったのは、林田先輩ではないことを強調するためだったんですね」

「そうだよ」

「ところが、事故は事件になってしまった。しかもその事件の犯人として、友人である林田先輩が疑われてしまった。だから、ぼくに依頼をしてきたのですね。事件を解決してほしい、ではなく、冤罪を晴らしてほしい、と」

 俺は唇を噛んで頷いた。

 高みを目指したいという傲慢ごうまんとも言える望みと、実際に勝ち取ったレギュラーという地位と、その地位にかかる圧迫感。それらは――築垣の言葉を借りるなら――俺にとってはまさにケルベロスそのものだった。

 三つの頭を持つ怪物を前にした俺は、自ら望んで立ち向かったにも関わらず、そのあまりの威容いようの前にすくんでしまったのだ。

 勇気も精神力も責任感も――何もかも足りなかった。

 結果、そのどれからも逃げられる唯一の方法を取ったのだ。

 それが、足の負傷だ。

 怪我を負えば、自らの望みを放棄したわけではないと

 怪我を負えば、責任から逃げたわけではないと

 怪我を負えば、圧迫感に負けたわけではないと

 何より――。

 自分でそうだと

 足の怪我は、唯一ケルベロスの隙をく方法だったのだ。

「ごめん」

 俺は林田に頭をさげた。

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