「描きたいものを我慢して、描くべきものを曲げて、あいつは受けの良さそうな絵ばかりを描いているんだ。自分だけならいいさ。でも、それを美術部員の僕らにまで押し付けてくる。僕たちのためじゃない。僕たちが賞をった場合、教えたのは自分だと威張いばるためだよ」

 それが我慢ならなかったんだ、と忍川は後ろの棚へ歩み寄る。

「小学生のころは描きたいものを描きたいように描いてたよ。評価は後からついてきた。それももちろん嬉しかったけど、描くこと自体が楽しかったし、完成した作品にも満足ができたからそれでよかった」

 なのに今は真逆だよ――棚に鼻の先が当たるれまで近づいたところで忍川は急に体を半回転させ、

「描くことが苦しくて苦しくて仕方ない」

 今までにない大声でそう叫んだ。垂れた前髪から覗く片方だけの目が、血走っていた。

「苦しんで描いた上に、完成した作品にはなんの満足感も得られない。ときには周囲からも評価されない」

 徒労だよ徒労、と吐きてるように言う。

「描くことを苦しいものに変えて、作品に満足感さえ抱けない。そんなことを一年も続けさせられてきたことが悔しかった。だから――」

 破り捨ててやったんだよ、と忍川はえる。

「猿渡の奴が自慢げに飾っていた『魔の夜』を」

「それを私は分かってた」

 か細い声で、詩織が言った。

「いつか何かやらかすんじゃないかと思って冷や冷やしてた。とくに今朝の忍川は尋常じゃない顔をしてた。だから忍川が美術室へ向かったとき、何かあったら止めるつもりで着いて行ったの。でも、正直なところ私も、猿渡にはいい思いをしていなかったから、あいつが痛い目に遭うならそれもいいと思ってた。だから、止めようとしたのだけど――」

 声をつまらせる詩織に代わって築垣が、止められなかったのですね語尾を繋いだ。

 詩織は黙ったまま、顎を引いた。

「事件が起きる前から、があったわけですね」

 と築垣は天井を見る。

 その途端――。


巫山戯ふざけんなよ」


 大声が美術室に響き渡った。室内の空気がびりびりと震えるほどの大声だった。鼓膜が痛む。

 声を上げたのは――。

 林田だった。

 林田は椅子を投げ飛ばし机を蹴倒けたおして、猛烈な勢いで詩織に近づいていく。顔が真っ赤に染まっていて鼻息が荒い。

「やめろ!」

 俺は林田を止めようとしたが、足を動かすことができない。立ちあがるのがやっとだった。

 林田の進撃は止まらない。さすがに危機感を感じたのか忍川がその正面に立ちはだかったが、

もやしはすっ込んでろ」

 林田に肩を押されて、蹌踉よろめいて転んでしまった。

 詩織本人も危機感を覚えているのか、棚に片手をかけて後退していく。それを林田が追う。

「やめろ林田」

 もう一度俺は叫んだ。が、もう俺の言葉は耳に届かないらしい。逃げる詩織を林田は追う。追いながら問い詰める。

「詩織おまえ、俺をもてんだのかよ」

 そうだな、そうだろと詩織の答えを待たずに一人で林田はしゃべり続ける。

「俺はおまえのこと好きだったんだぜ。だからここで語り合ったこととか、その後で目を瞑るように言われたときなんかははらの底から嬉しかったよ」

 いつになく林田は真面目だ。目がわっている。

「俺がそう思ってるってことを、おまえは利用したんだろ。始めっから俺を犯人に仕立て上げるつもりだったんだろ」

 そうだろうが、と近くにあった椅子をひときわ強く蹴りあげた。さすがサッカー部でレギュラーを獲り続けているだけのことはある。椅子は天井近くまで上がって、落ちて砕けた。

「ごめん」

 詩織は後退する足を椅子に引っ掛けて尻餅をついた。

「許さねえ」

「ごめん!」

 詩織は両手で頭を庇う。


「林田先輩も分かっていたのではないですか」


 林田の背後から――築垣がそう声をかけた。

 止めるのでもなく、叱るのでもなく、またしても築垣は、推理をぶつけた。分かっていたのではないか、と。

 ただ、分かっていたのか、までは言わなかった。

 林田は動きを止めて振り返った。

「分かってた? 何をだよ」

 築垣に鋭い視線を向ける。

「言ったはずです。今回の事件の犯人は――」


 ケルベロスだと――。


「ケルベロスの頭は三つです。忍川先輩と詩織先輩だけでは、頭は二つしかありません。残りのひとつが――」

 林田先輩ですよ、と築垣は言った。

「俺?」

 すでに林田の怒気は消し飛んでいるようだ。動きを止めて不可解そうに首を突き出す。

 どういう意味だよと問う林田に、行きましょうと築垣は言った。

「もうひとつの事件現場に」

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る